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初見 ミュージカル『パレード』 2021.01.22(金)ソワレ&01.23(土)ソワレ

ようやくミュージカル『パレード』を観ることができた。

日本初演の2017年5月、私は韓国に住んでいた。それでも、以前であれば、ひょいと身軽に(多い時期には毎週)日本に帰国して観劇していたのだが、2016年6月に第一子グスタフ(仮名)が生まれてからすべてが変わった。愛妻のみに子を任せて一人で観劇旅行に行くなど、なかなか厳しい状況になったのだ。
それでもこの『パレード』という演目が発表になったときには、是が非でも行くぞという思いを胸に刻んだのだが、現実は厳しかった。あの、それこそ一日一日を生き延びるのに精いっぱいな子育ての中では、とてもひとりで日本に帰国して観劇するということはできなかった。

そもそもどうして観たいと思ったのかと言えば、テーマからして私が好きそうなものであったし、石丸堀内という四季のゴールデンコンビが主演をするということがわかっていたからだ。
特に、堀内敬子さんは劇団四季時代、私がいちばん好きな女優さんだったのだ。石丸さんとのコンビと言えば、まずは何と言っても『美女と野獣』が思い出されるが、それ以外でも『アスペクツ・オブ・ラブ』『ソング&ダンス』など、いつも相性抜群であった。ふたりは劇団四季同期なのだ。
そして1999年『壁抜け男』の初演でも、このふたりが主役を務めることが内定していたにもかかわらず、堀内さんが突然の退団。彼女のイザベルは夢と消えたわけだが、私の意識の中では、今でも石丸さんと堀内さんが壁抜けの初演キャストだ。

話が逸れた。
そういうわけで、泣く泣くパレードの初演を観ることは諦めたが、親しい友人たちの中には初演を観た人たちもいた。彼女らは絶賛しており(詳しい内容は聞かなかった。自分が観ていないので)、「まぁもちろんそうだよな~」くらいの意識でいた。

そして今回、再演のニュース。今回こそは絶対に観ると心に誓い、チケットを確保した。現在は関西在住であるため、これまた東京に気軽に行くことはできないのであるが、私のパレードに懸ける思いを知っている愛妻は、もちろん快く送り出してくれた。
確保したチケットは、1/23(土)ソワレのSS席1階最前列センターと、1/24(日)のS席1階K列サイドセンター寄りの2回であった。
しかしながら、諸事情から日曜日の観劇は諦めなければならないことになり、2回目は大阪公演を観るしかないかと思い始めたとき、金曜ソワレの公演回があることを知った。急遽おけぴを探索し、なんとSS席1階J列センター(実質5列目)を譲っていただくことができたのだ。これは極めてラッキーな出来事だった。

そういうわけで、土日で観るつもりだった『パレード』を、一日早く金土で観ることになり、あまり心の準備もできないまま、劇場へ向かった。

さて、ミュージカル『パレード』だ。

素晴らしい作品だった。台本はよくできているし、演出も美しいし、キャストの皆さんも(一部を除いて)極めて上手だ。しかしながら、巷で言われているような、「頭を殴られるような衝撃」とか「メンタルが削られる」みたいなことはなかった。言ってみれば、ウェバー卿の『アスペクツ・オブ・ラブ』(原作は単なるメロドラマだ)が素晴らしいミュージカルであるのと同じように、このパレードも素晴らしいミュージカルだった。

一部を賑わせていたあの評判は何だったんだろう、と、Twitterなどで感想を漁ってみて、ようやくいろんなことが見えてきた気がする。

と、いくら何でもここで多少はストーリーのことについて述べておかないと、何のことやらわからなくなると思うので、簡単に記しておく。

ひとことで言えば、南北戦争から半世紀後のアメリカ南部のアトランタで、13歳の少女メアリーを強姦殺害したとして、北部出身のユダヤ人であるレオ・フランクが「冤罪」を着せられる、という話だ。
多少の脚色やキャラクター変更はあるものの、基本的には「史実」を元にしたミュージカルだ。(ただし演出の森さんはパンフレットの中で「フィクション」と述べられている。)

どうやら世間では、このミュージカルが芝居(生き様)として凄いからとか、音楽が素晴らしいから、とかいう以前に(もちろんそれらも絶賛されていたが)、この歴史的大事件を舞台として扱っていることへの賛美が渦巻いているらしかった。

これは決して斜に構えているわけではないのだが、どうしてもそのことには共感ができず、世間の盛り上がりを冷めた目で見てしまう自分がいた。そう、世の中にはまだまだ差別が溢れている。そして人間は、自分の中にある差別意識を認識すらしていないこともある。レオだって、明らかに南部人への差別意識を持っているし、資本論的に言えば搾取する側として生きている。意識されようが無意識だろうが、差別は世の中にゴロゴロ転がっている。
また、この事件はアメリカでも有名な大事件として扱われているが、大事件にならなかった冤罪なんてたくさんあることは想像に難くない。日の目を見なかった冤罪事件にこそ、もっと悲惨なものもあったはずだ。
そして群衆の集団心理。『ジーザス・クライスト=スーパースター』や『マリー・アントワネット』を観るまでもなく、正義感にかられた群衆が如何に恐ろしいものであるかということは、至るところで目にするではないか。最近ではリアリティショーに出演していた人たちへの誹謗中傷など、攻撃対象を見つけた群衆が、如何に簡単に人を傷つけ、陥れてしまうか知らないわけではなかろう。

にも拘わらず、どうしてこの作品、この事件だけが、我々人間の醜さを見返すきっかけなんだろう。そんなチャンスは日常にいくらでも転がっているのに、ミュージカルからでないとこの不条理を知ることすらできないというのは何なんだろう。
それこそ「よくある異常なこと」なのに(もちろん、「よくあ」ってはならないのだけれども)、この作品に向かい合ったときだけそれに気づくというのは、、、ちょっとわけがわからない。

この作品が素晴らしいのは、役者が役を生きているからであり、彼らの技術が素晴らしいからであり、演出が洒落ているからであって、決して、この歴史的事件を扱ったからではない、と思う。
もちろん、この事件があったからこそ、それらの恐怖を描くことができたと言えばその通りなので、ドーシー検事の迫真の演技に感動するのは当然だ。だけど、そのようなことがあった事実に驚き、それを思い出させてもらえたことに感謝するというのは、私には理解ができない。

巷で絶賛されるほどにはこの作品にハマることができず、世間の狂騒とは一歩離れたところからしかこの作品を俯瞰できなかったのは、ひとつには上記のような理由があったと思う。
言ってみれば、すべてが想定内の出来事であるのだ。

たった100年前にこんなことがあったというのは確かに悲しいことだけれど、今も何も変わっていない。
俳優さんたちの演技は迫るものがあるし、これぞミュージカルの醍醐味だとも思うけど、、、これが私たちが生きる世界なのだ。

そして。

私がこの作品にハマれなかったもう一つの理由は、私がミステリファンであることも大きく関係していたと思う。

冤罪こそが史実ということになっているが、それすらも疑う自分がいるのだ。
どうしても最後の最後に、レオが高らかに笑い出して自分が犯人だったことを告白する展開を夢見てしまう。ジキル&ハイドを演じていた石丸さんだからこそ、なおさらなのかもしれない。
夢見る、という表現は少し違うかもしれないが、ミステリ好きの血が騒ぐのだ。

もちろんこの作品は「史実」を元にしている以上、そのような結末になろうはずはない。しかし一方で、そう感じさせるような仕掛けが施されていたのも事実だ。石丸さん演じるレオが「僕のオフィスにおいで」を歌うシーンなどはその最たるものだ。真実(と考えられているもの)と想像との境界を曖昧にする効果を見せていたし、もし「史実」を知らずに舞台を観た人がいたら、レオが真犯人だと「勘違い」して最後まで進んだ可能性は十分にあると思われた。

もちろんその「僕のオフィスにおいで」のシーンを除いては、石丸さんは、レオは無実という前提で、無実のレオを生き抜いたと思う。日本の誇る(そして浅利先生の育てた)素晴らしい役者さんだ。
でも、もし本物のレオが犯人だったとしたら、レオも同じように無実の「役」を生き抜くことは可能だったと思う。その人の「目」を見るだけでは真実はわからないのだ。

もしこれが純然たるフィクションで、原作がアガサ・クリスティーや綾辻行人だったら、まず間違いなくレオが犯人だったと思う。同時期にホリプロが上演している『スルース』に出てくるアンドリュー・ワイクが書く小説でもきっとそうだと思う。その程度には、この物語の真実は揺らいでいると思う。

冤罪だったということを「真実」と信じてしまった時点で、我々もあの民衆と同じ過ちを犯しているかもしれない。そういうウロボロス構造になっているという点で、確かに恐ろしい作品である。

ただ、今の私は、この作品を落ち着いて観られる程度にはメンタルが安定しているのだと思う。まぁそもそも、舞台を観るときに感情移入するようなスタイルは採っておらず、ミュージカルでは特に音楽に身を任せるのが好きなのだ。
初演の時に売店で販売されていたという「おがくずコーヒー」の写真が某所に流れてきたときも、「洒落てるやん」としか思えなかった。繰り返すが斜に構えた自分に酔っているつもりはまったくない。ただ、どう考えても、この作品やその訴えてくるものは、「日常」の一部なのだ。「耐えられない」という感想とは、遠く離れたところから、この傑作を堪能する自分がいた。

さて、それにしても芝居巧者が揃ったものだ。

主役のレオ・フランクを演じる石丸幹二さんは、上述した通り、まさにレオという役を生き抜いたと思う。ただ単に透明で善良な人間としてではなく、ふつうに人を見下すことのある人間として、レオの人生を生きたと思う。
それこそ自分の中にある差別意識なんてものには、二幕になってすらも気づくことがないほどある意味恵まれた人生だったのだろう。
開幕前に新型コロナ陽性が発覚し、開幕予定から4公演遅れて初日の幕を開けたほどだから、稽古がじゅうぶんだったかどうかもわからない。しかしながら歌も演技も絶好調で、石丸幹二ここにありを見せてくれたと思う。

もうひとりの主役、レオの妻ルシールを演じる堀内敬子さん。役柄としてはぴったりだし、かつて四季の最強シンガーとして鳴らした実力は確かなものであったが、それでも近年、じゅうぶんに歌の稽古はできていなかったのではないかと思われた。正直、もし長きに亘って稽古を順当に積んでいたとしたら、彼女の歌唱力はこんなものではなかったと思う。
だけどそれでも、往年の堀内さんファンとして、このような大きなステージで堂々と主演を演じる彼女を観ることができたのは感無量であった。

石川禅さんのドーシー検事と坂元健児さんのジム・コンリーは、一歩間違えばtoo muchとなってしまうところを絶妙の迫力で舞台を引き締めてくれた。

個人的にはスレイトン知事役の岡本健一さんがとてもよかった。正直、まったく知らない役者さん、、、って、男闘呼組か~い! ジャニーズにはまったく興味のなかった私であるが、80年代、男闘呼組だけは好きだったのを思い出す。スレイトン夫妻の役柄が一服の清涼剤だからということとは関係なく、彼の発声の良さと役の生き方が非常に好みであった。

一方で、がんばってほしいと思ったのはフランキー役の内藤大希さんだ。いや、役を生きるという点では完璧だったと思う。メアリーへの愛も、その愛の暴走の仕方も、あの年齢の若者の情熱がすごくうまく表現されていたと思う。しかしやはり歌唱力がついていっていない。さらに周囲に歌が上手い人ばかりなので、一層そのレベルが目立ってしまうのだ。そういえば、数年前に観たマリウスも……だったのを思い出したが、、、役者としてはよいセンスを持っていると思うので(上からw)、歌をもっともっと鍛錬してほしいと願うばかりだ。

メアリー役の熊谷彩春さんはすごかった。本当に13歳にしか見えないし、音程も完璧だ。急な代役とは思えない完成度であった。

そうそう。新型コロナとインフルエンザの連続罹患でひどい目に遭われた武田真治さんが、私の2回目の観劇で初日を迎えられた。期せずして二人の新聞記者クレイグを観ることができたのはラッキーであった。
武田真治さんは必ずしも本調子だったとは思えず、彼の実力はこんなものではないと思う。しかし何にせよ、彼の復帰を喜びたい。

男性中心の芝居であるため、どうしても男優の方が多くなってしまう舞台であったが、今の日本で集められる最高の俳優を集めた贅沢な舞台だったと思う。石丸幹二、今井清隆、坂元健児、堀内敬子の4人は、1999年の劇団四季『ソング&ダンス』初演バージョンのメンバーだった。あの贅沢なショーから20年以上を経て、ふたたび彼らの好演を堪能できたことに感謝したい。

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