ピッキー
意外とピッキーなのかもね?って言われた。
ピッキーって何?って聞いたら、あれこれ選んじゃう人?好き嫌いが多い人とかって意味で使われるんだよねー。だって。
私はピッキーなのだろうか?
お話の発端は、私に彼氏がいなくて、そろそろやばいんじゃない?という友達が勝手にのってくれている相談。
紹介しようとしてくれてるみたい。もしかしたらただの会話の一部。
私には食べ物の好き嫌いがない。大抵のものは食べれるし、嫌いでも出されたら食べる。
あれこれ好き嫌いを言うのは、自分勝手で、子供っぽい事だと思ってた。恥ずかしい事なんだって思ってた。だから、本当は苦くて好きでもないピーマンも、平気な顔をして食べていた。嫌い!と言ってよける子は、わがままなんだって思ってた。
その反動でか、私は最近食べたくないものを無理に食べる必要はないんだって事に気付いた。お腹いっぱいだったら、残す事も覚えた。それまではそうじゃなかった。残すことは、作ってくれた人に対して失礼なんだって思ってた。だからどんなにお腹いっぱいでも残さず食べた。うちの母親は、いつでも料理を作り過ぎた。
それは幸せなことだと思う。世界には、今日の食事も食べることができない人が、どれくらいいるのだろう。
時間が経たないと、分からないことがある事がわかった。それまでの日常に疑問を持たなければ、一生これが正しいと、常識だと思って生きて行く事もあるかもしれない。その方が本当は幸せなのかもしれない。
私の母は、私を褒めなかった。学年で1番になろうが、部活でキャプテンを務めようが、一切褒めなかった。学校の先生や、近所のおばさんは、すごくよく褒めてくれた。すごいわねーって。でもそんなの私にとっては何一つ嬉しいことではなかった。母親に褒められなければ、意味がなかったのだ。私は母にずっと褒められたかったんだって、今気付いた。
私は母に褒められるために、なんでもこなしていた。できる子を演じる事が私の全てだった。
でも大人になると、できないことは増えていった。母の期待には応えられない事がわかって、不満が増えた。
好き嫌いは、あって当然なんだ。
私はこれが好きで、これが嫌いなんだ。だったらどうするか、それを考えなきゃいけなかったみたいなんだ。
でもそれができないまま、私は30歳になってしまった。
時間を戻すことはできなくて、今更自分を変える事ができるのかわからない。
人の要望に応えて、人の期待に応えるように努力する方がよっぽど楽だった。
でもそれじゃダメなんだって、気付いて、明日すぐには変えられないけど、ちゃんと向き合おうって思った。
こうなってしまった事を嘆いても、何も先には進めなくて。
自分でしか、自分で気付いて行動する事でしか、自分を変えられないと思ったから、ちゃんとそれを書いとかないとって思ったから。
男の人も、合わせる方が楽で、その人の良いように振る舞うことの方が得意だった。だけどそれじゃあただの恋愛ごっこでしかないんだって気付けて、
私はそれでピッキーでも何も恥ずかしくないって思えた。
好き嫌いは、あって当たり前なんだって。
おやすみなさい
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