何も見ても何かを思い出す日記(2024年8月10日)

 あれは偶然を自ら迎えに行ったようなそんな出来事だった、などと思いながら、洗濯物の入ったIKEYAのブルーのデカ袋を担いで横断歩道を渡った。
 偶然について思い巡らすのはなにも僕だけではない。写真家の藤原新也は80歳になったいまも、決定的な瞬間を写真に収めたときの撮影体験を振り返って、そのような偶然とも必然とも簡単に割り切れないような出来事のことを、「偶然に至ること」の意味で「偶至」(ぐうち)と表現して探求を続けている。
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 森下駅近くの喫茶店〈珈琲館〉で、四方田犬彦の『モロッコ流謫』(2000)の続きを読んで時間を過ごしたあと、コインランドリーに寄って、乾燥が終った衣服をピックアップしてアパートに戻った僕は、本棚から『千夜千冊EDITION「心とトラウマ」』を抜き取った。
 町田覚の意匠による章扉の線画を眺めたくなることがたまにある。開いたページは、第二章「自分の中の別人たち」の、アシュレイ・モンターギュ著『ネオテニー』の回の冒頭だった。
 その冒頭で、著者の松岡正剛は、オルダス・ハクスリーの『夏幾度も巡り来て後に』(近代文藝社)を引用していた。
 夏葉社から刊行された本のタイトルにもなった、生け花や映画の本を刊行したあの戦前の出版社のことが一瞬頭をよぎったが、それは『第一藝文社をさがして』(林田リツ子著)の思い違いだと思いなおした。 
 オルダス・ハクスリーのその本の原題は "After Many a Summer Dies the Swan" ではなかったか。すらすらと原題が思い出されたのは、クリストファー・イシャウッドの傑作小説 ”Single Man”(未邦訳)で、主人公の大学教授のジョージが講義で取り上げていた作品だったからだった。
 部屋の中央の、段ボール製の靴箱を積み上げてつくった即席本棚に目をやると、Vintageから2010年に出たペーパーバッグ版の"Single Man"がみえた。
 ゴア・ヴィタールに「英語で書かれた散文の最高の書き手」と呼ばれたイシャウッド。「まえがき」を寄せているファッション・デザイナーのトム・フォードの手で2009年に映画化されたが邦訳はまだない。1964年に書かれた"Single Man"は著者自身お気に入りの作品でもあるという。
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 『モロッコ流謫』は、若い友人の中村君に6月に連れられて行った古書店で買い求めた。
 その日は、「山の下の文章教室」と僕らが呼んでいる会合の初回だった。
中村君の気持ちのいい新居で行われた文章教室が成功裡に終わって、そのまま別れるのが惜しくて誰からともなく隣駅の書店に行こう、ということになったのだった。
 〈スノードロップ〉という店名は、21年に実店舗の営業を終えた古書店〈ポラン書房〉との関係性とともに、少し前に中村君からから聞いていた。
 〈ポラン書房〉の閉店の様子を収めたドキュメンタリー『最終頁』をUnextで見ていたこともあり、いつか行きたいと思っていた。このたった10分間の映像作品は僕の胸の内に忘れがたい印象を残していた。
 Snowdropという店名を聞いてなんとなく、ポール・ギャリコの『雪のひとひら』(Snowflake・矢川澄子訳)のことが思い出され、書名と店名を重ね合わせては勝手に好印象を抱いていた。
 『雪のひとひら』のことは、『スカイ・クロラ』(森博嗣)シリーズの最終巻『スカイ・イクリプス』での引用で知った。
 『スカイ・クロラ』シリーズは、強烈な寂寥感に追い立てられていた18歳の頃、富永太郎の詩とともに心の支えだった。章扉のページの表に原文が、裏に訳が載っているのをノートに書き写したり、原文を音読したりして無聊を慰めることで、遁走しなくてはたまらない気持ちをギリギリのところでなんとか抑えていた。
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 At first she resisted, for even though she had lost those dearest to her, she was still with love of life. Lonely though she was in this vast emptiness, she was still glad to see the colours in the sky at dusk, or watch the yellow moon rise from the rim of the ocean, to greet a bird winging its solitary way across the wastes of water or to try to count the stars that spangled the heavens at night.  
                      (SNOWFLAKE/Paul Gallico)
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 作家ポウル・ボウルズの名前が帯にあるのを見て買うのを即決して『モロッコ流謫』をレジに持っていった。『最終頁』を観たことは店主に伝えることができた。
 鎌倉駅の駅前の〈たらば書房〉でボウルズの『シェルタリング・スカイ』を取り寄せてもらったのは、まだ地元に住んでいた今から10年前のことだ。
 全体にわたって流れている、空気みたいに透き通った文体は感じ取れたものの、実はそれは鍵と鍵穴が一致しないような読書体験でもあった。
 『モロッコ流謫』を読めば、20代前半だったじぶんに足りなかった何かが得られるのではいか——そんな漠然とした期待があった。
 裏表紙をみると、「ヨーロッパの果て、アフリカの始まり。モロッコは驚異と謎そのものだ。著者自身の濃密な体験と五感の記憶が独特のイスラム文化や歴史への深い洞察を誘い、「地中海の余白」の肖像を描く」とある。読みたいという気持ちの背中を押してくれた気がした。
 新たな扉が開く予感がした。

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