見出し画像

女の子は父親と似た人を好きになる。は本当なのか


先日父が亡くなった。
実は一年前に一度入院をして
年内は厳しいです。
と言われていたほどだったのに、
なぜか一年生きてしまった。


私としては家族みんな頑張ったねと 
穏やかな気持ちにさせてくれた最期だった。

74歳という、後期高齢者にならない年齢で
逝ってくれて国にも迷惑をかけず、
母の手を煩わせることなく施設に入所できて 
家族間で誰も苦しく辛い思いをさせることが
なかった。

余命宣告から一年あったため、
私たち姉妹には覚悟と予定をどうにかできるような猶予を与えてくれた。


私自身も人生がうまくいってなくて
擦れてる時期じゃなくてよかったし、
母や姉妹との関係も良好だったこの時期に
みんなで集まれて無事に父を送り出すことが出来てホッとした。


更に、父は今年誕生した孫を抱くことが出来た。
これだけは本当にベストすぎるタイミングで間に合って良かった。

本当に何の混乱もなく、 
静かな最期にしてくれて本当にありがたかった。



今年の3月に生まれた姪の誕生日は、
なんと一粒万倍日、天赦日、寅の日が重なる
超ラッキーデイだった。
さらに今年は甲辰年であり、
60年に一度の幸運期だった。


加えて妹も辰年生まれなのでこの二人の 
強力なパワーに父は一年間助けられたのだろう。


先月、父が亡くなる半月ほど前に妹は父のいる施設まで訪れて姪を抱っこさせることができた。


一度、9月に帰省した時に施設を訪れていたが
面会はできず、窓越しに会うことしかできなかったのだ。


だが死期が近づいてきたということで面会できるようになったため、生まれて7ヶ月の姪と父は初めて対面し、抱っこすることができた。


それから約半月後、父は息を引き取った。


こんなに穏やかで幸せな最期があるのだろうか。
父はつくづく強運な人だったと思う。

私はお葬式で弔辞を読むことを希望した。
今まで、まともに父に何も伝えられなかった私は
どうしても父に伝えたいことがあった。


生きている時はどうも父とまともに話すことが出来ず、何も伝えられなかったけどここで自分の思いを整理しておきたかった。


実はちょうど10年前に父方の祖母が亡くなったのだが、
その時にも私は祖母に対して弔辞を読んでいた。


その時に葬儀屋の人にこれまで聞いた中で
一番いい弔辞でしたと言われて
自信を持っていたのもあった。


私には人の気持ちを動かせる言葉を紡ぐことが出来る、と。


だから迷いなく父への弔辞を引き受けた。

我ながら今回もすごくいい出来だった。
手紙形式にして書いたのだが
これを書くまで私はどんなことを父と共有してきて、それはどんな思いだったのかやっと気づくことができた。


弔辞を書くことで
一番最後に私は父から何を受け取り、
何を人生で与えていくのかようやく見つけることができた。


船乗りだった父はあまり家にいなくて
そんな父とコミュニケーションを取ることは
人見知りの私にはとでも難しくて、

素直に甘えることもできずに
子供なのに気を遣ったりして、 
父とどう関わればいいのか分からずにいた私は、
年に3ヶ月だけ帰ってくる父の帰りがいつも憂鬱だった。


だけど子供の頃は父がちょっとだけ滞在していた北九州に遊びに行ったことがあり、非日常的な
日々が良かったのか、その時は父と過ごすことが
とても嬉しかった。

当時の福岡ドームや、今は無きスペースワールドで遊んだことはなんだかすごく楽しかったのを覚えている。


私は父とうまく関われなくて父が幼稚園に迎えにきてくれたのに離れて歩いて帰ったりして
父を困らせた子供だったのに
なぜか父と一緒に入るお風呂は好きだった。


よく分からないけどなぜかその時だけは全然抵抗がなく、楽しく甘えることが出来た。
(その経験がソープで働くことに抵抗を持たなかったのか?分からないけどなぜお風呂が楽しかったのかは謎すぎる・・・・。)



まだ若いころの父は、嬉しそうに幼い私に
自分が乗った船の航路を書いてくれたこともあった。緻密な地図上に書かれたそれは、なんだか私の好奇心を強く刺激した。

本能的に、これは母親は与えてくれない種類の
興奮だと実感した。 

別に私は理系でもないし、数学は大の苦手だけれど今でも宇宙や恐竜や科学が好きで、
なぜか理系男子がタイプでめちゃ惹かれてしまうし、ときめくし、好きなのだ。


父はバリバリの理系ではないけれど 
(海関係は理系になるのか?)

やっぱり、何かしら父親の面影がある人を好きになるというのはあるある要素なのだなと思える。


妹が水産業を営んでいる人と結婚したのも 
父の影響が少なからずあったのか、
職種は違うがやっぱり共通するものはあるのだろう。


私が幼稚園くらいの時、不注意にも家の2階から落ちてしまったことがあったのだが、
咄嗟に助けてくれたのも父だった。
私は幸運にも無傷で、父がなんと怪我をした。


それくらい父は私のことを自然と助けてくれていた。


私は一度も父から進路のことや結婚のことを言われたことがなかった。 

あまりにも何も言わないため、父は私に何の関心も無いのかと、ちょっと悲しくなったこともあったが、それは逆だと思った。


父は本当に自分の気持ちを話さない人で、
母が言うには、 
どこが悪いとか何も言わないから、
こんなに悪くなって入院しないといけなくなる
くらい悪くなっていて驚いたと。

本当に感情もあまり表に出さない人なのだ。


私が中学くらいの時は結構怒鳴ったりしていて
怖い時があったが、
その時は船乗りから地上勤務に変わり、
会社も社名が変わったりして、
父のキャリアが安定しない時期だったのだろう。
給料もうんと減っていた。


高校生の姉と、中学生の私と小学生の妹、
これから子供にお金がかかる時期に 
給料が減らされ父も不安だったのだろう。
今なら父の気持ちがわかる。
だけどこの時期の父は不安定で見ていて怖かったし、嫌だった。


なんとなく私もあまりお金がかからないように
短大に行くことにしたのだが、家を出て
上京したし、おまけに短大は卒業するのに
2年半かかってしまった。


だけど父から何かを諦めるように言われたことは一度もなかった。


今時代は共働きで、育児も同じように共同参加を求められる。
だけど私は、父親は何から何まで関わらなくてもいいんじゃないかと思う。


まあ私の親世代が専業主婦サラリーマンで
一生を終えられる世代だったからなんだろうけど、基本的に私は、親とは黙って子供のやりたいことのサポートをするだけでいいと思っている。



今の親のように、いい教育とか体験をさせてくれればよかったのにと思ったこともあったけど、そんなことは今からでも自分でやればいいし見つければいい。


私のように、否定されることが何よりもダメなタイプは結果的に、何でも好きにさせてくれたことが一番の教育になったのだ。


今までも、あんまり関わってこなかったから父がもういないことがなんとなくまだ信じられないけどこうやって書いてると涙が止まらない。


ああ、やっぱり父はいなくなったんだな。


父がいなくなった家は、見事に女だけになった。

父の姉である伯母さん、いちばん元気でついにきょうだいで一人になった。
父の兄である伯父さんも去年亡くなったので、
ただひとりだけになった。


ちなみにおばちゃんには娘が一人いて、
孫娘が一人でこちらも女だらけ。 
(おばちゃんの夫はまだご存命)


うちは母と、姉と、私と、妹と姪。
その女六人に囲まれていた
義弟が気の毒だったけど汗
女の中にいて違和感なく自然と調和できる男はたまにいる。義弟はそのタイプで良かった。



姪が生まれてくれたことも父の死の悲しみを癒す存在になった。


本当にこの子はすごい。生まれた日といい、
なんかこの子はこれからうちを幸福にさせてくれる気がしてならない。

母のきょうだいの方の親戚も含めて、すごくいい関係を築けている私は本当に幸運なのかも。


これから40代になり、どんどん親きょうだい親戚なんかで煩わしさが増えてくる年代だろうけど、うちにはその煩わしさが全くない。


世の中には家族がめちゃくちゃで人生を壊されたりする人もいる中、
私は本当に家族運に恵まれてよかった。


私自身これから家族を作ることになるのか分からないけど、
楽しくなくちゃ、本当に好きな人とじゃないと家族になれないだろう。


だって私は家族のことを、命をかけて愛を注ぎ
守っていきたいから。 

それがお父さんが私にしてくれたことだったから。

もしかしたらお父さんは自分のやりたいことを全部やれた人生ではなかったのかもしれません。
だけど家族を守るという大きな責任を果たしてくれました。それはとても大きくて強い愛です。

私もお父さんから受けた大きな愛を 
私の大好きで大切な人たちに、これからたくさん注いでいきます。
お父さん、ありがとうございました。

父へ向けた弔辞の最後の部分



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?