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T市の「聖地」騒動、有フの根本的な間違い

 今回聖地騒ぎの件で、アリフ氏がいまだに「S市はT教会の聖地だ」と言い続けているのは、アリフ氏が聖地というものが何か解っていないことが原因の一つだと思いましたので、聖地とは何か、と、アリフの決定的な失敗について書いてみました。

(up)

【左の人に聖地は難しい】


 アリフさんは、左翼共産主義チーム所属の方ですが、そもそも、彼らが心酔していたり、あるいは、多分に影響を受けている「マルクス共産主義」というものは、神仏を認めず宗教を否定する思想なので、どうしても宗教・神仏関連のことが理解し切れていないだろう状況があります。

 彼らは目に見えない世界のことに関する感性を磨くことができていないという背景がある事を、まず認識する必要があると思います。


 聖地とは、字の如く「聖なる地」という事なのですが・・・彼ら左翼系の人は「聖(ひじり)」とか「聖なる」ということがどういうことかがそもそも理解できていないのだろう、ということを言いたいわけです。

 彼らの様に神仏に由来するものを否定した上でなお「聖」という言葉を使おうと思うと、「尊い」とか「犯しがたい」などと、それはあくまで「重要度」を表す形容詞としての意味しか持たせる事ができないでしょう。
彼らの辞書には「神」がないので「神聖な」などと言っても、その語句の意味を真に悟ることはないわけです。それを例えるなら、「雪を見たことがない人がスキーをイメージするのは難しい」と言うことにでもなりましょうか。
 アリフ氏らのその様な状況を理解した上で、次にS市に関する事実を確認しておきます。

【S市に関する事実の再確認】

 S市に対しては以下のようなじじつがあります。
「S市はT教会の教祖が初来日の際に最初に踏んだ地である』
 
このことから、S市に関して、この様に表現することができると思います。

 「S市は、T教会の教祖が初来日の際に最初に踏んだ地であるので、T教会の歴史的にはとても意味がある場所である。故に、S市はT教会にとって重要な意味を持つ場所であると言える」

 ということです。
 これに関してはT教会さんも、その通りだよ、と言ってくれると思います。
 問題は、この事を持って「聖地である」と言えるのかどうかです。

【昨今の「聖地」という言葉を安易に使う風潮】

 S市に関しては上記の様に「教祖が初めて踏んだ地である」と言う歴史的事実があります。
 しかし、宗教組織は、歴史的な事実や経緯などを持って聖地というものを定めるわけではなく、聖地を定めるには他にものすごく重要な要素があるのです。その「要素」の事を、神仏を認めない人は全く理解できないのではないかと思います。その「要素」に関しては後に詳述してます。

 ここでもう一つ書いておきたい事は、言葉が軽くなっている問題です。
 今、世の中では、アニメやドラマの舞台となった場所があればそこを「聖地」と呼んでしまいます。楽曲がヒットすれば「神曲」。テレビ番組などで特に面白かった回を「神回」と言ったり)。「聖」や「神」が安売りされていて(笑)、日常で安易に使われる傾向があります。神・聖に限らず、今は相対的に「言葉」が軽くなっているということなのかもしれません。
 そんな世の風潮に、アリフ氏も乗せられてしまったという側面もあるだろう事を書いておきます。時代に踊らされて、迂闊な発言をしてしまったと。
 そういうことも有ると書きながら、このあと、より根本的で致命的なアリフ氏の失敗について説明していきます。

【聖地はどの様に決めるのか?】


聖地はパワースポットである
 昨今、いわゆる「パワースポット」という言葉をよく聞くと思います。目に見えない何か強い力が働いており、そこに行くと元氣になったり、運勢が良くなったりする場所が、この地球上には複数存在しており、それを「パワースポット」と呼びます。(ちなみに、パワースポット自体は和製英語のようです)


 実は、聖地を決める際には、この「パワースポット的」な要素が加味されるのであり、教祖様が来た場所が全て聖地になったりするわけではないのです。
つまり、聖地の決定は「ゆかりがある」ということで決まっているわけではないと言うことなのです。
 その場所が持つエネルギー。場所の氣とか、大地のエネルギーとか。そういうものが強くて、しかも、そのエネルギーが神仏に繋がるためのサポートをしてくれる類いのエネルギーであること(事故が多発する場所とか、マイナスの強いエネルギーというものもありますので)。
 そういう霊的なパワーを持つ場所が宗教的な聖地になっていくのです。

 より具体的に聖地の持つ性質を言うならば、「宗教者がお祈りをする時に精神集中がしやすくて深い祈りができる」とか、「深い瞑想ができる場所である」とか。 そういう要素を持った場所を聖地として大事にしていくのが、信仰や目に見えない世界を大事にする人たちの活動なのです。
 宗教の教祖になるような人は、そういう目に見えないエネルギーに対する感度も高いわけです。それで「ここはただの場所ではない、とても神聖な場所だ」ということを感知して、その場所を聖地として定めて大事にしていくわけです。


 そういう特別な場所にお社(おやしろ)を建てて、そこに働くエネルギーの主をお祭りしたりするんです。きちんとした神社や仏閣はみんな、そういう慧眼を持つ人が関わって建立の場所を決めているのです。
 
交通の便が良いとか、見晴らしが良いとか、歴史的にここで何があったとか・・・そういう事も多少加味したりする場合もあるでしょうが、「聖地」と呼ばれるようになる場所は、まずは、目に見えない力、神仏と通じる場所として成立するか否かを問われるのです。神聖なエネルギーの有無を見る目がある人がよくよく吟味して、その上で定められていくのです。
 聖地に定めたら、次にはみんなでそこで感謝を捧げて、さらにその地のパワーを上げていくようにするのです。

それが聖地というものです。
 だから、神社なんかも、本来は願い事をしにいく場所ではないのですね。神社には感謝をしに行くのです。柏手を打ってすることは、感謝の思いを伝えることなのです。
 そういう観点が、アリフ氏にはないのでしょう。
 だから、うかつに教祖さんとのゆかりだけで、「S市は聖地です」なんて言ってしまう。聖地の意味も知らずに。
 「S市は、T教会にとって教祖が初来日した記念の場所だ」と言えば、T教会の人達も誰も否定はしないでしょう。
でも、聖地というものは、教祖とのゆかり、それだけで決まる類のものではないんです。

【聖地というものは多くが、地理的にみてピンポイントである】

 S市内を探せば、先に書いた様な、通常の場所よりも氣の強い、祈り易い場所はきっとあります。S市内にも神社や仏閣が多々あるでしょうから。でも、面積が700平方キロメートル以上もある広いS市全部を指して、聖地だ! と言うのは・・・聖地というものが何か解っていない証拠です。聖地というのはそういうモノじゃないんです。


 T教会はS市には聖地は定めていないと、公式に声明も出しました。
 逆に、聖地を定めた8つの都市を公表しています。
 その8つの都市も、都市全体が聖地なわけではありません。一本の樹木があったりしてですね。その樹木がある「ここ!」というピンポイントの場所が聖地に定められているのです。
 だから、例えば東京に聖地がありますが、それだからといって「東京は聖地だ」などという言い方はしません。もし言及するならば「東京に聖地がある」という言い方になります。

 有名な聖地「エルサレム」などは「聖市」などと呼ばれたりします。
 しかしエルサレムは、皆さんご存知の通り、複数の宗教の聖地になっていて(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)、歴史も何千年と古く、また各宗教は世界的な宗教なので世界中から巡礼者が来る。そういう場所になっているので「聖市」などと言われるようになっているので、かなり特殊な例です。
 一方、現実的に、S市内にはT教会によって聖地と定められたピンポイントの場所はなく、故に、信者が大挙してそのピンポイントの場所にやってきてもいない。なのにアリフ氏がエルサレムの如くに、市全域を指すように「S市は聖地です」などと素っ頓狂なことを言っているので、騒ぎになるのです。



 もう少し、世俗的にわかり易く書けば・・・
 聖ですから、聖闘士(セイント)星矢! でどうでしょう。笑
 セイントたちのようにセブンセンシズ(第七感)とまでは言いません。せめて、シックスセンシズ(第六感)くらいを持った上で、アリフ氏が聖地の見極めをしているのならまだしも、そういうセンスを全くもって磨いていない俗物くんがですね「○○は聖地です」などと発言した。そんなことをしたら、「勝手に聖地を決めるな!」と言われてしまうのは当然のことですよね。


 また別の言い方をすれば、今回の事は、例えばペンギン。
 「ペンギン。あれは、海を泳いでいる。だから魚なんだ! ペンギンは魚だ!」などと言っているようなものです。「いやいや、海で泳いでいるのが魚なら、海水浴している人間も魚になってしまうじゃないですか。だから、その考え方は間違ってますよ!」と、教えてあげなきゃいけないでしょう。
 「教祖が初めて来たから聖地だ!」なんて言っているのは、そういうレベルの話なんですよ。

【聖地と同等、という事は、聖地では無かった、ということ】

 上で書いたように、まずは聖地に関する認識の無さが、アリフ氏のとんでも発言を産んでしまったと考えますが・・・彼が延々と主張する中で、国語力の問題もありますよね。
 
 しかし、「聖地と同等だ」と言った時点で、聖地では無かったことがはっきりするじゃないですか。もしS市が聖地なら、ただ「S市は聖地です」と言うだけです。しかし「聖地と同等だ」と言いまわすのだから『S市は聖地ではない』という前提があったということになります。
 2つ以上の別のものがある場合に、しかし、それらに同じ要素があったときに「同等」という言葉を使うのです。アリフ氏がTwitterで引用している「同様」に関する辞書の説明も、読めばその事が書かれています。自分で引用しておきながら、その意味するところがわかっていないのですから、お粗末です。マルクス共産主義の本を読んできたような人なら、もう少し日本語の読解力は備えて欲しいものです。

 アリフ氏の説を認めれば、下記の上下2つの文章は同じことを言っている文章になるはずです。(まあ、説っていうほどの物ではないんですが。笑)
 『有田芳生は人間だ』(←『下関は聖地だ』)
 『有田芳生は人間と同等だ』(←『下関は聖地と同等だ』)
 こう言われたら、アリフ氏はいい氣持ちがするのでしょうか?
 もし、「人間と同等だ」と書かれると、人間よりも下等な存在と言われている氣がするのであれば・・・。下関も聖地とする要素は持っていなくて、聖地未満の存在であり、聖地ではなかったという話になります。

【結論:神仏を否定する人が「聖」を語ろうとしたのが間違い】

 以上のように、今回のことは、不見識な人がよく解らない世界のことに言及したのが騒ぎの発端だと思います。
 宗教を否定して、目に見えない世界を否定して、神仏を敬わない。そんな、左翼・共産主義者の人、霊的に全くもって曇った状態の人が、僭越にも「聖(ひじり)」に関して言及しようとしたのがそもそもの失敗と言いますか、過ちだったのだろうと考えます。
 アリフ氏もこれを機会に、少しどこかの、聖なる、霊験あらたかな滝にでも打たれてみて、霊性を高めるべく行動してみたら良いのではないでしょうか。
 「霊験あらたか」の意味も、わからないか・・・。

おしまい

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