卯月コウ

卯月コウが自分の日常になった必然性に思いを馳せることがある。
それは形の無い答え、答えの無い思考を巡らせ間接的に自分を認めようとすることは似ていると思う。

卯月コウはにじさんじ所属のVtuber。
インターネット中学生。
雑談やゲーム実況、自主企画を中心に配信。
その特徴や内容にはやや偏りがあるらしい…自分にはあまりに居心地が良く、健やかなフィールドだと感じる。
多分他の視聴者も似たように感じている人が多いと思う。
その先頭を卯月コウは飄々と自由に歩いている。
たま〜に後ろを向いて皆が着いて来てるか見てくれる。

言葉選び、やわやわの空気感、無作為に見せた作為的な所作(その逆も然り)は自分の目にあまりに魅力的に映った。

卯月コウ配信定番BGM達を耳に流し込みながら書き出したけれど、
正直いつまで経っても固有の何かについて感情を断定するのはしっくり来ない。
好きだと思うパーツをこんなに書き出しても
【自分にとって𓏸𓏸な存在だ】
という表し方でさえも言葉にしようと捏ねくり回す程、本当の感情にズレを感じる。
外れては居ないけど当たりでもない様な。
その度に違和感に素直になって結局何度も書き直す。

卯月コウはよく喋る。
画面という隔たりが確かにあるけれど温度や色を受け取れる事に喜びを見出して配信を流すのが日課になった。
ふとn年前の動画を流す事もある。
リアルタイムか最新かどうかの拘りが薄い時点で、生活に卯月コウが溶け込んでいる実感が沸いていた。
どんな内容を喋っているか、よりも
そこにその声が聞こえる事実が自分の生活に必要だったと気付いた時はハッとした。

今までと今を繋ぐ卯月コウ
自分が脳内に描いている理想を言葉にする事はいつでも容易に出来るわけじゃない。
【言葉にする事】だけが正解では無いけれど、
自分は喋るのが好きだった。
それは幼少の遠く薄い記憶でしかなくて、静かに静かに少しづつ喋るのは不得意で嫌いな行為だと塞ぎ込んでいった。
スポーツなのか歌なのか絵画なのか
そもそも表なのか裏なのか。
喋って現すことが好きだと思い出させてくれたのは多分卯月コウだった。
瞬間的に感情が爆発させられるようなものではなく
なんとも自然に干渉して、自身の堅いATフィールドをどろりと溶かした。
全く嫌な心地がしなかった。

表現や芸術において、
“言葉にしないと伝えられない“
なんてことは無い。
歌詞のない音楽も、説明のない絵画も、難解で複雑そうな映像作品も、
そういうものである事は不変であって欲しいと願っている。
卯月コウもそういうものであって欲しいと願っている。
この願いは願いのままで、叶うかどうかはどちらでも良い。
書きながら勝手で純度の高い自己満足だと思った。

彼の中の絶対不変の核と
静かに柔軟に形を変えていくそれを、
享受する事で波紋が拡がり変化していく自分自身を、相反する事で証明される安心と刺激を楽しんでいます。

画面越しとか直接的だとか関係無く、こういう友達が欲しかったんだね。自分は。

好きの内訳、言葉にしたいけどやっぱりしたくないな。
だけどまた多分します。

いっぞ!

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