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殺風景(BFC6)

ブンゲイファイトクラブ6 決勝戦用に準備していた作品です。
2291文字

 随分丁寧に話す人だな。というのが向井さんの第一印象で、他にこれといった特徴はない。  
 背丈は平均的で、服装は至ってシンプル。髪型も声色だって自然な感じで、年齢はよくわからない。百人の個性を百で割ったらできたような人だと思った。
 他人の顔が覚えられない私にとっては不都合な新人であったけど、喋り方が馬鹿に丁寧だったので、自然と向井さんのことは認識できている。
 相貌失認。一般的にはそう呼ばれていて、医者にも通ったが私の場合は軽度であり日常生活に支障をきたさなければ問題ないと診断された。
 だから私は人の背丈や骨格、仕草や声色、身に付けた物や雰囲気で区別している。他人の変化に敏感なせいで、よく気がつくね。なんて関心されることもあるが、おはじきを見分ける感覚でなんとかやってきた。人間とガラス玉を同じに捉えているなんて医者には言わない。
 人の顔を見ながら話す習慣が欠落しているせいで、向井さんに関する殊特な事情も、かなり遅れて知ることになる。

「あんた、向井さんと同じ班よね?」
 休憩室で六人衆の誰かにそう問われた。六人衆は私が勝手にそう呼んでいるほとんど同じ姿形のパートの老婦たちで、私には誰一人の区別もついていない。いつも一緒にいて声色や話し方までそっくりだから、私の脳や耳は彼女たちをまとめて一つの人格として扱っていた。
「だってほらね、向井さんって顔がないでしょ。大変じゃなーい? 大変でしょ。大変よ。こみゅにけーしょん。読み取れないでしょ? 笑顔がないしね。怒ってるかも知れないじゃない。混乱するわ。話すといい人なのよ。あら、このお菓子おいしい。やーだ今話してるんじゃない。顔がない人なんて滅多にいないからね。不思議よね。覚えやすいわ。でもだって、ねえ。顔がないって。大変よ。お化粧しないの? してるわよ絶対。なんだかこの前いい匂いしたんだから。香水? そうよそうよ。私なんかバルサンの匂いしかしないわ。やだもう。あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 ガラス玉がぶつかるように騒がしく耳鳴りがした。冷蔵庫から買っておいたお茶を取り出し、早々と休憩室から退散する。向井さんがここに来てもう一ヶ月が経っている。顔がないなんて全く気が付かなかったので、驚いた。

  お台場の埠頭の倉庫前に広がる本当に何もない風景を眺めながら、顔がない。ということを何とかイメージしてみる。
 ……そもそも私にとっては顔を覚えないことが普通のことなので、顔が存在しない世界が普通になっている。だから、ない顔を頭に浮かべることは、ある顔を認識するのと同じく私には不可能そうだった。
 向井さんとは何度も世間話をしているから、当然口はあるし、聞く耳もあるのはわかっている。前に倉庫の壁を業者が塗り直した時に、ペンキが臭いと話した覚えもあった。鼻だってあるはずだ。それでどうして顔がないのか。のっぺらぼうに近い? 凹凸のない真っ平に、鼻や口に似せた穴が空いている。確か、再度の怪と言ったっけ。妖怪図鑑に載っていた。二度、人を驚かすだけでほとんど無害。これといった主張や私怨のない怪異で好感が持てるやつだ。
 主張の無さに関して言えば、向井さんにぴったりだと思う。わずかな時間、と言っても一日八時間も隣で一月仕事を共にしてきて、あの人が意思や感情を表現したことはほとんどない。私はそれが気にならなかったので、社員さんが私と同じ班にした理由がそこにあれば、見事な采配だと感心してしまう。

 休憩時間が終わって、私はいつも通り向井さんの隣で作業を再開した。  
 顔はまだ見れていない。変に意識してしまって、普段通りに振る舞うのがやっとだった。
 青い箱いっぱいのケーブルを、黄色い箱に結んでは投げ入れ、結んでは投げ入れる。空港で貸し出すポケットワイファイの充電ケーブルを結ぶ仕事に必要な資格はない。ただ、素質は求められる。考えないこと、期待しないこと、無心であることが何より重要だ。私はそれが得意で、この仕事が子どものなりたい職業であれば、メジャー級の実力を買われて豪邸に住んでいた。今日ばかりは遅々と進まない時間と減らないケーブルの山が耐え難い。
 目の端にちらつく向井さんの真っ白な指がどうしても気になってしまう。人間は顔以外でも感情を表現できるから、指や脚の動きを見れば気分ぐらいはすぐにわかる。今日は上機嫌に見えた。
 向井さんは普段と変わらぬ様子で、ケーブルを器用に一息で巻き付ける。最初からスジが良かった。長い指がケーブルを摘んで、くるりと動くと手綱こんにゃくのように見事に引き締まる。それを変わらぬペースで繰り返す。乱れぬリズムとテンポ、たまに絡まったケーブルを引っ張り上げるズレがグルーヴを生んでいる。紐の捩れが指を動かし、繰り返す波になって、青い箱が空っぽになるまで時間を結び続ける仕事なのだ。
 向井さんの指が、ぴたりと止まった。
 手に取ったケーブルが劣化し、ビニルが破れているのに私も気がつく。不良品は赤い箱に投げ捨てる。それを教えたのは私だった。何十回と貸し出されたケーブルは破れたり折れたりして断線し、こうして役目を終える。
 そのケーブルは劣化具合が微妙で、新人には廃棄の判断に困ると思った。おそらく向井さんは、丁寧な言葉づかいで呪文のように雑談を始めて、流れで私に廃棄の判断を仰ぐだろう。捨てるべきか迷った時は捨てるべきです。とはっきり答えるために舌を備えた。

 向井さんはしばらくケーブルを指で弄ぶと、両手で握りなおしブチンと捩じ切った。
 私は初めて向井さんの顔をじっと凝視した。

<了>

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