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悪童会議 旗揚げ公演「いとしの儚」感想

いとしの儚、観てきました!いろいろと解釈出来て、結構面白い作品でした。

@品川プリンスホテル ステラボール
07.08マチネ/07.14ソワレ

人でなしと人ならざる者の話

舞台を包む照明や衣装の配色が、暖色は「生」もしくは「俗」、寒色は「死」や「人ならざるもの」を表していたのが面白かったです。暖色は人の温もりもあるけれど、賭場や女郎屋の場面は赤やオレンジといった暖色に包まれていて、欲望とか依存とか、「俗」っぽいものを舞台から発していた。「業」もあるかな。反対に、墓場や鬼の語りや、人を殺す瞬間といった俗から離れた場面は青白いか青黒い。俗と死を対比するように交互に切り替えて「生」を表していたように思う。たぶんこのあたりは仏教に関する知識をちゃんと調べたら深掘りできて面白そう。

鈴次郎と儚も、生物学上の「人間」と社会的な「人」が互い違いになっているのがこの物語の面白いところだと思う。「人でなしと人ならざる者の話」とでも言おうか。鈴次郎は人間でありながら、社会から溢れてしまって「人でなし」だった。儚は人ならざる者ながら、お寺で教養を身に付けてからは社会に入れたために「人」だった(それでも尚「人間」を目指すからさらに面白い)。青黒いグレーの着物の鈴次郎はオレンジ色の光に包まれた賭場で浮いていたし、暖色の着物が多い儚は賭場でも女郎屋でも馴染んでいたのもこの意図があったんじゃないか。鬼シゲと青鬼の二人も、喜怒哀楽が豊かな鬼シゲは容姿が赤鬼で、物静かな語り部の青鬼は文字通り青鬼なのも。鈴次郎がサイコロを吐き出して青い空間に変わってしまうのも、殿様が手のひらを返す瞬間の真っ青な切り替えも一気に絶望に突き落とされる感じでよかった。
鈴次郎が妙海と三木松を刺す瞬間に真っ青な光に照らされて、物理的にも心理的にも鈴次郎は「青ざめて」、本当に人ならざる者に落ちた。青ざめた鈴次郎を抱きしめる儚は暖色の襦袢を着ていて、意図的な対比だった。人間ながら人でなしになった鈴次郎と、人ならざる者なのに人らしい道徳の儚という見せ方もまた切ない。人を殺すその動機って、俗世で生きてる人だからこそ発生するものだと思っているけれど(だからと言って許される訳ではない)イコールそれは「生」であり、生と性の物語の「生」の部分は「俗」を含んでいたんじゃないかと。

そういう「生」と、観客に没入感を持たせてありありと伝えられる舞台という表現方法は、相性がいい…というか、相性がいいを通り越して観客に伝わりすぎてしまうがゆえに、賛否両論を招いている節があるように思う。

人の皮を被った畜生か何かを観た気分

流司さんが演じてきた人物の中で一番きたない!!ガラ悪い!!うれしいっっ 下品を通り越して「品が皆無」「卑しい」という言葉がぴったり。ファンですら顔をしかめそう。涙袋にぐっと力を入れた上向きの半月状の目で卑しく笑う顔は鈴次郎を象徴する表情だと思う。物理的な凹凸が目の周りにしっかり出来ていて、顔の筋肉ごと使った物理的な表情づくりだった。イキるくせに自分より力の強い者にはしっかり怯えるし、博打以外は何も強くない。かっこいい殺陣が出てくることもなく、素人みたいにどたばたと刺し殺す。嫌悪感を抱くくらい汚いものを観てるのに、こんなに胸が躍るのはなぜだろう?汚ければ汚いほど、愚かであればあるほど、笑顔になってしまう。語尾が半音上がるひきつった笑い声からしか得られない栄養があるよ。
と、わたしは無邪気に観られるけど、ずっと大変なことをやっていて、今までの流司さんのヒール役と違うのは救いのない「人でなし」なこと。生物学上は人間でも、社会から外れてるが故に人ではない人を演じるのは相当しんどいと思う。人でなしが抱える孤独の本質を知る人は劇場にいない。その孤独を野良犬に喩えているのはうまいなと思ったし、荒々しい鈴次郎を観た私が「人の皮を被った畜生」という印象を持ったのは理にかなっていたんじゃないかと思う。笑   殺人を犯してしまった人の手記やノンフィクションを読むと、その本性は寂しく、案外おぼこい人が多かったりする。もどかしさや虚しさを、怒りや暴力でしか表現できないどうしようもなさ、賭場で頭を抱えて丸まって怯える姿や、土下座しながら震わせる肩、儚に縋るしわくちゃな顔… それらからはどこにも居場所がない、この世で一番の孤独が伝わってくる。それと同時に、かっこいいだけのアイドルにはできない役者を本当にやろうとしているのも伝わってくる。どうか頑張ってほしい。

社会から溢れてしまった人は人とは見なされず、でもその様一つひとつが人間らしい。それをすごく見せられた気がする。

撫でられたことのない野良犬の歌は、負け犬の遠吠えだ。人によってその孤独な姿がかわいそうで切なく感じるか、それとも癒やされるかが分かれるような気がしていて…… 私は世界で一人きりと感じる夜にこの姿を思い出して、孤独を癒やすと思う。

儚が花になり、一人になった鈴次郎が静かにするお辞儀が好きだ。人が俗から解放される瞬間、人がこの世から本当にいなくなる瞬間の諸行無常を感じる。直後に明るい音楽が始まって、あっけらかんとカーテンコールが始まるのも。

儚の説得力

儚が鈴次郎に翻弄される物語と思いきや、強く美しい儚に鈴次郎が吸い寄せられたのでは?とすら思える。こういう芯の強い女性キャラ大好き。
奏音さんの儚は、成長に伴った声の変化が本当にすばらしかった。振り絞るように泣き叫ぶ赤ん坊、話すのが楽しくて仕方ない幼児。幼い儚は「つ」の発音が苦手で「けちゅのあな」「なむあみだぶちゅ」とか言ってるのもかわいい。三木松と妙海が喋ってる外で不思議そうにお辞儀の練習してたり、膝を抱えて泣き出したり、大人の事情が全然通用しない異物感も自然と出していて、どの世代になっても発声も佇まいも仕草も、奏音さんうますぎる…!と震えるばかり。

お寺で教養を身につけて「人」になった儚。でもそれは完成形ではなくて、鈴次郎と一緒に過ごし始めるとそこに粗さが混じっていく。お寺での姿はまだ純粋な少女だったと私は後から気づいた。赤ん坊からお寺に預けられるまでは目まぐるしい成長なんだけど、お寺を出てからの変化は本当に少しずつで、観客はふとした瞬間に変化に気づくようになっていた。それが人の成長する様としてすごくリアルで。お寺までは女の子喋りだったのが、吐き捨てるような「あんた」とか「いいじゃないか!」とかが加わっていって、喋り言葉に少しずつ荒さが出てくる。状況の変化とともに芯の太さが加わっていって、太夫の歌声にはもう、ただ者は太刀打ちできないような強さがあった。ここでさらに素晴らしいのが、女郎屋や河原で駄々をこねてた幼い儚の面影が、大人になった儚の荒い声に残ってるところ。この成長を表すバランス感覚は本当にすごいと思う。お寺で「鈴なんか嫌いだ!」と怒る儚の場面が好き。人は怒りを表すことで自分の存在を示すことができるから、夜の河原で鈴次郎に言う「人間になりたい」に説得力が加わるように思う。

儚を観ていると、浅田真央さんみたいだなと思う。純粋な心の持ち主で、最初は楽しいや嬉しいばかりだったのが、やがて自分だけの人生ではなくなり、自分のやりたいことと他人から求められるもの両方に答えようとして、苦しみながら喜びながら、やがてそれはアイデンティティになり、自分の人生になっていく。それを最大限に発揮した時、ただ者には太刀打ちできないような強さと美しさを放っている。そういう芯の強さと深みを表現できる若い役者さんってなかなかいない気がする。

「いつか子供を産んで所帯を持って普通の暮らしをするんだ。鈴さんとの子が良かったけどしょうがない。私は一人でもやってみせる」といった台詞をものすごい強い口調で発する場面は、込み上げてくるものがある。あんなに「鈴さんと一緒がいい」だった子が、独り立ちする瞬間だから。この強さで、どこまでも生きていってほしくなる。

劇場のロビーにファンからのお花が所狭しと置かれていて、お花の香りで溢れた廊下を通って帰るのも良い効果だった。舞台上の花や花びらは造花だけど、外に出ると本物が迎えるという虚構と現実を、こんなところでも感じられる。月日が経つとお花は少しずつ朽ちていき、香りが弱まっていくのもまた「生」を表していると思う。

「割り切れねえ」に詰まってるもの

割り切れるサイコロの博打で生きてきた鈴次郎が初めてぶち当たった「割り切れない」もの。と言うより、自分の中でもずっと違和感を抱えながら言葉にする術を持たなかったものが、儚と出会って初めて形にできたのではないか。立つことすらできない、生まれたての赤ん坊の儚を置いて立ち去ろうとするものの、引き返して世話を焼く姿を観てると、鈴次郎もそんな幼児時代をすごしたんじゃないかと思ってしまう。「もっと酷い母親だったら」、世話が焼ける赤子の時点で見捨てられて、鈴次郎は賽の河原で石を積む子供になってただろう。
お寺で教養を身につけた儚と再開した鈴次郎は、人生で出会うことのない、観たことのない生き物に儚がなってしまったような感覚だったと思う。R&Jでジュリエットと出会う場面を思い出したけど、ロミオは見とれていて、鈴二郎は呆気に取られてる、全然違う状況だよね。自分の知らない儚になってしまった、それも決して手が届かないような雰囲気の。たった20日とはいえ赤ん坊の頃から世話してきたのに。天ぷらのつゆを飲んで笑われた鈴次郎は、恥ずかしさや悔しさや惨めさに加えて、別人のようになってしまった儚に謝られて、いろんな感情が幾重にも重なって、その気持ちの整理のつけ方が暴力しかなくて……  この舞台はそういう場面がいくつもあって、愛情を受け取るのにも器が必要だと思わされる。その器もまた愛情の一種で、だから鈴次郎は「愛を知らない男」なのかもしれない。差し伸べられた手に噛み付くしかできない鈴次郎は、どうして自分がそうしてしまうのか自分でもわからない。鈴次郎が捲し立てる暴言からはそれがひしひしと伝わってくる。鈴次郎が突然怒鳴る瞬間は、ほんの一瞬だけ戸惑ってから感情を吐き出していて、こういう絶妙な表現力は毎度のことながら流石だと思う。流司さんのお芝居には、想像力を引き立てる再現力がある。
絞り出すような「割り切れねえ」には、愛されなかった幼い頃からの葛藤と、噛みつくしかなかった日々で積み重なった葛藤がぎゅうぎゅうに詰まっていて、窒息しそうだ。

腰が重い青鬼

青鬼は死後の鈴次郎だから、観客は青鬼の身の上話を聞いている形になる。鈴次郎がさまざまな形で示した孤独と、青鬼が静かにじっとうずくまってる孤独は繋がってるように見えるから不思議だ。背中を丸めて腰掛けてる姿から哀愁を漂わせる感じ、流司さんの別の役で見覚えある気がするんですけど…!この役どころを声や顔が似てるを基準に選ばない茅野さん、流石だなあ。
「いる」でも「座ってる」でもなく「落ちてる」みたいな佇まいを感じられるのが私は好きで、青鬼はまさしく落ちていたし、腰が重そうなのもすごい良かった。鬼になる時に名前や財産は簡単に捨てられたけど、儚の想い出だけは捨てられなかったから、冒頭の「全部捨てるこった!名も財産も想い出もな」の「想い出」の前に一瞬言葉が詰まるんだよね。青鬼は後悔が晴れることはなくずっと想い出に縋っているという腰の重さで。「サイコロなんて石コロだ」とか言いながら自分は石に腰掛けてるけど、この腰の重さはいつか石と同化しそうじゃないですか。
儚を鈴次郎の子供とみるなら、子供を先に亡くした鬼が親より先に死んだ子供の地獄で働いてるの、閻魔様もいいお仕事を与えたなあと思う。

愛とは何か

さまざまな愛の種類の中で性愛を最上級とする感覚が理解できない私にとって、最終的に性愛に吸収されるこの戯曲は好きになれないものだった。(ナタリーの鼎談の茅野さんの発言が「性愛でしか表せないものがある」という主旨に聞こえてチケットを数枚手放したほどに。)観劇しながら、慈しみを見せられ親子愛のようになっていく姿に感動する自分もいたけど、クライマックスに向かうにつれてベールがかかっていくような感覚になる。儚から鈴次郎への思いは「大きくなったらお父さんと結婚したい」と言う女の子の延長のような気がする。女郎屋で覗くのも、お寺で学ぶのも、子供を持って暮らしたいと思うのも「一緒がいい」が原動力。暮らしも、人としても、鈴次郎と「一緒がいい」。その気持ちはすごく純粋な愛情に見えた。
複雑なのは鈴次郎で、鬼に懇願するのも儚の子を夢想するのもまた無償の愛の一種だと思う。でも、そこにたどり着くまでのふとした仕草ーー得意げに花を教える横顔だったり、鈴の音が聞こえなくなった時の「儚黙ってろ、音立てるなよ」だったりーーから、愛まで行かなくとも、自分が養う者に対する思いやりの芽のようなものを感じて、むず痒い気持ちになる。私は人を養ったことも養うこともないから、これはずっと言語化できないかもしれない。でも、これらがどれも性愛には敵わない愛情だとはとても思えない。

どこで読んだか忘れてしまったけど、誰かがこの物語を「業にまみれている、けれど美しい物語」と言っていた。あらゆるものを豊かに含むものとして、愛は美と似ている。さまざまな愛が描かれ、それらがとても美しかったことは、無関係ではないように思う。性愛の魅力がわからない私にはこれが精一杯だ。

20年前の戯曲なことは観ていてすごく感じるし、かといって無価値だと断罪することもできない。心を動かされたところをまとめるとこんな感じかなあ。身構えていたけど観劇後の感覚は良かった。明日は千秋楽だー