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呪滅の言霊 │ 第六話

   第六話 砂塵の中の亡者
 
 
 青年がハンドルを町の奥へ向けて切ったことに、少年は後部座席で首を傾げた。
「にーちゃん、町を出るんじゃないのか?」
 すると、青年はちらりと少年を見た。
「食い扶持が増えたせいで懐減りが早い。さっき職を見付けた。おまえにも働いてもらうぞ」
「えー!」
 少年の盛大な嘆息に、青年が顔をしかめる。
「タダ飯喰らう気なら叩き落とすぞ。だいたい、役に立つと豪語したのは、どこのどいつだ」
「そうじゃなくて――いや、そうなんだけど」
 不服そうというよりは困惑気味な少年に、青年は眉根を寄せた。
「何だ」
「……だってにーちゃん、言霊師なんだろ? 『カネよ、降ってこい!』とか言ったら、降ってくるんじゃないの?」
 途端、青年が急ブレーキをかけたため、少年は青年の背中に顔を打ち付けてしまった。
「にーちゃん! もう、止めるならヒトコト言ってくれよっ」
 危うく鞭打ち症になりかけた少年は、首筋を揉みながら青年を睨み付けた。しかし、それに応じたのは、青年の冷たい声だった。
「降りろ」
「え?」
「今すぐそこから降りろ」
 先ほどとは打って変わって、肩越しにこちらを見る青年の凍てついた蒼い瞳が少年を突き刺す。
「に、にー――」
「降りろと言ってる!」
「ヤ、ヤだ……」
 少年は首を横に振ると、後部座席の手すりにしがみついた。青年が本気なのは明らかだった。今ここで降りてしまえば、青年は少年を振り返ることもなくサンドバイクを発進させるだろう。
「ごめんなさい。にーちゃん、ごめんなさい!」
 縮こまり、手すりに頭を擦りつけるようにして詫びる少年を見て、青年は苛立たしげに吐息した。
「……二度とそんなこと言うな」
 少年の下で、再びエンジンが腹に響く音を上げる。そのリズムは、まるで早鐘を打つ少年の心臓のようだった。
 
 
 ただでさえ口数が少ないうえ、決して自分のことを語ろうとしない青年の過去など、少年が知る術はない。しかし、出会ってからの青年の言動を鑑かんがみるに、彼が私利私欲のために言霊を発したことは、一度としてなかった。
「オレって、なんてバカなんだろ……」
 町の外れにある森の前でサンドバイクを止め、遊歩道の入口に向かって歩いていく青年を、少年は後部座席に座ったまま見送りながら項垂れた。
(にーちゃん、言霊師ってことをできるだけ隠しておきたいみたいだから、金儲けになんか言霊を使うはずないよな。アレでけっこうマジメだし……)
 その力ゆえか、他人とは一線をかくして接する青年だが、決して人嫌いというわけではない。それどころか、意外と義理堅いところがあることを、自分が青年のもとへ来ることになった経緯から、少年は承知している。
 青年は、気質の人間には礼儀正しく、物事に必ず筋を通す。少年の得意技だった『嘘八百』が、今ではすっかり幻の技と化しているのも、偏に彼のおかげだった。
「ミホルバ、オレ……どんどん自信がなくなっていくよ……」
 少年が小さな肩を落とした時、視界の端に手招きする青年が映った。サンドバイクを降りて彼の方へ走っていくと、その先に現れた美しい滝の前に、ひとりの男が立っているのが見えた。
「なぁ、にーちゃん。仕事って、どんな仕事?」
「ボディガードだ」
「ボディガード!? すっげぇ! カッコいい! ――で、誰の?」
「知らん」
「えっ、知らないの!? そんなんでガードできるの?」
 その時、待っていた男が舌打ちした。
「それはこっちのセリフだ。職屋め、コブ付きなんぞ寄越しやがって」
 スキンヘッドにサングラス、黒いスーツという出で立ちの男があからさまに顔をしかめ、それを見た少年は憤慨した。
「なんだとー! オレはコブなんかじゃないぞ! おまえの頭の方がコブじゃないか!」
「なんだと、このクソガキ!」
 男が振り上げた拳をかわそうと、少年が青年の背後に隠れた時だった。
「ミゲルさーん! 新しい人、来たんですかー?」
 足下で可愛らしい声が上がり、少年は半円形に滝を取り囲むように造られた遊歩道の手すりから身を乗り出した。すると、滝の正面の川面に頭を覗かせている岩の上に、妖精のような白い薄布の衣装を纏った少女が立っていた。
「えっ、うそっ。あれ、ココロちゃん!?」
 少年の言葉に眉根を寄せた青年が同じように下を見下ろすと、確かにそこにいたのはマイロタウンのアイドルだった。今の今まで気付かなかったということは、どうやら言霊をばらまくのはやめたらしい。
「えっ、あら!? あなた、この間の旅人さん……!?」
 青年に気付いた少女が驚愕の表情とともに彼を見つめ、青年は軽く手を挙げた。それを見た少年が、青年に詰め寄る。
「なになに何で!? 何でにーちゃん、ココロちゃんと知り合いなの!? ねぇ、どうして!?」
「うるさいぞ、ロップ」
「えー、だって、ココロちゃんだよ!?」
 その時、二人の間にミゲルと呼ばれた男が割って入った。
「私もぜひ聞いておきたいな。なぜココロを知っている?」
 青年は男の高圧的な態度に一瞬、顔をしかめたが、ふいに小さく笑った。
「マイロタウンで彼女を知らないヤツはいないだろ、マネージャーさんよ」
 本当のことを告げてもよかったが、おそらく少女と出会ったラーメン屋台は、誰にも秘密の彼女の隠れ家なのだろう。
 アイドルが危険地帯の場末の屋台に出入りすることを、マネージャーが許すはずがない。多忙な少女から数少ない憩いの場を奪うのは、なんとなくためらわれた。
 はぐらかした青年に男が舌打ちした時、衣装を翻した少女が遊歩道まで駆け上がってきた。
「旅人さん、もしかしてあなたなの!? 新しいボディガードって!」
「まだだ。コブ付きは嫌らしい」
「コブ?」
 少女は青年の視線を追っていて、彼女を呆然と見ている少年に目を留めた。
「まぁ、旅人さんの弟? かわいい頭ね。毎朝、セットが大変そうだけど」
 少女ににっこりと微笑まれて、少年は一瞬で真っ赤になってしまった。少女はそれに笑いながら、マネージャーの男を振り返った。
「ミゲルさん、私、前に旅人さんに帽子を拾ってもらったんです。信頼できる人だから、ボディガード、この人にお願いして下さい」
 その淀みない説明に、ミゲルは不服げであったが、懐から契約書を取り出した。
「ココロはこれから写真集の撮影だ。期間はそれが終了する明後日まで。カネは前金で三十万。ココロに万が一のことがあったら、あとはナシだ」
「『万が一』の心当たりはないのか?」
 わざわざボディガードを雇うというのには、それなりの理由があるように思った。
 青年の問いかけに、行きかけていたミゲルは硬い面持ちで答えた。
「……それは常にある。彼女はただのアイドルじゃない」
「――あぁ、そうだったな」
 マイロタウンのラーメン屋の主人が言っていたのを、青年は思い出した。少女は、マイロタウンを牛耳るヴォザールの孫娘だった。彼女を狙うのがただのストーカーばかりではないことは、容易に想像がついた。
 撮影スタッフとの顔合わせの後、青年は滝の霧雨の中、耳を澄ませると、渡された工程表を眺めた。

     ■□■

「……ヒマ」
 川辺に張られたテントの中で、少年は机に頬を付けたまま呟いた。
 撮影が始まった直後は、青年の隣で、少女に何か危険が迫っていないかと見張っていたのだが、そのやる気が災いして、川に落ちてしまった。水深は少年の膝の高さまでしかない浅瀬だったが、なにぶん機械都市マイロタウン出身の少年は泳ぐことができず、「溺れる!」と大騒ぎしてしまった。そして、撮影現場から追い出されてしまったのだ。その後、天気も良く、撮影は極めて順調だったが、彼にはかえって名誉挽回の機会が欲しいところだった。
 その時、撮影スタッフのひとりが少年に話しかけてきた。
「ねぇ、ボク。あなたのお兄さん、何ていう名前なの?」
 二十代半ばと思われる女性だったが、彼女は遠くに見える青年をちらちらと見ながら、そう訊いてきた。
「え? にーちゃんの名前?」
「そう、名前よ」
「そんなの本人に訊いてよ。何で訊かないの?」
 不愉快げに少年が答えると、女性も少しむっとしたようだった。
「訊いたけど教えてくれないのよ。『ボディガードでいい』って」
「じゃ、あんたに教えて馴れ馴れしく呼ばれたくないんでしょ」
 少年が今の席に着いてからというもの、女性のスタッフたちが話しかけてくる内容といえば、決まって「あなたのお兄さんの名前は?」だった。最初のうちは愛想よく応対していた少年だったが、それが度重なると嫌気も差すというものだ。
「まぁ、何て言い種!」
 女性は目を吊り上げると、少年を睨み付けてテントから出て行ってしまった。少年が盛大に溜め息を吐いた時、またしても声がかかった。
「ねぇ、コブくん」
「もう、うるさいなぁ! にーちゃんの名前は、にーちゃんに訊いてよ!」
 怒り任せに怒鳴って振り返った少年は、すぐに後悔した。そこには、我が故郷マイロタウンが誇るアイドルが立っていたのだ。
「あっ、ココ、ココロちゃん!」
 幸い少女は気を悪くした様子もなく、少年に向かってジュースを差し出してきた。
「もう服乾いたみたいね。さっきは追い出しちゃったりしてごめんね」
「い、いい、いいんだよ、そんな! オレの方こそ、邪魔しちゃってごめんなさい!」
「ふふ。コブくん、かわいいね」
「オ、オレ、ロップっていうんだ。でも、コブくん、でいいけど」
 すると、「じゃあ、コブくんね」と、少女は少年の隣に腰を下ろした。
「コブくんは旅人さんの弟?」
「ううん、違うよ。オレはねぇ、命の恩人にして頼もしい相棒だよ」
「誰が頼もしい相棒だ、誰が」
 突如、背後から抑揚のない声音で反論が上がり、二人が振り返ると、そこに青年が立っていた。
「に、にーちゃん!」
 少年は内心のしまったという思いを表情に出しながら、ぷうっと頬を膨らませた。
「にーちゃん、あっち行けよぉ。今、オレがココロちゃんと話してるんだから」
「オレはこいつのボディガードだ」
「ココロちゃんを『こいつ』って言うな! だいたい、オレだってボディガードだ!」
「川に落ちて大騒ぎしたのはどこのどいつだ」
「う、うるさい!」
 その時、突然、少女が笑い出した。
「あなたたち、本当の兄弟みたいね」
 
 
 その夜、青年が少女の寝泊りするトレーラーの周囲を見張っていると、ふいにその扉が開いた。既に明かりが消えてから時間が経っており、寝たとばかり思っていたので、青年は、「こんばんは」と挨拶してきた少女に首を傾げた。
「どこに行くつもりだ?」
「あなたが空くのを待ってたんだけど――」
 そこで言葉を切ると、少女は青年の後方に向かって手を振った。青年がそちらを振り返ると、スタッフの女性が肩を竦めながら去っていくのが見えた。
「私が寝たらあなたの仕事も一段落すると思ったんだけど、なかなかそうも行かなかったから出てきたの。モテモテね」
「興味ない」
 青年の投げやりな言い方にくすりと笑うと、少女は青年の周囲を見回した。
「コブくんは?」
「トレーラーだ」
「じゃ、行きましょう」
 言うなり、青年たちにあてがわれたトレーラーへ向かって歩き出す少女の腕を、青年は咄嗟に掴んだ。
「おい」
「コブくんとお話ししたいんだもの。ね、少しだけだから」
 両手を合わせて拝んでくる少女に、青年は小さく溜め息を吐くと、無言のまま歩き出した。その後ろを嬉しそうに追いかけながら、少女は小声で尋ねた。
「ねぇ、旅人さん。ちょっと訊くんだけど、この仕事の報酬っていくら?」
「百万だが?」
 青年が眉根を寄せながら答えると、少女は「そう」と頷いたまま、トレーラーまで無言だった。
 
 
「コブくん、遊びに来たよー!」
 勢いよく開いた扉にアイドルの姿を見て、トレーラーの狭いベッドに横になっていた少年は飛び起きた。
 青年に自分も夜の警備を一緒にすると言ったのだが許されず、反対に以前同様、寝ていなかったら置き去りにすると脅されて、仕方なく言うことを聞いていた少年だった。
「よ、ようこそ、ココロちゃん! あの、狭いけど――あ、いや、あの、ト、トレーラーってそもそもこんな大きさだよねっ。えっと、あの……」
「何を言ってるんだ、おまえは」
 突然のアイドル訪問にすっかり舞い上がってしまっている少年を見て、青年は呆れた。
「う、うるさいなっ。だって、ココロちゃんだよ!?」
 青年に促されて、少年の向かい側の青年のベッドに腰を下ろすと、少女はふふっと笑った。
「こんなに喜んでもらえるなんて、光栄だわ」
「そ、そんな……こっちこそ、わざわざ来てもらえるなんて……」
 半ば涙目になりながら感激している少年を見て、馬鹿馬鹿しくなった青年は再び扉を開いた。
「オレは外にいるから。何かあったら呼べ」
 すると、少女が慌てて青年を呼び止めた。
「あなたにも話があるのよ」
「オレにはない」
「にーちゃん!」
 少年の憤慨も無視して扉を閉めようとする青年に、少女は抱え込んでいた疑問を思い切って少年にぶつけた。
「コブくん、旅人さんって言霊師なの?」
「えっ……」
 少年の泳いだ視線が扉を閉める途中で動きを止めた青年に留まり、少女は確信した。
「やっぱり、そうだったんだ……」
 それを聞いて、青年は苛立ちを露わにすると、再びトレーラーに入り、扉を閉めた。そのうえで、少年を睨み付ける。
「ご、ごめん、にーちゃん……」
 少年が縮こまるのを見て、少女は慌てて二人の間に割って入った。
「コブくんを責めないで。私が悪いんだから。ごめんなさい」
「それを確かめてどうするつもりだ」
「し、仕事を頼みたいの」
「仕事?」
「……私を、自由にして欲しいの」
 少女は顔を伏せ、蚊の鳴くような声で言ったが、二人はその言葉を聞き逃さなかった。
「自由!?」
「……仕事をやめたいってことか? だったら――」
「『マネージャーに言えばいい』なんて言わないで!」
 ベッドの上で少女が拳を握りしめ、シーツに皺が寄った。
「もう、何度も言ったわ。でも、全然ダメで……オフもどんどん奪り上げられちゃって……」
 そういえば、と青年は少女と初めて会った時のことを思い出した。あの時もオフだったのを急に呼び出され、ラーメンを味わう暇もなく帰ってしまったのだ。
「旅人さん、屋台で旅のこと話してくれたでしょう? 私、とても羨ましかった。だから、今回の写真集、無理を言って、ここまで来て撮ることにしたの。初めて、バーチャルじゃなく……。でも、ちょっともう限界かな。せめてまとまったお休みが欲しい……」
「だが、おまえは歌う仕事が好きなんじゃないのか? こいつみたいなファンもたくさんいるんじゃないのか」
「確かに今の仕事は好きだけど、歌はいつでもどこでも歌えるわ。ファンのことは……コブくんには申し訳ないけど、私、このままじゃ、歌が楽しいと思う心さえ失くしてしまいそうで」
「ココロちゃん……」
 少年の心配そうな顔に申し訳なさそうな顔をすると、少女は再び青年を見た。
「屋台のおじいちゃんにね、あなたが私にしてくれたことを話したの。そしたら、旅人さんのことを言霊師じゃないかって。言霊師が言うことは、現実になるんでしょう? だから、あなたなら、私を自由にしてくれるんじゃないかって――」
「馬鹿馬鹿しい」
 青年は少女の言葉を一蹴した。
「何でオレがおまえのためにそんなことをしなければならないんだ」
「お、お金なら払うわ」
 少年が慌てて少女の口を塞ごうとするが、後の祭りである。青年の凍てついた蒼い瞳が怒りに染まった。
「出て行け」
「旅人さ――」
「出て行け!」
「に、にーちゃん!」
 少年が止めに入ったが、青年の怒りは収まらなかった。
「何が自由だ。金で得た自由など、自由であるものか。おまえの歌には心があると思っていたのに、失望した」
「にーちゃん!!」
「ボディガードの仕事は契約どおり、明後日まできっちりやってやる。だが、後のことは知るか」
 青年に手酷く返されて、少女は呼吸も忘れたように座り込んでいたが、やがてゆらりと立ち上がった。
「ココロちゃ……」
「おやすみなさい……」
 扉が力なく閉まるのを見て、少年はベッドから飛び降りると、青年を糾弾した。
「にーちゃん! どうしてあんな言い方するんだよ! ココロちゃんがかわいそうじゃないか!!」
「おまえは腹が立たないのか」
「なに……何で!?」
「おまえたちは裏切られたんだぞ。あんな中途半端な歌に踊らされて」
「そ、れは……でも、アイドルだって普通の女の子だもん。特にココロちゃんは、オレよりもまだ小さい時から働いてきたんだ。ちょっとくらい休んだっていいじゃないか」
「とにかく、あいつの仕事は請けない」
 うるさげに目を細める青年に、少年もそれ以上、反論することはできなかった。青年の言い分にも共感する部分があったからだ。
(確かにお金で手に入れた自由なんて、自由じゃないよな……。それに、実際、自由になった後のこともあるし……)
 マイロタウンの指導者の孫娘である以上、食うに困ることはないだろうが、アイドルをやめたとしても、結局はその立場が彼女を縛り続けることだろう。どんなものも、自分の力で手に入れたものでなければ、自分のものには成り得ないのだ。
 少年はトレーラーの窓から外を見た。少女から距離を取って送っている青年の背が小さく見えた。
「それにしても……」
 少年は盛大な溜め息を吐いた。
「にーちゃんは『頼りたい』『助けて欲しい』っていう女心をわかってないよなぁ」

     ■□■

 翌日、青年と少女は一切、会話を交わさなかった。しかし、被写体とカメラマンという関係ならともかく、被写体とボディガードにおいては、それも必要なことではなく、昨日に引き続き、撮影は順調に進んでいった。
「ココロちゃん、すごい……」
 森の妖精さながら、緑の衣装を纏って木々と戯れている少女を見て、少年は唸った。とても仕事に行き詰まった人間では浮かべることの出来ない、淀みない笑顔を、少女は浮かべていた。
「だから、これがあいつにとって天職なんだ」
 青年の言葉にも、改めて頷かざるを得ない。
「うん……」
 それから再び巡ってきた夜には、撮影終了を祝ってささやかなパーティが催された。
 この日、ボディガードではなく雑用係として役に立っていた少年は、早々に欠伸を始め、コップを間違えて酒を呑んでしまったのを機に、テント内の椅子の上で、深い眠りに落ちていった。――本来なら、それから朝まで目を覚ますことのない彼だが、周囲で怒声や悲鳴が上がれば別である。
「……なに……?」
 目の前で赤いものが燦然と輝きを放っているのを見て、少年は焦点の合わない目を擦った。そして、それがテントを燃す炎だと知ると、慌ててそこから表へと飛び出した。次の瞬間、炎の舌に舐められたテントが一気に崩れ落ちた。危機一髪だった。
「いったい何が……」
 少年は肩で大きく息をしながら周囲を見回した。目を閉じる前まで、確かにここは緑の楽園だった。しかし、今やあちらこちらで火の手が上がり、その中を逃げまどうスタッフたちの影が見える。中には既に川面で倒れ伏している者もいる。地獄絵図もかくやと思われる惨状だった。
「にーちゃ……にーちゃん!」
 青年の安否を案じ、少年が叫んだ時。ものすごい轟音と爆風のような風が、遊歩道から彼に向かって吹き付けてきた。それに伴い、テントや木々の炎が火柱のように立ち上って天を突く。
 少年が腕で顔を覆いながらやっとの思いで頭上を仰ぐと、漆黒の空に漆黒の鋼鉄の鳥が飛んでいるのが見えた。
「ヘ、ヘリ……!?」
 それは軍用のように巨大な物だった。少年がさらに目を凝らすと、その開かれたままの左側の扉の中に、彼らが守るべき少女の姿があった。
「コっ、ココロちゃん……!!」
 全身武装の男たち三人に羽交い締めにされた少女は、下方に向かって何事かを叫んでいた。その視線を追っていって、少年は探していた青年が遊歩道の上で身を立たせているのを発見した。
「にーちゃん、何やってんだよ! ココロちゃん、捕まっちゃったじゃないか!」
 自分の居眠りは棚に上げて、少年は地団駄を踏んだ。そして、遊歩道へと上がる階段に向かって駆け出す。しかし、駆けつけた少年に、青年はサンドバイクの鍵を放って言った。
「出発する準備をしておけ」
「にーちゃん、こんな時に何を言ってるんだよ!」
「早くしろ!」
 再び振り向いた青年の凍てついた蒼い瞳に紅い炎が揺らめくのを見て、少年は慌てて踵を返した。トレーラーから少ない荷物を持ち出すと、そこら辺に散乱していた物の中から食料を失敬し、青年のサンドバイクへ向かった。
 青年のサンドバイクの隣には、撮影用に持ってこられたショッキングピンクのサンドバイクが置かれてあった。少女用なので、青年の物よりはひと回り小さく、少年はそれに鍵が掛かったままなのに気付くと、二台一度にエンジンをかけた。
「にーちゃん……!」
 遠くに少年の声を聞いて、青年はいっそう腹に力を込めた。彼は先程からずっと、少女をさらおうとするヘリコプターの操縦者に、緊縛の言霊をかけていた。青年が少しでも気を抜くと、ヘリコプターは夜の闇に消え失せてしまう。消え失せるだけならまだしも、操縦者が失神したままでは、ヘリコプターの中の人間はこの世からさえ消え失せることになるのだ。だが、ようやくそれを解く瞬間がやって来た。
「鳥ならぬ者はその翼を落とせ。石たる者の運命に従い、深き地にて永きの眠りを」
 青年が呟いた瞬間、耳を塞ぎたくなるような音がして――実際、塞がずにはいられなかったが――、ヘリコプターの羽根がすべて引きちぎれ、周囲の山野に突き立った。そのうちの一枚は遊歩道を引き裂きながら進み、青年の鼻先でようやく止まった。
 翼を失った鋼鉄の鳥は、右側を下にしながら地面に叩きつけられた。
「何てこった! ココロちゃん!」
 遊歩道の下から爆音と火柱が上がり、少年はサンドバイクの後席から飛び降りた。遊歩道の柵から身を乗り出すと、ヘリコプターの胴体が真っ二つに折れ、その中に折り重なるように倒れた人影が見えた。
「嘘だろ……。ココロちゃん!!」
 少年が炎に紅く照らされた顔を歪めた時だった。
「コブくん、私はここにいるわ」
 背後で聞き覚えのある声がし、少年が眉根を寄せて振り返ると、そこには紛れもなく少女が立っていた。頬などが黒く汚れているが、どうやら怪我はないらしい。
「えっ、あれ……ココロちゃん? え、でも……あれ? あれ? 何で?」
 それは青年がヘリコプターの操縦者だけでなく、少女にも緊縛の言霊をかけていたからだった。もっとも、少女は空中そのものに縛られていて、そのため、ヘリコプターや男たちは彼女の身体をすり抜けるように落ちていったのだ。しかし、青年はそのことをいちいち説明しようとはしなかった。空中部隊は壊滅したが、一番最初に襲ってきた陸上部隊の暴漢たちがまだどこかにいるのだ。青年は二人の腕を掴むと、引きずるようにしてサンドバイクのもとへ駆け戻った。
「運転は出来るのか!?」
 青年の問いかけに、少女は恐怖の表情で頷いた。周囲の惨状が、彼女には信じられなかった。
「乗れ! 行くぞ!」
 サンドバイクを急発進させると、三人は町には戻らず、荒野を爆走した。彼らが巻き上げた砂塵は、やがて森から現れたサンドカーによって、さらに蹴散らされた。その運転席に座った女が、無線機に向かって微笑みかける。
「えぇ、間違いないわ。やっぱり『彼』が私たちの探してた闇の言霊師だった」
『捕らえたのか?』
 受信機から流れ出たのは、男の低い声だった。抑揚のないそれは、冷静で神経質そうな性を思わせる。
「いえ、残念ながら。ヘリを吹っ飛ばしてくれて、囮と一緒に逃げたわ。私たちも今から後を追いかけなきゃ」
『ならば、早く追え。何が目的かは知らんが、これ以上、奴の好き勝手にされては、バイロフとの戦いにも水を差されかねん。わかったな、アイラ』
「了解」
 無線機を置いた女は、漆黒の艶やかな髪を手で無造作に結い上げてキャップの中へしまうと、後席に向かって叫んだ。
「さぁ、リリィ=ドーン。振り落とされないように、しっかり掴まっていなさいよ」
 こうして、砂漠の中の知られざる逃亡劇あるいは追跡劇が始まった。
 
 
 
>> 第七話 自由への死


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