ダビデ王とタルムードの注解者
「あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻(=バト・シェバ)を奪って自分の妻とした。」(サムエル記下12章9節)。このように、預言者ナタンはダビデ王に真実を突きつけた。そしてダビデはすんなり反省したので、処罰を免れた。
図:Utopia, armarium codicum bibliophilorum, Cod. 111, f. 64r – シャルル5世『時祷書』パリ、1488年頃、www.e-codices.ch/en/utp/0111
実に恥ずべき行為であったが、今日に至るまで、これを隠蔽し、もみ消そうとした者は一人もいない。新約聖書の冒頭にあるイエスの系図にも、ダビデが「ウリヤの妻によってソロモンをもうけた」(マタイ1章6節)と書いてあり、ユダヤ教の伝統においても、キリスト教の伝統においても、ウリヤの殺害が大罪だったことが否定されることはなかった。しかし、創意に富んだ説明でダビデの行為を正当化する試みはいくつかある。やはり、かの有名なダビデ王がそのようなことをしたのは受け入れ難いことであったらしい。
ある年の春、ダビデは家臣とイスラエルの全軍を送り出したが、一緒に出陣せず、エルサレムに留まった。戦争で死ぬ公算が大きいので、それ自体は賢い決断だったと言えよう。ただ、王宮にこもった暮らしで生活のリズムが崩れ、やっと夕暮れに起きるようになった。そして、王宮の屋上を散歩し、バト・シェバが水浴びしているのを目に留めた。それがウリヤの死で終わる悲劇の発端となった。
図:Trogen, Kantonsbibliothek AR, CM Ms. 13, f. 15r – Johann von Schwarzenberg『道徳の備忘録』オーストリア、1530-1540年、www.e-codices.ch/en/cea/0013
ダビデがウリヤの殺害を計画したことを否定する余地はなかったが、タルムードの注解者は、ダビデを弁明するために、ウリヤの死を不服従に対する処分と解釈した。何故なら、ウリヤは何度も自宅で休憩を取るよう命じられたにもかかわらず、妻のいる家に帰らず王宮の入口で眠ったからだ。明らかに死刑に処する程の重い犯罪ではなかったが、ダビデの弁明者はそれを気にかけなかった。
取り消しのつかない結果を招いたバト・シェバへの一瞥がなかったとしたら、それ以上ダビデを弁明することもなかっただろう。しかし、ダビデが敢えて水浴びをする女性を探したという疑いを払拭するために、タルムードの注解者はこう語る。
もともとバト・シェバがミツバチの巣箱の後ろに隠れて水浴びをしたので、王宮の屋上を散歩していたダビデ王には、彼女の姿が見えなかった。その時に突如、鳥が飛んできた。それは鳥に化けた悪魔だった。ダビデは素早く弓を射たが、矢が悪魔にかわされ、的中せず、ミツバチの巣箱に当たり、壊してしまった。そして巣箱の後ろに水浴びしていたバト・シェバがダビデの目に入った。当然、直ぐに目を反らすことはできたはずだが、そうしなかった。タルムードの註解者も、この点は弁明する必要がないと思ったらしい。バト・シェバへの一瞥が悪魔の仕業だったなら、ダビデには非がなかったはずだ。(bSan 107a、タルムード、バビロニア版、サンヘドリン107a)
憧れの対象であるダビデ王を弁明しようとする註解者の態度は理解はできるが、肯定することもできまい。何故なら、憧憬の念をもって人を見ることと、軽蔑する人を必要以上に厳しく責めることとは、同一のコインの裏と表だ。注解者が厳しい目で見ていたのは、例えばカインである。彼らは神がアベルの殺害を許したことに納得できず、カインの罪に相応しい処分が死刑だと思い、そのような話を作った。
それに対して、尊敬されるべき人ははるかに丁寧に扱われており、彼らの悪事を弁明したり、見逃したりする。鳥に化けた悪魔の話もその態度を表す一例であろう。タルムードの注解者だけでなく、私たちも同じようなことをする恐れはあるのではなかろうか。
ある人の行動を理解しようと努めることは大切である。しかし、その態度は万人に向けて望まれることであろう。