掌編小説【薔薇喪失】20.華麗なる脚本のルリユール
大鎌の先端が毛皮のマントの端を刺した。逃れたマントは裂けて破れた。黒影に追われながら、ルイは重たい身体で走っていた。目的地はない。逃げられれば何処でもよかったのである。ルイを追いかけて来るのは死神の群れのように見えたが、群をなす者たちは奇怪な笑い声を上げて各々が持つ鎌や鉈、鉄棒を振り回している人間だった。死神が着ている服を模した黒いマントをかぶって、群れの数を増やしては追って来る。
生まれ持った重たい権威を一つ一つ脱ぎ捨てながら、ルイはひた走った。ルイは太っていて早く走れなかった。誰かの気紛れのような激痛が片足を貫いた。激痛を訴える足には誰かの悪意のように薔薇が突き刺さっている。躓いて、呆気なく倒れてしまう。群れはたちまちルイに飛びかかり、かつて国王と呼ばれていた概念を、
身ぐるみ剥がして歪な哄笑を響かせていた。ルイは冠だけは掴んで離さなかった。腐った百合の匂いを放ち始めた冠は、奇妙な粘り気を手のひらに与えたが、ルイは意識を手放した……
瞬いた目には、目覚めたにも拘らず死膜が降りていた。ルイは冷たい牢獄にいた。汚れた冠を掴んだままだった。煌びやかだった服は追い剥ぎにあったように惨めで、唯一守ったつもりだった冠もあらゆる穢れに汚れていた。鉄格子の影を悲しくかぶりながら、寒さに震えた。
急に恐ろしくなった。何が起きたわけでもないのに、命の危機を感じたのだ。弾かれたように顔を上げると、鉄格子の向こうに、背の高い影が優美に佇んでいた。誰がきた気配も、無かったはずだった。
麗人は完璧が過ぎる、美に愛された白面に哀愁を含んだ淡い笑みを浮かべたのだった。その笑みは、麗人の美貌を、魔物めいた美しさをより酷薄に彩っていた。黒革と紺地の服は、限りなく装飾を削った作りだったが、麗人の美しさが、存在そのものが過剰な権力であったゆえに、飾りのなさがかえって凜然としていた。豪奢な服もさぞかし似合うのであろうが、無駄な装飾は不要だと言わんばかりの美が、権力として君臨していた。
ルイがいた場所は牢獄だった。格子から微細な歔欷が滴る、妬みと悲しみに編み上げられた牢獄だった。ルイは音もなく現れた美しいものに、恐る恐る尋ねた。
「……私を……殺さないのか……?」
麗人は優雅に首を傾げただけだった。
「私には分かる、君は……私を殺して王の名を手に入れるつもりだろう……?」
麗人は反対に首を傾げただけだった。この麗人こそ自分の権力に終止符を打つ死神だとルイは信じていた。ゆえに、麗人の反応は不可解なものであった。麗人は淡い霧のような冷たい憂愁に残酷を煙らせて、美貌に氷の凍気を刷く。
「貴様にも、王位にも、僕は興味がない……貴様などとるに足らない、王位みたいな不安定な権力なんて要らない……僕には、揺らがない真理としての権力がある」
「揺らがない権力……?」
ルイは間抜けに呟いた。呆けた質問に、麗人は淡々と答える。
「僕には、美しさという絶対がある」
「そんな……美こそ不安定ではないのか?」
ルイは思わず反論した。だがそんな反問は、ぴしゃりと頬を打たれたように終わる。
「僕の美しさは揺らぐことも移ろうこともしない」
素直で単純な疑問さえ付け入る隙間がない問答だった。ルイが言葉を探している間に、麗人は悲しみと嘆きを燃やして製造した歔欷の格子に長い指先を絡めて、深い慨嘆を零した。麗人が触れた嘆きが、壊れたレコードが吐く音のように不協和音を立てる。
「最も強い権力は美だ」
「どんな馬鹿や愚か者にでも分かる力だ」
「飾り立てる必要もなければ、強さを装う必要もない」
沈黙を強いられたルイに、麗人は続け様に言った。
「飾りが必要な権力こそ、脆いものだよ」
麗人が左手の指先を弾くと、ルイの手をすり抜けて、冠が転がっていった。牢屋の外に、鉄格子の外に単身出ていくと、麗人に拾われる。
「たった一人で権力を成すことは難しい……まあ、僕ならばできるだろうけれど」
麗人に拾われた冠は、ルイの手にあったときはこの世の穢れの全てを背負っていたように醜かったが、麗人の指先が触れた箇所から煌びやかな光を放ち始めた。金細工の冠と埋め込まれた宝石は、麗人の手の中で構成要素を分解されて崩れ、違うものに姿を変えていた。
「だから血で権力に名を刻む。貴様の系譜がそうであったように。僕の系譜は貴様たちよりも悪辣だった……権力を築く行為は系譜の悪意と悲劇で、僕の先祖たちは何代もの悪意を注いで僕という存在をこの世界の舞台に立たせたんだ」
麗人の手の中で構成要素を練り直されていた冠は、血のように赤い薔薇の冠になっていた。
「権力は腐敗するよ、ただ肥やしていても、血だけを守っていても……」
薔薇の花冠を頭に載せて、麗人は酷薄な睫毛を伏せた。そっと手を開き、悲しみで出来た鉄格子を掴むと、いくつもの世界に幕を引いてきた戦慄が激震した。風はないにも拘らず、麗人を包んでいるのは、禍々しい瘴気である。
「権力には、権力を扱う器と、権力を操るに見合った力が必要だ。それらが揃わなければ、権力は持てても権力者にはなれないのさ」
牢獄を作っていた嘆きと悲しみは、構成要素をばらばらに打ち砕かれていた。悲しみだったものが、美しい物語を、自分だけのものとして愛するために集めた物語を、編み上げるように製本されていく。栄華は黒く塗りつぶされ、脚本は上書きされ、途絶えた功績には別の誰かの悪意が加筆を施す。拾い集めた歔欷の欠片が、泣くことをやめていく……
「僕という美しさは、悲劇的謀略」
鉄格子は消えていた。王権もろとも消えていた。惨めに着物を剥かれた、権力の亡骸が滑稽に座り込んでいるだけで。
麗人は笑わなかった。この世に存在する可笑しいものなど、何一つ知らないような美貌だった。
「権力が大切なら、すがるのに守れないなら、せめて名前でも書けばいいじゃないか」
麗人は玲瓏と響く声で、何もなくなった闇の中に差し込む光に佇みながら、権力だったものを見下ろしていた。存在するだけで何も貶さずに無様にする美しさは、細くなった光の中に消えて、惨めに捨て置かれた太った男だけが、暗がりの中で動けなくなっていた。