幸せを想像してもいいんだ
幸せってなんなんだろう。
最近そんなことをよく考える。ぼくに、同性愛者であるぼくにとっての今の日本での幸せってなんだろう。
好きな人と結婚すること?好きな人と一緒に暮らすこと?子どもを育てること?いっぱいお金を稼ぐこと?犬でも飼いながら一人暮らすこと?
まだ、同性婚はできないし、養子も難しい…。うーん。好きな人と一緒に穏やかに暮らせたらそれでいいのかもしれない。なんにしても多少のお金は必要だよなーとか思ったり。
なぜ幸せについて考え始めたのか。
彼氏ができたというのが一番の理由かもしれない。一緒に旅行をしたり、映画を見たり、お風呂に入ったり、家でだらだらしたり…。異性愛規範としてだけど、小さい頃から延々と刷り込まれてきた、好きな人と一緒になって、結婚して、子どもを育てるという幸せをゲイだって享受していいんじゃないかって、幸せな未来を想像していいんじゃないかって25歳になって初めて思うことができているからかもしれない(想像できないノンケもいるのだろうけど、想像できないゲイはよっぽど多いと思うので、棚上げしておく)。
今まではそんなことを想像したこともなかった。制度として結婚はできないわけで、ましてや子どもを育てることも、外で手を繋いで歩いたりすることさへもできないわけで。どんな風に生きたって子どもは育てられないし、自分の勝手だろ、とか思ってた。
でも、最近はゲイを題材とした映画やドラマも増え、映画の中の話ではあるけれど、自分もこんな風に生きていけるのかもって思うことも増えた。僕たちに関する様々なニュースが大きく取り上げられ、普通に生きていいんだ、同時に自分たちがロールモデルになる時代なのかもと思うことも増えた。
というのも、ぼくの世代はちょうど過渡期のように感じるからだ。
大学生の時、ぼくはいわゆる体育会系の部活に所属していた。1年生だった頃は、言葉使いが女らしい先輩がゲイの出会い系アプリを無理やり入れさせられたりしているのを見て、ここでは絶対にバレてはいけないんだって、部活だって社会の縮図なんだって思った。でも、ぼくが3年生になった時の新入生で「ぼく、バイなんですよね〜」と何も気にしない様子で突然カミングアウトする子が現れた。衝撃だった。時代が変わった、と思った。
だけど、またとんでもない発言をする議員が現れた。少子化問題についての文脈で「LやGが増えたら、足立区が滅ぶ」、こんなことを言い始めた。怒りが沸き起こることもなく、ただ呆れるばかりだった。もちろん、自称ノンケを解放している身としては、増えることには間違いはないかも、とは思う(自分がある意味増やしているので)。でも、それは増えるのではなく、ただ今まで社会によって異性愛者だと規定されてきた人たちが、解放されているのだ。見えていなかった人たちが「可視化」、みんなに見えるようになったということなのだ。
#私たちはここにいる 、がTwitterで大きい動きとなっている。これは、白石区議の発言に対し、多くのLGBT+の人たちが写真付きで投稿をし、実際に存在していて、普通に生きているんだ、という表明をするハッシュタグだ。これでより可視化されたのではないだろうか。ある意味では白石区議の発言によって。もちろんその発言を肯定するものではないけれど、こうやって少しずつ社会は前進、後退、前進、後退、前進しつつ変化していくのだろう。やっぱり、良い方向に向かってるんじゃないか、と楽観的ながら思う。
もし、自分が小・中学生の時代に、自分のセクシュアリティを肯定してくれる存在がテレビにいたら、どうだっただろう。今こんなに自分のセクシュアリティと向き合うことはなかったかもしれない。こんなに悩むことはなかったかもしれない。だからこそ、今の小・中学生には同じような思いはしてもらいたくないと強く願う。
今、やっと、僕が想像できるようになった幸せを、もっと早くから想像できますように。
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