<ロダンの庭で> あゝ無常
ゆく河の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず
年の初めに、今年の目標を二つ定めた。
一、積読を減らすこと
一、断捨離をすること
ここ数年、毎年目標に掲げているが、年々読みたい本が読み終える本の数を上回り、近づこうとすればするほど蜃気楼のように遠ざかっていく。
このままいくと、永遠に読まれない本がビックバン級に増えてしまう。そこで、今年こそは目標達成を心に誓い、まずは現状分析のために視覚化してみることにした。
はじめに現在未読になっている本を数えてみる。
すると、いきなり壁にぶつかった。
というのも、紙の本と電子書籍が重複していたり、クリスティーやモームのようにいくつもの長短編が一冊の本に収録されていたり、言語違いで同じ本があったりと、結果的に正確に数えることは不可能であるという事実が判明したのである。
そこで、ひとまずざっくりと言語別に数えてみた。
正確な数字がわからないとはいえ、なかなかの数であるということは把握できた。
つまり、数を数えたり文章を書いている暇があれば一冊でも読むべしという危機的な状況らしい。
なるほど。
視覚化すると自分の置かれた状況がよく分かる。
私は、物に囲まれているのが苦手である。
物から発せられるエネルギーに共振し、一種の疲労感を覚えてしまうとでもいえばよいだろうか。
そのため、どうしても定期的に要不要を見極め、不要な物を手放すという作業が必要になる。
一方、物に囲まれていても幸福感を見出せる人たちがいる。私の友人たちはほぼこちらの部類に属し、私が断捨離できないことを嘆くたびに、なにも無理に捨てる必要はないという魅惑的なアドバイスを頂戴する。
なるほど、と思う。
私は潔癖症でも完璧主義者でもないが、周囲からはいつも部屋が整理整頓されており、何事も完璧を目指す人間だと思われている節がある。
これについてはとくだん否定も肯定もしないが、自分で見る自分の姿と、他人から見た自分の姿が乖離しているのは面白い。
ところが、巷では物が少ないともっぱら評判なのに、引越しの際には一体どこから出てきたのかと目を疑うほどいろいろな物が出てくる。
断捨離の思想には、断行・捨行・離行という三つの行法があるらしい。
私の場合、断捨離するとはいっても簡単に物を捨てたりはしない。自分にとって不要な物が他人にとっても不要であるとは限らないからだ。物を大切に思うからこそ、使わない人間ではなく、使ってくれる人の元でその用を全うしてほしいと思うのである。
したがって、いつか使うかもしれないという可能性と、ずっと使わないだろうという可能性を秤にかけ、リサイクル業者や買取業者へ持ち込んだり、友人たちに譲ったりする。実に面倒である。だから、こまめに整理しなければならないのだ。
私はここで「断捨離のすすめ」という人生哲学を披露しようというのではない。物に対する考え方は、単に嗜好の問題だ。
物を所有するということは、一つの執着である。
物事にこだわるのも、人との付き合い方にこだわるのもまた執着である。
初めはポゼッション=所有していたはずのモノ(物や事や人間関係を含む広義の「もの」)が、やがてモノにオブセッション=憑依されていく。これが執着というものだ。
そして私には、この執着というものがどうしても窮屈に感ぜられる。
かつて、なにも足さない、なにも引かないというキャッチフレーズのCMがあったが、あれは添加物を入れずに素材そのものを大切にするということなのだそうだ。
しかし、何も引かない素材として何を選ぶか、ということについては多くの試みがあったはずである。つまりなにも引かない領域に達するためには、何かを足していくことから始めなければならない。そうして足されたものから不純な物や不要なものを引いていき、真に必要な要素だけが残されていく。
故に私も、人生で遭遇するあらゆるモノを時間の中で濾過し、シンプルでオリジナルな本質を掬い取りたいのだ。そこには、本質を包むための「余白」という存在も欠かせない。それは、禅の哲学に似ているかもしれない。
地上の生きとし生けるものは、いつかは死ぬ。
子供の頃に死後の世界を想像して、意識の流れを止める実験をしてみたことがある。座禅を組み、目を閉じて、何も考えない時間と向き合う。
ところが、まもなく春の暖かな陽が瞼を照らし、鳥の囀りが耳を撫で、スープの香りが鼻をくすぐり始める。
私は、すぐに無になることの難しさを悟った。
何か一つだけ真実があるとしたら、死後の世界には何も持って行けないということである。
だから、せめて己の魂の中にあらゆるものを詰め込んでしまいたいのだ。
淀みに浮かぶうたかたは
かつ消えかつ結びて
久しくとどまりたるためしなし
<ロダンの庭で>シリーズ(3)
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