マスメディアの消失と〈総合誌〉だけが持つ機能
先月、代官山蔦屋にて #PLANETS10 刊行記念のトークイベント「いまなぜ新しい〈総合誌〉が必要なのか」に登壇してきました。イベントに併せて考えていたことを、備忘録的にまとめます。
マスメディアの消失と現在
まずあった仮説は、マスメディアの機能を「総合誌」は持ち得るのではないかということ。テレビを初めとしたマスメディアをを見なくなったことで、実感値として政治的ニュースに触れることがなくなり、無自覚的になるコンテンツが明確になった。
インターネット(今ではリアルも)アルゴリズムから自由になりうる場所は、もはやない。マスメディアの消失はつまり、「アジェンダ・セッティング」するメディアがなくなったことを意味する。
グローバルマスメディアとしてのポテンシャルを持つNetflixも、パーソナルなアルゴリズム・ドリブンな設計。
現象としてのインフルエンサーの勃興は事実としてあるが、アジェンダセッティングをマスメディアで行えるプレイヤーは今どこにいるのか。総合誌は建て付けからして、カウンター・フィルターバブル。特に『PLANETS』のような作りである場合は。
例えば、「遅いインターネット計画」に興味があるから僕は雑誌を読み始める。その入り口がなければ延長線上として、アニメや政治について僕の目が行くことも、関心が持つこともなかったはず。ここにおいて、紙というオールドタイプの物理的な、インターフェースが逆説的な効力を発揮することになる。
Everything is skippable
考えてみれば、インターネットの設計原理を一言で表すならば「スキッパブル」。つまり、"タップ"、"スクロール"、"スワイプ"、あらゆるデバイス上の動作はユーザーの能動性に託された最適化志向である。UI(ユーザーインターフェース)の呼称から明らかなように、主導権は「ユーザー」に帰属する。
3歳の姪っ子はいつもApple TVでYouTubeを観ている。3歳の彼女が、リモコンで何気なく動画のアドをスキップしている様子は考えさせられるものがある。テレビにおいて、ザッピングは可能としても、強制的に番組やCMを見せてくる側面は確実にある。TOYOTAのCMから車に興味を持つことがあるかもしれない。
テクノロジーによって、世界は狭くなったが、それによって想像力も貧困になった?のかどうか。映画の興行収入が増え続けているのは、スマホを触れない強制空間で、世界に没頭できるのがもはや映画館しかないから?
いま、IPTはどこに宿る?
マラルメの「世界は一冊の書物に至るために作られている」という言葉が好きだ。総合雑誌は、何冊もの、いくつものテーマをくぐり抜けて、大きな一冊を読むという、重層的な体験でかつ、知のインプットプロセスである。すなわち細切れの、情報効率の観点からいうとコスパが一見悪そうに見える。
しかし、読書の過程である閾値を超える、すなわち通読した後に得られる立体的かつメタ的な知の次元に触れられたとき、明石ガクトさんが言う、IPT(Information Per Time)の高さに気づく。可処分時間の投下先が熾烈な争いを繰り広げる中、本や総合雑誌の価値はその辺りにまだまだ宿るのではないか。
先日 #朝渋 に登壇した際も触れたが、極論Webには軽いものしかない。僕は重いものにお金を払いたい意味が分からない本にしか、意味がない。意味が分からないから立ち止まって考える。ウェブにおいてはKPIがビュー数やUU数になるので、どうしても易きに流れ、最下層(大衆)に設計基準が置かれる。
だからこそ逆説的に、単純な情報は「Web」、体系的な情報は「本」、世界観に触れ、新しい物事・考え方に出会うのが「総合誌」と乱暴な簡略化した整理であったとしても。一覧性、地続き性がある、紙・雑誌というインターフェースが再評価される可能性に目を向ける意義はあるのではないだろうか。
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