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おカネは単なる数字である。

おカネは単なる数字である。

おカネは単なる数字である。
おカネは一種の宗教である。

おカネの本質に気づいていないものは、
おカネに振り回され、おカネに消費されていくのである。

もう一度言おう、
おカネを消費するのではなく、おカネに消費される、されていくのである。

物々交換の時代から、
石がおカネとされたり、お米がおカネになったり、塩だったり
実際に金がおカネにされたり、
銀銅etc.、その後紙がおカネとなり、今や単なる数字(厳密には暗号資産など)がおカネとなっている。

モノやサービスを「○○円」や「○○ドル」、「○○ユーロ」などと表すことによって、あ らゆる商品の価値を同じ尺度で表すことが可能になる価値尺度。 貨幣はどんな物にでも交 換することができるので、交換が円滑に行われ、物々交換をしなくてもすむ交換手段。
がおカネ

大昔にはお金というものはなく、常に物々交換。
だけど物々交換は大変効率が悪く、難しい。
例えば魚を持っている人が肉を食べたいというとき、
肉を持っていて魚を食べたいなって思う人と会わないといけない。

さらに肉や魚はそのうち腐ってしまい、長期の保存が効かない
その時に一番いいのは、
とりあえずみんなが欲しがるものに交換しておくこと、
みんなが欲しがるものに代えておけば、いつでも交換できる。
これが日本の場合、最初は稲つまりお米でした。
そのころは稲のことを「ネ」と呼んでいたと考えられています。
それがやがて値段の「ネ」の語源に

中国では珍しい貝殻が選ばれた。
「子安貝」というキレイでみんながほしがる貝、
とりあえず子安貝に変えておけば、
その貝で何か他のものを買うことができる。
これがお金の起源になり、
漢字でお金に関する文字には全部貝が入っていき、
貴重品の貴の下、貨幣の貨、購買の購、買うという字の下。
売るという字も昔は下が貝でした。
貧しいの貧もそう、全部貝が入っています。

古代ローマでは兵士への給料は塩でした。とりあえず塩を持っていれば、貴重品だから他のものといつでも交換できる。ラテン語で塩のことをサラリウムといいます。そこから英語の「サラリー」という言葉が生まれた。

そうすると、やっぱり一番いいのは金や銀なんです。金・銀・銅。
すぐに手に入らないし、そこらへんに転がっていない。
かつ古代の幼稚な技術でもすぐに溶かして一定の形にすることが出来ました。
だから通貨として、お金として使われるようになってきたのです。日本でも、結局は金貨や銀貨が使われるようになり。
始めた当初はよかったのだが、大規模な商取引になると、
金貨・銀貨・銅貨をジャラジャラ持って歩くのは危ないですね。
重いですし、途中で盗られるかもしれない。
そうするとたくさん持っているお金持ちのところに行って預ける。
そのお金持ちが「確かに預かりました」と預かり証を紙に書いてくれる。
その紙さえ持ってくれば、いつでも金と交換してくれる。
この預かり証がまさに信用になる。
預かり証を持って行けば金に換えてくれますけども、
どうせそうなら換えなくてもいいわけです。
それまた別の買い物に使えばいいわけです。
そうして預かり証自体がお金の価値を持つようになって、
これが紙幣のはじまり。

「預かり証」には、この金額と同じだけの金と変えてあげますよと記載し
これを「兌換紙幣(だかん・しへい)」といい
兌換とは、交換する、取り換えるという意味。

明治維新後にできた日本中のいろんな銀行は、
もともとは両替商でした。
両替商は自分が持っている金を担保に、
それぞれが勝手に紙幣を発行していたのです。
そうすると中には悪いことを考える人が出てきます。
持っている金の量以上にお札を刷ってしまう、なんてこともありました。

その地方でお札がいっぱい出回ると、
「ほんとに金があるのだろうか」「取りあえず金に換えておこう」となり、取りつけ騒ぎが起きて、つぶれる銀行が出てきました。
あそこがつぶれたらこっちは大丈夫なんだろうかという形で
金融不安が広がります。

明治政府としてはお札を発行できるところを、
一つだけにしたほうがいいと考えます。
国の信用がバックにある、
ちゃんとした銀行だけがお札を発行できるようにしよう。
それで中央銀行として日本銀行が誕生したわけです。
だから日本銀行だけがお札を発行できる。
他の銀行はお金の貸し借りはするけれどもお札の発行は出来ないよ、
という仕組みになりました。

兌換紙幣は、お札を銀行に持っていけば金と代えてくれるという形でした。つまり金本位制でした。
しかしながら、金本位制は第1次世界大戦後に大混乱の中でやめることになります。
金本位制というのは、たとえ景気が悪くなったりしても、
そこの中央銀行が持っている金の量の分しかお金を発行できないわけです。

景気のためにはお金の流れを良くしたほうがいい。
ところが金の量しかお金が発行できないから経済が発展しなくなる。
だから、もう金の量に関係なくしようとしました。
これが金本位制からの離脱です。
それによって、兌換紙幣じゃなく不換紙幣、
金と交換できないよとなったわけです。

それまで私たちは、
千円札はいつでも千円分の金と代えてくれるからこれに価値があると思っていました。
ところが金本位制をやめた瞬間に、ただの紙切れになった。
ところが、これはお金なんだという信用・信頼は残りました。
あえて言えば共同幻想です。
みんながお金だと思い込んでいるこのことが、
お金として通用し続けていくことができることにつながります。

そう、おカネはただの数字なんです。
しかし、おカネは別の側面を持ち合わせています。

そう、信用、信用の取引なのです。
クレジットカードはその代表と言えるでしょう。

銀行と信用金庫って何が違うのであるか
銀行は、
株式会社であり、株主の利益が優先されます。
 ... また、大企業を含む全国の企業等との取引が可能です。
信用金庫は、
地域の方々が利用者・会員となって互いに地域の繁栄を図る相互扶助を目的とした協同組織の金融機関で、
主な取引先は中小企業や個人です。

信用取引とは、
現金や株式を担保として証券会社に預けて、
証券会社からお金を借りて株式を買ったり、
株券を借りてそれを売ったりする取引のことです。
最大預けた担保の評価額の約3.3倍まで株式の取引ができます。
現物取引しかできなければ、
ある銘柄を買いたいときにお金がなければ買えず、
またすでに株券を保有していなければ売ることもできません。
これでは株式市場に参加できる人が限られ、
結果として、わずかな売買高でも株価が大きく動く可能性も出てきます。
そこで導入されたのが信用取引です。
この制度があれば手持ち資金や手持ち株券を担保にすることで株式を売買することができるため、売買高が増加し、市場における公正な価格形成が促進されると考えられます。

クレジットは、消費者と契約する相手の数によって2つに分けることができます。

2者間契約
販売会社に商品等の代金を後払いにしてもらうしくみです。デパートで洋服を買うと、後日、そのデパートに代金を支払うわけです。契約の当事者は販売会社と消費者で、一般に「2者間契約」といいます。
ここでは、商品等の購入先と代金の支払先はいずれも販売会社です。

(後払いによる)売買契約
消費者と販売会社との間で、後払いによる売買契約(代金後払いで商品などを引き渡す契約)が結ばれます。

3者間契約
もう一つは、消費者と販売会社との間に専門のクレジット会社が入るしくみです。このしくみでは、消費者が販売会社で購入した商品等の代金をクレジット会社が立て替えて販売会社に支払い、後日、消費者がクレジット会社に支払います。契約の当事者は、消費者、販売会社、クレジット会社で、一般に「3者間契約」といいます。
ここでは、商品の購入先と代金の支払先が異なります。デパートで洋服を買ったとしても、後日、代金を支払う先はクレジット会社になります。

①売買契約
消費者と販売会社との間で結ばれる商品等の引渡しに関する契約
②立替払契約
消費者とクレジット会社の間で結ばれる代金の支払いに関する契約
③加盟店契約
販売会社とクレジット会社との間で結ばれるクレジットの取り扱いに関する契約

世界中に加盟店を持つ国際ブランドのマークをつけたクレジットカードが主流になっています。
このようなカードでは、カードを発行するクレジット会社と加盟店と契約するクレジット会社が異なる場合があります。カードを発行する会社を「イシュアー」といい、加盟店と契約する会社を「アクワイアラー」といいます。しくみは4者間の契約になります。

借金苦を理由に自殺する方は多い。
借金が多くても命は本来取られません。
なぜ、死を選んだり、苦しむのでしょうか。

おカネがないと生きていけないと”勘違い”しているからです。
借金あっても踏み倒せば良い。と肯定しているわけではありません。笑

おカネはおカネに過ぎないということです。
あなたの命の燃料はおカネではないということです。
おカネはあくまでもツールやモノサシに過ぎないのです。

この国ではお金持ちは毛嫌いされるし、
貧乏人も好かれません。

人間性や人格、その人の能力は見られていないと言っても、
極端なことではないでしょう。

そう、能力や人間性、人格は人それぞれであり、
好き嫌いも人それぞれなのです。
だから、おカネというひとつの尺度(モノサシ・スケール)を用いて
万人に判断し得るようにしているに過ぎないのです。
そして、そのモノサシも万能であると勘違いをし、
万能でないことに気づいていません。

おカネというただの数字、モノサシに囚われ、振り回されています。
本質に目を向けることすらしていない、故に出来ていないのです。

お金の本質は上記までにも出てきましたが、
信用です。

信用、要するに人間性や人格、その人の能力とも言えます。
それをマネタイズする術が大事。
マネタイズ出来なくても、食べさせてもらえたり、
養ってもらえば極論良いのです。

極論を推奨する暴論を話すつもりはもちろんありません。

しかし、
おカネに囚われ、振り回されることは否定し、
価格ではなく価値を推奨し、

時間をお金ではなく、時間を価値に交換し、価値の資産を蓄えることを推奨します。
その価値は人によっては知識や経験値(経験知)、能力、人間性、人格といえ、それが信用となり、
信用から信頼を得て仕事やマネタイズにつながっていくのです。

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