水星の魔女を観終わったので感想(ネタバレ有)
忙しくて観れてなかった水星の魔女の最終回をようやく観た。
シーズン1が終わった時に、「シーズン2は、否応なしに親から離れ一足先に大人になったミオリネ(とグエル)が親の呪縛に囚われているスレッタを導く話になるんだろう」とnoteに書いたのだが、ビックリしたことにこうはならなかった。一応、ミオリネとグエルがインチキ決闘でスレッタからエアリアルを奪う、というエピソードはあるのだが、これを導くとは言えないだろう。この後のフォローは何故か別のキャラクターがやってるし。主人公のスレッタが親から自立して自己を確立する、というテーマ自体はシーズン1最終話で示された通りだっただけにとても驚いた。そして、(おそらく大人の事情で)上記のようなストーリーにできなかったことが本作の質をとてつもなく下げてしまった、と感じた。
結論から言えば「機動戦士ガンダム水星の魔女」は駄作だと思う。
「水星の魔女」は様々なファクターとエピソードが散りばめられており、その一つ一つはとても魅力的だ。問題は、これらの要素がほとんど関連しておらず独立したものになってしまっているため一つの作品として成立していないことだ。
酷すぎた例としては最終回前のグエルとラウダの兄弟喧嘩だろう。
ストーリーはクライマックスに入り、プロスぺラのクワイエットゼロを止めるためにスレッタもミオリネも学園のみんなも頑張っている状況で何の脈絡も無く兄弟喧嘩が始まる。
この描写が問題なのは(この時の)メインストーリーであるクワイエットゼロ阻止となんの関連性も無いことだ。兄弟喧嘩の結果はクワイエットゼロ阻止に何の影響も与えないし、クワイエットゼロがどうなろうと二人は戦うだろう。メインストーリーとは全く関係ないエピソードが最終決戦中にしゃしゃり出てくるのには呆れてしまった。
そして、「水星の魔女」は終始この調子で相互にほとんど関連しない要素が無秩序に並べられた作品だった。
一番大きいのは、「クワイエットゼロ計画」と「スペーシアンとアーシアンの対立」が全然関係ない点だが、この2つだけでなく、株式会社ガンダムもスレッタの水星に学校を作る夢もいくつかの色恋話も特に相互に関連しないまま抽象的に描写されるだけだ(なお、抽象的というのは、例えば株式会社ガンダムのビジネスモデルや水星に学校を作るために必要な手続き等が一切描かれないという意味である)。
もちろん、現実の世界は一つの物語に沿って出来事が起きるわけではないのだが、フィクションというのは現実から魅力的な要素を見出して一つの物語として受け手に届けるものだ。そうしなければ受け手は提示された情報を意味のあるものとして処理できない。
「水星の魔女」は一つ一つのエピソードが難解なわけでも不合理なわけでもないが、関連性がないために物語への共感と理解を妨げている。
「水星の魔女」がこうなってしまったのは上記の通り大人の事情なのではないか、と思う。
プロデューサーやもっと上の地位にいる人から出された「主人公も相棒も女の子」「学園物の要素を入れる」「ガンダムは味方と敵の両方にある」「宇宙と地球の対立がある」「ニュータイプっぽい能力を出す」といったお題を全部消化した結果なのではなかろうか。しかも実際にはもっと細かい要件定義が大量にあったのではないかと想像する。
多分、今の若いユーザーは作品から自分の好きな部分だけを切り取って消費する傾向があるので要素はなるべく多いほうがいい、という感じの市場調査結果とかがあったのだろうし、だからヒットもしたのだろうが、作品としては歪であるとしか評価しようがない。
「水星の魔女」は他にもアクションがあまりにしょっぱい、とか不満がいろいろあるのだが、とにかく物語として成立しておらず見るに堪えない、というのが私の初見での評価だった。
2回目を観るのはスパロボに参戦したときかな。