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アカデミー通信Vol.22

今回は、ジュニアユース(U13)の山本が担当いたします。

どのような題材でお届けしようかと考えましたが、自分にしかできないお話は何かと模索した結果、今回はクラブアカデミーの歴史を少しお話ししようと思います。

 

 レノファアカデミーとして10年目が経ちましたが、それ以前は「レオーネ山口」というクラブで、スクール〜ユースが活動していました。

 レオーネ自体が発足したのは1997年。スポ少所属だった自分(6年)でしたが、山口県出身のプロ選手が引退して山口でサッカースクールを始めるという話を聞いて入団を決意。レオーネOBです。

 当時はまだキック&ラッシュ(蹴って走る)が当たり前の時代に、いきなり「蹴るな!」という真逆のことを言われる衝撃は今でも忘れられません。

 それでも人数も少なく、弱小チームだった自分達が相手にしてもらえるチームも少なく、苦肉の策?でよく練習試合していただいたチームが、下関中央工業(たしか)。
今のレノファウェストの代表を務める宮崎大大大先生が当時率いていた高校チームです(たしか)。
そこからのご縁なんですねー(たぶん)。
弱いチームが同年代ではなく高校生を相手にするという矛盾と理不尽な環境で鍛えられました。
今では飛び級が当たり前の時代ですが、その先駆けとなったのが自分達なのです!(適当)

 

 ただ、中学3年になっても弱小は変わらず、高校・大学を経て7年ぶりに指導者として帰ってきた時に、二度目の衝撃が訪れます。あの弱小チームの面影は全くなく、それどころか中国地域においても強豪に分類されるであろうチームに変わっていました。

 ボールを大切にするスタイルは変わっていませんでしたが、パスを繋ぐサッカーから、自分で相手を剥がす・自分でゴールに向かうドリブルサッカーになっていたのです。

 元々そのようなスタイル(指導方針)を持っていたのか、年月を経るうちにそれが必要だと思ったのか興味はありますが、いずれにしてもこの変化には驚きました。まぁ下手くそな自分達にはできないスタイルでしたけどね・・・。

 自分が指導者としての1年目にいた選手たちの中に、秋月コーチ(当時中3年)やヒロコーチ(当時中2年)がいました。2人とも昔と変わってない(褒め言葉)。笑

 さらには、蒼悟コーチの6年時も担当させてもらえました。あの

年代も変なやつ個性豊かな選手が揃ってて楽しかったですね(最大限の褒め言葉)。

 レノファ山口FCがJリーグ入会するタイミングで、レノファの下部組織となり名称変更したのが2015年。そこからも数多くの選手に関わらせていただき、数多くの思い出とともに今に至ります。

 河野孝汰選手や末永透瑛選手の成長をジュニア時代から身近で感じ、トップチーム昇格を果たせたときの喜びを味わうためにやってきたと言っても過言ではありません。いつかの試合で、コータとトーアの2トップが実現した時は、胸熱のメシウマでした(意味違う)。ジュニアユースまでレノファに所属し、現愛媛FCの行友翔哉選手も2人の間の世代です。いつか帰ってこないかなー。

 これからどんな選手がトップ昇格を果たすのか楽しみにしながら、目の前の選手たちと向き合っていき、一人でも多く山口県出身の選手がレノファ山口FCで活躍できるようにこれからも選手と共に精進していきます。今後とも応援よろしくお願いします。

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