『ハンチバック』感想

健常者が重度障害者の日常を完全に理解することはできない。いかに自分が特権を持ち社会生活を送れているかを思い知らされる。「紙の本がいいなんてのは読書姿勢を保てる健常者の傲慢」という発言が話題になったが、その基となる日々が82ページに詰め込まれている良著。ほとんどずっと皮肉と愚痴を読まされてるような小説なのに、謎の小気味よさまである。

ついこの間まで自分もやっていたが、マイノリティを描いた作品を観て「これって〇〇にも置き換えられるよね」と感想を持つのってどうなんだろう。置き換える前に、描かれているその事象についてまず考えるべきではないか。この本は、その余地を与えない本だった。ASDグレーの私が「普通の人になりたい」と言うのと釈華のそれとは訳が違う。健常者が重度障害者の日常を完全に理解することはできない。人それぞれ違う経験を持っていることを自覚できる。違いの背景にある構造に目を向けなくては…と思った。

健常者がいかに気軽に命の生殺与奪の健を握るか。別の本だが、『正を祝う』で「子供に一方的に生を押しつける産意は人に死を押しつける殺意と同等の悪事」を読んだ時と同じくらい「障害者を中絶する健常者カップルがいるなら、殺すために孕もうとする障害者がいればバランスが取れる」という言葉にページを捲る手が止まった。これは、普通の社会生活をおくれなかったが故に生まれた歪んだ思想だろうか。私たちは全員、他人の事情で一方的にこの世に生まれさせられて、生を押し付けられているのに。

結末に登場する紗花の兄が殺した利用者とは釈華でありながら、紗花自身も釈華の空想上の人物であり、それすらも紗花の空想である。私はそう解釈している。

釈華も紗花も田中も、これに限らず疑問に思ってるのだが、「劣悪な環境で育ったから仕方ない」論の答えはどこにあるんだろう。歪んだ身体と歪んだ思考を掛けているこの本を読んで、健常者の私は真っ直ぐ考えている。

せむしの怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに。 

ハンチバック

電子書籍で82ページ。すぐに読めます。
性行為の描写がしっかりあります。