人とコンピュータが共生する時代に向けて私たちは、なにをすべきか
こんばんは、ろろいです。新年度がはじまりましてリモートワークが増え少し身体を動かす機会が増えました。出社自体が嫌なわけではないのですが、時間の使い方や行動の取捨選択をより厳密に行う必要があるため、しばらくは不慣れな生活が続きそうです。
さて、本題に入る前に、皆様からの数多くのリアクションについてお礼申し上げます。このように自分の考えをまとめていくのは不慣れですが、一定みていただけるということも実感しましたので続けていきたいと思います。よろしくおねがいします。
SINIC理論から見る、次の社会
社会のプロセスを把握するとき、よくSINIC理論をもとに考えます。1970年にオムロンの創設者である立石氏によって提唱された理論です。詳細な説明は以下にて。
オムロンのサイトには次の画像が掲載されています。この画像の流れによれば、インターネットによって情報化社会となり、情報洪水の時代にレコメンデーションが登場して最適化社会となりました。次は自律社会が到来すると言われていますが、どんな社会なのでしょうか。
自律社会とは?
SINIC理論における自律社会の理解を深めるために、オムロン社が提供している解説PDFを見てみましょう。
自律社会では社会が更に成熟し、経済的な幸福以外の感情や心の重要度が増すことからこれらの人間に強く関係する科学や技術の発展が求められます。これによって、人間と機械(コンピュータ)の関係は更に発展を遂げ、「融和状態」に進むことになるとしています。人間が過ごしやすいというだけではなく、人間が過ごしやすくなるためにコンピュータにとっても過ごしやすい社会構造への転換、そして人間自体へのコンピュータの統合、いわゆる人機一体によって、より機会を得ることができる社会の到来が期待されています。
自律社会に向けた課題
さて一方でそういった社会に向けての課題も多く生まれています。例えばシンプルな課題は恐怖感です。人間の体にコンピュータを埋め込むような取り組みは海外でも行われていますが、それ自体が怖いという声もあります。VRのようなデバイスも慣れなければ不安になるものですし、昨今のAIによる様々な反応はまさにその代表例ともいえるでしょう。新しい技術の登場は期待されている反面、心の準備が求められるものが数多く存在します。
似たようなことを歴史は数多く経験してきました。一番身近なものはガラケーとスマートフォンです。高機能で今や殆どのユーザーがスマートフォンの操作に慣れていましたが、当初は画面をタッチする操作に不満がでたり、セキュリティの不安などによって機種を変えるユーザーは限定的でした。一方、動画サービスが増えたり、サービスサイトが増えるにつれてユーザーは増えていきましたし、就職活動などにおいてはノートパソコンではなくスマートフォンで対応が完結する場面も見られるように感じます。(あいにく私が就職活動をしていないため想像の域を超えません)
このような側面から見いだせることは「ユーザーは新しい技術の使い方がわからないが故に不安を感じ、立ち止まる」ということです。
先端技術の到来に順応できる社会
技術ではなく、用途を規制せよ
chatGPTの登場によって多くの人が見解を述べるようになりました。
ホワイトカラーの仕事が●割なくなる!
プログラマーはもういらない
事務職が消える
このような言説の一部には消費者を煽るようなものも認められますが、一方で消費者らはそれに関心があり気にするようになったことも事実です。AIを効率的に使おうという人、使わずに筋肉を磨こうという人など人々の反応も多岐にわたっています。
ただ個人の感情がどうであれ、「chatGPT」をやめさせようということはできません。そのため、イタリアのように全面的にchatGPTの仕様を禁止する試みもでてきています。
そんな中、私が注目したいのはイギリスのAI利用についてのガイドラインでした。イギリスはAI時代での再起を狙いAIへの投資を加速させています。
イギリス政府はAIにおいて技術立国を目指すために、AIの適切な社会実装を積極的に推進するという考え方を持っているため、社会実装においては、AIによるイノベーションを期待するために正しくリスクを把握し、正しく社会に普及させるための活動を行うとしています。その中で特徴的であったのが「Regulating the use – not the technology」
というフレーズです。直訳すると「技術ではなく、用途を規制する」です。この考え方は技術を正しく使い社会を発展させようという心意気の象徴とえいましょう。
正しく学び、正しく捉える
私たちの多くはスマートフォンの使い方を学校で習っていません。ある世代からはコンピュータの授業が取り入れられていると聞きましたが、教えているのは「コンピュータがない時代に育った人たち」であることもしばしばです。中学と高校時代の情報の授業では、先生よりも私のほうが詳しいという逆転現象が生まれていたこともありました。今でもこれは顕著な面があるかもしれません。
同じように、私たちはAIについて学校で学ぶことをしてきませんでした。そしてAIについて教えている教育機関も僅かであり、日常生活でAIという存在について正しく理解することがとても難しい状態になっています。正しく学べないということは、正しく捉えられないということであり、正しく備えられないということです。特に日本社会は新しい技術を社会に浸透させるのがとても不慣れであり、企業サイトに当たり前にあるチャットボットが市政のサイトには当たり前に見られなかったりしています。需要があるのにも関わらず、不便な状態を無意識に受け入れてしまっています。
私たちはもっとAIやロボットや先端技術、つまり「社会を構成する要素技術」について学ぶべきであり、国会の仕組みと同等に理解しておくべきものです。
正しく学ぶために必要なことの一つは、自ら考えることです。誰かの発言を鵜呑みにするのではなく、自分で触れてみてどう思うかを感じることは直感的な理解を助けます。漠然とした不安を感じるのだとしたらそれはなぜなのか、ワクワクしたとすればそれは何が理由なのか、ぜひ考えてみましょう。