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ご自由にお持ち下さいの循環 2


前回の記事に書いた「ご自由にお持ち下さい」の循環。

この思いつきに興奮したわたしは、それについて他の人の意見を聞いてみたくなった。

時は昼休み。職場での出来事である。

わたしはお弁当を食べている幸田さん(仮名)の席まで行き、話しかけてみることにした。
食事をしながらYouTubeを見ていた幸田さんは、珍しい来訪者の存在に気がつき「どうしたんですか?」とイヤホンを外して傾聴体制に入ってくれた。

幸田さんはわたしよりひと回りくらい年下ながら、その知識は広く深い。多ジャンルのオタクであり好奇心旺盛な彼女は、どんな方向にボールを投げても、必ず受け止めてくれる頼もしい存在だ。

わたしは幸田さんに「ご自由にお持ち下さいBOXと、ご自由にお入れ下さいBOXがあったらどうしますか?」と聞いてみた。

意図がわからない唐突な質問だ。しかしそこは懐の深い幸田さん。顔色ひとつ変えずに「うーん。私だったら貰うよりも入れたいですかねぇ。要らないものいっぱいあるんで。」と返ってきた。

そう来たか。と思った。

ご自由にお入れ下さいBOXを作ると決めた時点で想像できそうなものだが、わたしは「入れたい」側の存在を想定していなかった。

不用品が「欲しい」人と、不用品が「あればあげてもいい」くらいの人に分けていたのだ。

わたしは長年、道端で見かける「ご自由にお持ち下さい」達を写真に撮って記録に残すことをライフワークとして来た。

箱の中身は出品者の個性にあふれ、愉快なものから哀愁漂うものなど、そこにはドラマがある。わたしは写真を撮ると共に箱の中身を物色して、気に入ったものをいただいて帰るのも楽しみの1つとしている。

道端の箱から貰うわたしは、出品者の顔が見えない。彼らのスタンスを、不用品をゴミに出す前に一応持って行く人がいないか置いてみる。くらいの感じだと思っていた。

しかし考えてみれば、彼らはあげることを楽しんでいたのではないか。

自分は使わないけれど、捨てるには忍びなく、欲しい人がいれば使って貰いたい。それは、その「もの」に多少なりとも魅力を感じているから出てくる発想に思う。

魅力的なものを他人にあげる=プレゼントだ。プレゼントをあげるのは楽しいし、喜んでもらえれば嬉しい。

しかし貰う方は、必ずしも嬉しいとは限らない。(あげる方も楽しいとは限らないが、能動的な立場な分、その割合は貰う側と比較して少ないだろう。)

何故なら貰った相手は、何らかの形で返さなくてはならないと感じることも多く、プレッシャーになり得るからだ。それがわかっているから、無闇矢鱈にあげられない。

しかしご自由にお持ち下さいBOXの作成は、不特定多数に向けたものなので、相手に返さなくてはならないというプレッシャーを与えない。
箱の中身が好みじゃ無かったら立ち去ればいいだけなので、相手の嗜好を考える必要もない。

貰う側が気楽なので、あげる側も気楽だ。しかもあげる側は誰かに利益をもたらしているので気分が良い。

俄然「お入れ下さい」BOXが魅力的になってきた。

幸田さんはわたしに「入れる物は食べ物でも良いんですか?」「割り箸はどうですか?」「家電は?」など、矢継ぎ早に質問という形で問題提起をしてくる。

それに対しわたしは「食べ物はなんかあった時に怖いかな」「割り箸はお店で無料で貰えるから無しかな」「大き過ぎる家電は持ち運べないよ」と入れられるものを仕訳していく。

ただからっぽの箱だけ置いておけば良いと思っていた「お入れ下さい」BOXの運営の方が意外と難しいことがわかった。

昼休みが終わりに近づき、外食を終えて戻って来た才谷さん(仮名)も話に加わり、箱に入れるものについて、あれやこれやと検討が続く。やはりここでも、欲しいものよりもあげたいものの話題が中心になった。才谷さんもどうやらそこそこ不用品を抱えているようだ。

おしゃべり好きの2人は社内のポッドキャストと呼ばれ、親しまれている。一定のリスナーを獲得している2人の会話は、とりとめが無い様でいて、なかなか聞き捨てならない。

年末から年始にかけて、職場のフロアの片隅にも、ご自由にお持ち下さいと書いたダンボールが置かれていたそうだ。最初は取引先から貰うカレンダーばかりで埋め尽くされていた。そのうちちょっと良いノートなども混ざり始め、最盛期には某姉妹の写真集が入っていたという。職場で展開される「ご自由に」BOXにしては攻めたアイテムである。写真集は僅かの間に誰かが持ち帰り、魅力的なアイテムは徐々に減っていき、カレンダーばかりが残されたダンボールはいつの間にか撤去されていた。

1つの箱を覗いても、そこには栄華と衰退のドラマを垣間見ることができる。そんなご自由にお持ち下さいを、やはり自分でもやってみたいと思った。

つづく

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