旅行記


横浜青葉まで渋滞23km。
ナビの到着予定時刻がどんどん遅くなる。
フロントガラスの向こうに映る景色に目をやる。
赤いブレーキランプが永遠に並んでいる。
かつて青空を隠していた灰色の雲たちは
さながら深海の霧のように不穏に浮かんでいた。

助手席の窓から空を見上げる私の頭を彼の手が撫でる。
今朝、旅館を出た時からこの調子である。
私はその手をそっと掴んで動かない景色を眺め続けた。

ラジオが流れる車中。
長い道のりだった。
2年近い。
彼が私を初めて旅行に誘ったのは2年近く前である。
ロクに二人で食事もしたことなかったのに、
彼は情熱的な文面と共に宿のURLを送ってきた。
もちろん丁重にお断りの文章を入れた。
そんな脈略もなく旅行に行くような仲でもなかったし、それを許される関係ではなかった。

2年間、それなりに大真面目に悩んだ。
初めて2人で行く旅行はそれは楽しかった。

日の入り寸前に宿に到着し、
首からカメラを下げた私を見た女将が
早くしなきゃね、と笑いながら部屋まで案内してくれた。

窓を開けて空気を吸い、波や風の音に耳を傾けた。
海の向こうの山に半分以上姿を隠した夕日を何枚も撮った。

日が暮れた頃にタクシーに乗り、目当ての居酒屋へ向かった。
すみません、と声をかけたが人の気配がない。
しばらくすると民家の裏から割烹着を着た女性が歩いてきた。
「うちはメニューもないし、基本的に常連さんしか入れないんだけど、それでもいいのならどうぞ。」
なんとなくすみません、と呟きながらいそいそと店に入る。

菜の花の和物から始まり、明日葉の小鉢、立派な金目鯛の煮付け、イカの唐揚げ、鰹の塩辛、次はカサゴの煮付け、さらに蕗のとうのトースト。
並々に注がれた地酒を挟みながら、最後は刺身の盛り合わせまで。
毎回美味しいかを聞かれ、本当に美味しかったからそのまま伝えたら胃袋が地物で満ち満ちてしまった。

「二人、結婚するのか知らないけど、またおいでね。」
愛嬌たっぷりに見送られて、私たちは再び夜道に出た。

二人して腹をさすりながら笑う。
「あのお母さん、やりすぎだよね、全部美味しかったけどさ。」
「コスパで考えたらめちゃくちゃお得じゃない?」
「わ、ここの店も絶対美味しい。」
「もう入らないな…」

そのままコンビニに寄って、酒を買って宿に戻った。
酒たちを冷蔵庫にしまってから、浴衣に着替えて温泉を堪能した。
浴場を出ると彼はロビーのラタンの椅子の上で顔を真っ赤にして伸びていた。
気の抜けた寝顔を軽く叩いて起こす。
「温泉気持ちかったね。」

部屋に戻って窓際の椅子に向かい合って腰掛ける。
波の音と虫の鳴き声を聴きながら、缶ビールを開ける。
既に酔っ払っている私たちは、この風景に合うBGMをプレゼンし合った。
「ぽいねえ。」
「確かに合うね。」
ヘラヘラしながらスマホから流れる音に浸る。

彼のニコニコの顔をカメラに数枚収めた後、私たちは眠った。

6時前に目が覚めた。
鶯が鳴いている。
たしか温泉は8時まで入れたはず。
障子の向こうで白くなった朝日を薄目で感じながら
再び目を閉じる。

朝食は予約していなかったし、
チェックアウトは10時だったから
結局朝風呂は入りそびれた。

朝食は「喫茶 可否館」という店にお邪魔した。
上品な女性一人で営んでいるようだった。
店内の壁や天井には彼女の趣味であろうたくさんのカップとソーサーが敷き詰められていた。
ブレンドと、彼はマンデリンコーヒー、オニオンチーズトーストとバナナシナモントーストを注文した。

遅めの朝食を済ませて店を出た後は街を散策した。
観光地というには落ち着いた雰囲気だったが
それなりに見どころのあるスポットもいくつかあった。
適当に写真を撮り、街を眺めた。

まだ12時である。
私たちは街を出て、小1時間の所にある修善寺へ向かうことにした。

例の如く、彼は私の頭を撫でた。
最初は少し驚いても彼の手に身を預けるのは簡単だった。

修善寺周辺を散策して、蕎麦を食べて帰路についた。

横浜青葉まで渋滞23km。
ナビの到着予定時刻がどんどん遅くなる。

少しも態度に表せなかったが、内心幸せだった。
渋滞が延びるほど、空間が停滞するのだ。
芸人のラジオか、彼の好きな音楽が流れ、
特に喋りもしないけど手は触れ合っていた。
それが幸せだったのである。
猫だったら喉を鳴らすくらい、
当時の私はご満悦のご様子だった。

渋滞を抜けて、高速を降りる。
都内を走る間、彼の私の手を握る力は
少しずつ強くなっていた。
彼の横顔を盗み見る。
もう、なんだか、それこそ手に取るようにわかってしまった。
ちゃんと、考えてくれている。
この旅が終わる現実も、旅が終わった後にするべきことも。

そしてその様子が、これが最後かもしれないという寂しさと不安が私を襲う。

数日も経たないうちにそれは現実となる。

もうどうにもならないのである。
彼のことをどれだけ大切に思おうと、
第三者以上の立場になれないことを
私は身をもって知ることになる。

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