distantia
※前ブログより再掲載※
本日は七月三十日。鬱陶しい位の猛暑です、蝉も五月蠅い。
昨日から開設したこのサイトが少しだけ気に入っています、新しい居場所が出来た感覚です。
シゾイド人間の自分にはとっておきの場所で、誰にも迷惑が掛からない。自分の中から出る発言のほとんどは人のことをマイナスにしてしまう逆の余計な力があるみたいなので、人に過去や未来の話は勿論、パーソナリティーに関わることは言えません。
そんな自分だからこそ、こういう誰も見ない、見たとしてもすぐにブラウザバック出来る環境が必要でした。
今までは、聞いてもらって反応してもらうことがとても幸せでしたが今は否定されるくらいなら言わない、教えない心理になっているので丁度良いのです。
そんなことどうでもいいんですよね。
仕事から実家に帰りました。相変わらず猫ちゃんは現世において唯一可愛いと思えたし、母は起床する時間が可笑しかったけれどいつも通りで安心した。
一昨昨日の事やパートナーの親御さんの事について話し合った。
彼方側は、世間話する程の仲なら実家に帰れという。なんだか私は居てはいけないような気がする。
とにかく、自分としては親御さんはパートナーのことを一家の恥であり、これ以上一家の名を汚すことはして欲しくない。そしてそれを広めるようなことをして欲しくないと言っているようで。
勿論信頼もしていないし、不安の塊だからこそその子供のパートナーも不安要素しかないというように聞こえている。
口先だけの謝罪と、高圧的な口調、そりゃグレても仕方ないといったところだと母は言っていた。
洗脳か、家庭環境の違いによる価値観の差なのかもしれないが私は流石に自身の母の言っていることに間違いはないと思った。
むしろ、パートナーの家庭環境の複雑さ、家庭内ヒエラルキーみたいなものを他人の私がひしひしと感じた。
私が縁を切ると言い切ってきたからこそ、勝手ではあるが“ソレらしく”してほしいと私は母に言い切ってきた。
やはり、絶縁は出来なかった。かといって実家に帰ることは出来ない。それを快諾はしていないが理解してくれた。
連絡は解りやすいSNSでなく、普段使わなくなってきたメールを使用し電話も一本の連絡をしてから。
お互いプライベートもあるわけで割とそういう行動が普遍的なやり取りなのかなと思っている。
一生会わない訳では無い。パートナーも何年後かに会いに行きたいと思ったときに会えばいいと言ってくれている。
自分自身としては、別に何も変わらなくてもいいむしろもう変わったと思える状況だ。
何もわかりませんが。
兎に角、自分たちはどこか信頼をしていてどこか不安に感じてしまうけれど結局はお互いに信頼するしか方法はないというのを感じながら生きている。
彼方にはそれを感じられない、何処も信頼を感じれない。お金を態々払ったのだから迷惑かけないでね、迷惑かける人間を増やさないでねの様な自己保身に必死に感じる。子供がどれだけ更生しようが歩み寄ろうとしていても無駄なのだと思うと心が痛い。
母親とは自分自身としてはしっかり話し合った気がした、今後のこともちゃんと話した。
猫と会う機会が少なくなると苦しい、自立出来て一人暮らしできるようになったら一緒に住むと目標を立てている。今はそれが目標だ。
やっと自分のことで必死になれそうだ、高校卒業認定の試験勉強もしっかりしていかないといけない。
パートナーはいま無職でダラダラとした生活を送っている、不安感でいっぱいだけど関係ないと言い切りたい。
今週の土曜日にパートナーの親御さんに会う。どんな顔をすればいいのか、解らない。
きっと私も親御さんもいい顔できない、少なからず私は敵視している。シゾイド人間ですので。苦笑
解って欲しい、寄り添って欲しいなどの承認欲求は叶うと嬉しさや自身の存在意義を感じれたりして生きて行く糧になったりするのだろうけど
そんな欲を与えて存在意義を感じれたことが無い。
むしろ、存在意義を紛失してしまう結果にいつもなってしまう、とても悲しい。
他者にも自分にも期待できない、信頼も無くなってしまったりして生きやすくなくなってしまう負のループに陥ってしまう現状が悲しい。
稚拙な行動しないようにこれからは気を引き締めて、生きて行きたいとは思っています。
ヒトのことを気にし過ぎて空回りすることが多い最近は悩みに悩んで居ますが、少し今より図太くいきたいと思いました。
そして昨日は、ご飯も自炊せずお弁当を買ってもらい九時にはがっつり就寝しておりました。
昨日早寝しているというのにとても眠いです、かえってダラダラしたいのが本音ですが給料を稼がないと携帯代も払わなければいけないし、高認の願書も提出しないといけないのでお金がかかります。
万年金欠です。苦しい。
空から五千兆円ふってこないのか?と少し落胆しております。仕事に行け。
悪事を働いて百何万も持っている人には解らないだろうけど、善処しているだけじゃ生きにくいんですよね。
現代なんて特に、新型ウイルスのCOVID-19の所為で所得が減ってしまった人や職場から強制退職させられたり、リストラ、経営破綻、後の自殺。
ウイルスでこんなことになっているというのに、SNSでは誹謗中傷等で自殺してしまう人が増えてしまったりで人口減少。
人気な若手の俳優の死があっても、SNSで示談金をとった若手女優の投稿があっても人殺しは居なくならない。むしろ触発してしまったりするケースもあるだろう。
自覚のない、害となるヒトは一生消えない変わることも無い。人を傷付けることに罪悪感が無い人間はやがて孤独となり自殺したりする。
まだその程度だと本当にマシだと思う、善処し毎日を噛みしめて生きている人間を妬み恨み無差別に人間を死に追いやったりする害もいる。
そういう人間は最悪とされている刑が下っても最期の日まで我々の血税で生かせて貰えるし、逝かせて貰える。
こんな現代に生まれて失望している。と言えばウソ。
他人事のように思いたい本心もあるし、実際問題自分には何も被っていない。なんやかんやで周りの人には恵まれている。
大好きな音楽を聴きながら仕事中というのにこの記事を執筆することも出来る。会いたい人に会いたいときに会いに行ける。
私の人生はよく『苦労しているね。』と言ってくださるけれど、今生きることが出来ているし父も母も健在だ。娑婆には居ない奴もいるけれど。
これ以上、死に近くなるのはもう嫌だ。生きることを目前に置いて毎日をできれば笑って過ごしたい。
もっと欲を言うなら、家族も友達も愛する人も愛する人の好きな人たちもすべての人が幸せに生きていられる世界になって欲しい。
ヒトには、煩悩の塊もあるし自我もあるしそれのせいで傷をつけ合ってしまったりもする。
COVID-19もそうだ。行ってはいけない、従事者の命もかかっている、経済問題で良心の呵責に漬け込むように自我を押し通す輩もいる。
周りの大切な人々をちゃんとした大切な仕方で守りたいと思うことは、障害者だからそう思うことなのか?間違っていることなのか?
暗黙の了解を押し付ける人は本当の人間なのか?ヒトの形をした別の生物なのじゃないのか?今一度考え直した方がいいと思うことが多すぎる。
齢二十前後の一般人、障害者の言葉など響くことも無いし目に留まることも無いだろうけれど同じような気持ちを持っている人が一人でも居てくれれば私はそれでいい。