ただ一人でいるのが好きなんだよ
孤独が好きなわけではないが、一人でいるのが好きだ。
特にMMORPGのような「たくさんの人が思い思いに遊んでいるにぎやかな世界の中で、たまにそれを横目で見ながらほとんどの時間は一人気ままに遊ぶ」のが大好きだ。
人が集まるエリアにキャラクターやアバターを放置してぼーっとするのも楽しい。雑踏の中にいる自分に満足する。わたしはこの広い世界の一員なのだ。
逆に自分だけのハウスやセーフポイントで、安心感に包まれて過ごすのも好きだ。たまにフレンドからメッセージが来る。それは数か月に1回だったり、数年に1回だったりするが、いつもうれしく思う。
現実のわたしは一人っ子で、価値観も好きなものも話すことも全く合わない大人たちの中で育った。雪が降ると下山できないような山奥に住んでいて、体が丈夫ではなかったから、部屋にこもって一人でずっと遊んでいた。それを寂しいと思ったことはなかった。
大人になり、ある程度健康状態も改善され、結婚してからも基本的に一人が楽しいのは変わりない。夫と一緒に過ごす時間も楽しいが、部屋で一人でいる時間もかなり長い。
世界二大大好き男である夫と父の間にはつながりを感じ、離れると寂しく感じるが、それ以外であまり心が動くことはない。
この現実のわたしの背景とあり方は、メタバースや大規模オンラインゲーム、ネット上でのスタンスとほぼ一致している。
すなわち、
・交流に関心がない
・フレンドリストに人を追加しない、フォローバックしない(見ないので)
・たくさんの人がいる世界で一人で遊ぶのに孤独を感じない
人が嫌いなわけではない。孤独を愛しているつもりもない。
スキゾイド(シゾイド)パーソナリティ障害を指摘する人もいるが、実生活で困ることがないので障害というのは違う気がする。わたしの頭は、毎日起きた瞬間から「今日は何をして楽しもうか」という期待でいっぱいで、やりたいことに向けていつも心がわくわくしている。そのわくわくは「一人でできる楽しみ」ばかりで占められている。だから一人で過ごしている。毎日楽しめることがたくさんあることに喜んでいる。
でも、友人がいないわけではない。わたしには友人がいるのだ。
この人なら、と信頼してフレンドリストに追加しているフレンドもいる。
5年に1人ぐらいは増える。
このスタンスをわかってもらうのは割と、いやかなり難しいということを、ネット上、オンラインゲームからメタバースまでを含む、20年ほどの活動と経験から学んだ。困ったことに、たいして親しくない人ほどわたしのあり方にモノ申してくる。”ちょっと知り合い”ぐらいの人たちが、とにかくご意見を押し付けてくる。昔はそれほどではなかったが、最近ほどこうした人に会うことが増えてきた。特にとあるメタバースでこの手のタイプの人によく出くわす。
旧友やなじみのフレンドはこんなことは言ってこない。
例えば、一番多いのが「受け身はよくないよ! そんなんじゃだめだよ!」という意見だ。わたしにとってこの状態はまったくだめではないし、むしろ最高に近い。正直に「受け身なのではなく、あなたとの交流に関心がない」と言えば怒らせてしまうだろう。拗ねる場合もある。「傷つけられた」というお気持ちを放たれると対処に困る。
頻度は高くないものの、何か複数人でやりたいことがある時は、自分から仲間に声をかけている。こんなわたしでも、喜んでつき合ってくれるフレンドはちゃんといる。それはこうした”お気持ちの君”よりもっと親しい関係をすでに築いている人たちだ。口に出すことは少ないが、みんなには感謝している。
”お気持ちの君”たちは、わたしを「やっぱりみんなとの絆がいちばん! みんながいるから楽しい!」という人間に改造しようとしてくる。どうしても、「本当は寂しがり屋で、現実ではかなわない思いをネットに託し、心からのつながりを求めている人」にしたがる。
親しい人にもやってはいけないことだと思うのに、知り合いですらないわたしに人づきあいの指導をしようとする。そんな人が一人ではなく何人もいて、一人で遊んでいると向こうから寄ってきてそちらを向かせようとする。なぜなのだろうか。時々考えるがわからない。
絆は美しいし、つながりも素晴らしいと思うがその相手は君ではないよ。
率直に伝えてもいいことがない。ほかの言い方がわからないので何も言えない。伝えれば必ず相手は怒り狂ったり泣いて大騒ぎしたり、人としておかしいと言い出したり、お気持ちの化身となってしまったりする。
わたしのこのスタンスを何か一言でうまく言い表し、上手に説明する方法はないだろうか。説明できないので、ますますメタバースや大規模オンラインゲームでの人づきあいはやめておこうと思ってしまう。