不審な刃物(BFC6)
十一月の早朝、神奈川県の秦野市西部で、きらりと光る胡乱な物体が目撃された。
第一発見者の男性が自宅近くの小さな畑で、作業中のことであった。光る物体が白菜の行列の上をゆっくりと飛行するのを不審に思って、男性が近づいてみると、それは一本の刃物であるとわかった。
刃物の寸法は二十センチ程度で、地面と水平に刃を向けた状態で自律的に飛行していた。地上からおよそ一・五メートルの高さを、人が歩くほどの速度で北東に直進している。
男の通報で警察が駆けつけた時には、すでに刃物は畑を通り過ぎ住宅地に侵入する寸前だった。若い巡査は勇敢にも刃物の柄を両手で掴んでみたが、止めることは叶わなかった。刃物は見えない力によって、巡査を引き摺りながら速度を緩めずに進み続けた。
応援に駆けつけた警官や近隣住人らによって、刃物を止めるためにあらゆる手段が尽くされた。石を投げても、金槌で叩いてもびくともしない。誰かが刃物の前方を全身で遮れば、直前で方向を変える。布や紙であればそのまま突き刺し破って進む。進行方向に住宅が迫れば、器用に旋回して家と家の僅かな隙間も通過した。
昼頃には刃物は室川沿いまで移動していた。
刃物の存在はすぐに住人たちに撮影され、複数の動画が日本中に拡散された。不審な物体を一目見ようと大勢が町に訪れ、鉄車や道路が渋滞し大変な騒ぎになった。この日、秦野駅の乗降者数が平時の十倍を超えたと記録されている。
刃物が人を襲う危険は無かったが、ついに怪我人が出た。
近くに住む動画配信者の十代の女性が、警察らの制止を振り切り刃物と並走しながら配信していたところ、走行中の原付バイクに撥ねられて病院に搬送された。幸いにも軽傷ですんだが、警察は事態を重くみて自衛隊に支援を要請する。三十分後には自衛隊が現場に到着し、危険物駆除のために本格的な作戦が展開された。
同時刻に、神奈川県知事より先に内閣総理大臣が一言コメントしている。会見では物体を『不審な刃物』と伝えるだけで、具体的な特徴や明言は避けたが、報道各局は動画と一緒に『未確認飛行物体』と紹介し、総理の言及も手伝って国民の関心は一層高まった。
自衛隊はあらゆる道具や重機によって刃物を停止させる用意があった。中でも油圧発電による強力な電磁石を搭載した重機には期待が持たれ、刃物の予想通過地点である広大な空き地に隊員は集まった。予定進路の把握が存外に容易だったのは、刃物が正確に北東を目指していたからだ。詳細な街の地図さえあれば進路と到着時刻は正確に計算できた。
自衛隊は機動力の高い優秀な小隊によって、刃物とピッタリ並走し空き地まで護衛した。一時間後、目論み通りに刃物は予定地点に到着した。
すると、刃物は彼らの作戦を見透かしたように、空き地の上空およそ十メートルの高さへと急浮上を始め、集まった隊員と重機を見下ろしながら通り過ぎた。現場の指揮を取った中隊長の咆哮が虚しく響く様子を、国民のおよそ四割が視聴している。報道番組のスタジオに招かれた著名な大学教授は「刃物は自ら避けたのではなく、予め定められた進行可能な未来を通り過ぎただけではないか」と発言したが、特に反響はなかった。
刃物が空き地を抜けて再び地面近くまで降下すると、自衛隊はすぐに次の策に動いた。作戦に協力していた近辺の地理に詳しい市役所職員が、刃物の予定進路の先に寺があることに気がついた。空き地を通り過ぎてから二時間後、秦野市の指定重要文化財である龍法寺に進路がぶつかるのだという。寺には大きな釣鐘が併設してあり、うまく刃物を誘い込んで鐘を落下させれば捕獲できるのではないかと考えたのだ。
自衛隊は速やかに寺の住職と連携しこの奇策を実行に移した。作戦はマスコミに漏洩し報道陣と野次馬が龍法寺に押し寄せた。ネットでは刃物を鐘で封じることから、歌舞伎の演目『京鹿子娘道成寺』を連想させると話題になり、勝手に『道成寺作戦』と命名して盛り上げている。歌舞伎では鐘供養に訪れ、舞を披露する娘が鐘に飛び込み蛇体となって現れるという恋物語であった。
秦野に夕刻が迫っていた。
刃物は計算通りに龍法寺の山門から敷地に侵入し、釣鐘に向かって真っ直ぐ進んだ。自衛隊は鐘の周囲を簡易な足場で囲い、鐘を吊るす龍頭に切れ込みを入れた。あとは刃物が鐘の真下を通った所で落下させるだけだった。 刃物は黙々と、そして順従に北東にある釣鐘を目指した。あと三十秒で目標地点に辿り着く。自衛隊の皆は緊張で一斉に喉を鳴らした。あと、十秒。鐘を落とす隊員の手が震えだす。三秒。夕日に照らされた刃物がぎろりと妖艶に光った。到着。
永い時をかけて煩悩を払い続けてきた寺の梵鐘が、ずんと落下した。
鐘の中の暗闇に刃物はすうと消える。
刃が鐘とぶつかる音はしない。完全な無音に誰もが不安になった。見えなくなった不審物の存在を確かめる術がないと、今になって皆は同時に気がついた。
長い沈黙を破って、中隊長が作戦完了の号を叫ぶと、大きな拍手が寺いっぱいに響いて皆の不安はどこかに消えた。
寺に安置された不動明王像だけが、厳しい顔つきで鐘の中をまだじっと睨んでいた。
<了>