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社会福祉学(者)が学校事件・事故に由来する障害者を長年、もみけしている可能性がある

 わいせつ教員被害者です。


学校事件・事故に起因する死者・障害者が隠蔽される市役所になっている?

 どうも、学校事件・事故に起因する死者・障害者が隠蔽される市役所になっています。
 私は、「学校事件・事故」という言葉を使いました。教員体罰、教員わいせつ、いじめ、不登校、指導死、スポーツや理科実験中の事故、アカデミック・ハラスメント、研究不正、また教員や学校は不祥事を隠蔽する傾向があります。これらをまとめて、「学校事件・事故」と呼ぼうと思います。
 健康な子どもや成人がいて、教師や学校が危害(物理的暴力だけでなくて、性的、精神的暴力を含む)を子どもや成人に与えたせいで、健康被害が発生した症例というのが、社会には存在するわけです。

 障害者には、身体・知的・精神の3つのカテゴリがあります。この中には、
(1)   先天的な障害者。例:生まれつき手がない。
(2)   中途障害者で、学校事件・事故以外の原因に起因するもの。例:交通事故で足を失った。
(3)   中途障害者で、学校事件・事故に起因するもの。例えば私のようなわいせつ教員被害で精神障害者になった。また、柔道や組体操の事故で後遺障害を負った。

 上記3グループが存在するはずです。しかし、市役所等で、(3)の存在をいまいち把握できていません。「いまいち」というのは、最近、市議会議員等に、「学校事件・事故」と言って、ちょっと通じるようになりました。

(3)のグループというのは、国や自治体から見ると、減らせる社会保障費です。教師が子どもや成人に危害を加えなければいいだけの話です。例えば、健康な子どもが組体操や柔道の事故に遭って、14歳で、半身不随になって、一生寝たきりになったとします。すると、死ぬまで、障害者年金等が支払われます。
 暴力教師は放っておくと、次の健康な子どもを、また障害者にします。その暴力教師を、教育現場から追放すれば、健康な子どもは障害児になりません。国や自治体は、障害者年金等を払わなくて済み、子どもは将来、健全な納税者になるかもしれません。
 国や自治体は、社会保障費を増やしている、行政効率を下げている要因を知りたいはずです。

市役所が社会福祉学者にだまされている可能性がある?

 市役所が、障害者問題について話し合う審議会を設置するのですが(地域自立支援協議会)、会長を、社会福祉学者等に頼むことが慣例になっているようです。その社会福祉学者(全国におり、数百人はいると思います)が、(3)の存在を、長年、もみ消している可能性があります。
 私は精神障害者、わいせつ教員被害者です。住んでいる自治体の地域自立支援協議会の当事者情報・部会というのに行きました。これは、地域にいる身体・知的・精神障害者が集まって、「生活している中で、こんな困りごとがあります」と困りごとを話す会議です。例えば、視覚障害者が、「ぼくは目が見えないので、地震のときの避難に、このような問題があります」と話します。障害特有の困りごとというのは、当事者から聞かないと、わからないことが多いです。言われてみると、「なるほど」と思うことが多いです。自治体等は、障害に対して、合理的配慮をしないといけないです。
 私は、ここに行って、わいせつ教員被害者だということを話そうと思ったのですが、話せる雰囲気ではないのです。会長をしている社会福祉学者(男性)が、「わいせつ教員被害なんて存在しない」「しゃべらせない」というふうに、当然のようにふるまいます。

大学人に、審議会の傘下の会合が乗っ取られたことすらあった…

 会長が、自分の同僚教員や学生等をたくさん連れてきて、会議を乗っ取ってしまったこともありました。大学人と地域の障害者の親睦会みたいな感じになってしまい、本来の、「地域の障害者の困りごと吸い上げ」という機能が失われてしまいます。
 それは、地域自立支援協議会担当の市職員がしっかりしていないから、そんなことが起きます。
 担当市職員は、とにかく、「やみくもに学者を尊敬しなくてはいけない」という感じです。「何のために審議会をやっているのか?」とか、「市職員として、行政の非効率な原因を知って、改善すべきである」という責務がわかっていないです。

なぜ市職員はやみくもに学者を尊敬したがるのか?

 なぜ市職員は、やみくもに学者を尊敬したがるのでしょうか?
 自分の昔を振り返ってみます。小学校等から、学校等で、とにかく、「やみくもに教師(大学教師を含む)を尊敬しなさい」という感じの教育をしています。教師の中には、わいせつ教員や暴力団と交際している者もおり、排除できていないのですが、とにかく、「教師を尊敬しなさい」という感じの教育を受けてきています。
 わが国には儒教道徳があって、「親や年長者、医師、教師」を尊敬しなさい」という美徳です。教師に対しては尊敬語、「〇〇先生がいらした」「〇〇先生がおみえになった」「〇〇先生がおっしゃった」というような言葉遣いをしなさいと、教師自らが、人々に教えています。
 武道等も、「師を尊敬しなさい」という感じが強いです。
 市職員を観察していると、「とにかく学者をやみくもに尊敬しなくてはいけない」と思っています。ひょっとしたら大学側が、性犯罪の前科がある者や暴力団と交際している者を、教員として採用している可能性だってあります。自治体は、「大学は、危険人物を排除した人事採用をしているかどうか?」を確認しないまま、委嘱している可能性があります。

社会福祉学者が若い女連れで地域のいこいの場に来た

 社会福祉学者自身が、若い女連れで、地域のいこいの場にやってきて、いちゃいちゃしたことがありました。私だけでなく、他の女の人も、「教師なのにまじめではない!」と怒っていました。
 これは、アカデミック・ハラスメントかもしれません。教授が、女子大生を連れてきて、セクシュアル・ハラスメントをしたかもしれません。
 男性教員側が、女子大生側から好意を持たれたとしても、男性教授側は適正な距離を取るべきです。
 そもそも、現場を目撃した周囲の人から、「いちゃいちゃしている」という言葉が出るということ自体おかしいです。もし教師が、普段から職業哲学・職業倫理に取り組み、「異性の学生を性的に尊重し、教育だけ授けるにはどうしたらよいか?」を考え、実践していれば、そもそも、現場を目撃した人から、「いちゃいちゃしていた」という言葉は出ません。
 教職倫理の本があまり出ていないのですが、「教職倫理で、めざましい内容のものが出版されていない」ということが、彼ら学者が自分たちの職業倫理について、あまり考えていないということの証左です。

政治家は学校事件・事故に問題意識を持ち、撲滅しようと思うべき。行政は独自に調査すべき

 教師は、同業者の不正をもみ消します。政治家は、学校事件・事故に問題意識を持ち、撲滅しようとするべきです。
 国や自治体は、社会福祉学者等を間に介在させないで、行政独自で、学校事件・事故に起因する障害者がどれぐらい存在するのか、調査をするべきです。
 例えば、柔道の事故で、一生寝たきりという子が、全国に何人もいるらしいです。一方フランスだと、指導者が救急救命士の資格を持っているので、一人も死んでいないらしいです。

 教育のやり方を変える、上記の事例の場合、わが国においても柔道指導者に救急救命士の資格を取得するよう義務づける等すると、学校事件・事故の被害者は、0にできる可能性があります。
 小学校等で、障害児になって、死ぬまで障害者年金等の支払いが生じます。私の住んでいる市だけでなく、全国の自治体で把握できていないとか、厚生労働省や首相が把握できていない可能性があります。その場合、全国で見ると、ものすごい金額の損失が発生しているはずです。

国や自治体が審議会長等を大学教員等に依頼する場合は、責任を負わせる

 国や自治体が審議会の会長を大学教員等に依頼する場合は、責任を負わせてください。
・ハラスメントしないでください。教授は若い女を連れて、地域のいこいの場に来ないでくださいw
・自分にとって都合の悪いことであっても、国や自治体にとって大切な情報は、正直に速やかに伝えるように、責任を負わせてください。
・善管注意義務(専門家として社会通念上期待される注意義務)を負わせること。さて、善管注意義務とは何でしょうか?

大学教員は、専門家を名乗るわりに、善管注意義務を負わされているように見えない…?

 大学教員は、「専門家」を名乗ります。私も、専門家だったことがあります。宅地建物取引主任者と管理業務主任者という試験に合格しています。
 社会に存在する専門家ですが、大学教員以外にも、専門家はいます。宅地建物取引主任者は、不動産取引の専門家ですし、建築士も専門家です。公認会計士や医師、弁護士等、いろんな専門家がいます。
 宅地建物取引主任者の場合は、善管管理義務(専門家として社会通念上期待される注意義務)と職能保険というのがあります。看護師も、善管注意義務と職能保険があるはずです。建築士等でもあるかもしれません。
 大学教授の場合、善管注意義務と職能保険がない感じがします。
 宅地建物取引主任者の場合の善管注意義務ですが、例えば、お客さんから「中古の一戸建てを売ってほしい」と頼まれ、手ごろな一戸建てを見つけて、お客さんにあっせんしたとします。しかし、お客さんが住み始めたら、実は雨漏りがあったことがわかりました。すると、お客さんは、宅地建物取引主任者を善管注意義務(専門家として社会通念上期待される注意義務)違反で訴えることができます。
 私は、業界団体の講演会で、「破産した宅建士がいるらしい」と聞いたことがあります。仕事をやって、かえって破産するのであれば、最初から働かない方がいいです。
 では、どうやって、いまいる宅地建物取引主任者が働いているのでしょうか? 職能保険に加入します。業界団体で、宅地建物取引主任者が集まり、保険を構築し、毎月、保険の掛け金を支払って、誰かが訴えられたら、その保険で賄うようです。そうやって、宅地建物取引主任者のプロフェッショナリズムを確保しているようです。
 看護師も、医療事故を起こすと訴えられるみたいで、職能保険に加入して働いていると、ある大病院の講演会で、聞いたことがあります。
 大学教授は、善管注意義務や職能保険がなさそうなのですが、社会的信頼がやたら高いです。マスコミがやたら大学教授を尊敬して、疑わないです。
 市役所等も、大学教員を疑わないで、審議会の学識経験者を依頼してしまいます。政治家も、やたら大学人を尊敬しています。まるで子どものお使いみたいで、教育委員会や学者の言うことに、いちいちだまされてきます。「クリティカル・シンキングができない」という感じです(教育委員会や学者を疑える市議会議員を作るというのは、けっこう大変かもしれないです…?)
 とにかく、市役所において、学校事件・事故に由来した障害者の存在を、もみけせる権力構造になっています。市役所が、わざわざご丁寧に学者に、もみけしができる職権をプレゼントしてしまっています。長年、全国で行われている可能性があり、数百億・数千億の損害が長年、全国の自治体で隠蔽されている可能性があります。
 こんな重大なことを言わないで、当然のように隠す社会福祉学者は悪質なので、市役所は訴えるべきだと思います。「気づかなかった」というよりは、わかっていて、当然のように堂々ともみ消しているという感じで、私は悪質だと思います。
 社会福祉学の教科書にも、「障害者には3グループいます」とちゃんと書くべきです(外国の社会福祉学、精神医学等の教科書はどうなっているのでしょうか?)。

学者は学校事件・事故に対し、責任を痛感すべき

 礼儀作法の問題として、社会福祉学者等は、「同業者の不祥事に対し、私は(集団的)責任を感じます。申し訳ありません」という感じで、恐縮したり、恥を感じるべきです。
 しかし、実際の学者は、恬(てん)として恥じないです。厚顔無恥です。学者は物知りのはずですが、唯一、「恥」を知らないです。

「教師は、強硬に免責を主張する」という職業病を持っています。X(旧称:ツイッター)で、小学校教諭等を名乗るアカウントが、「私に責任はない!」と、ものすごく強く主張しているのを見ます。あれは職業病です。
 大学教員は、まるで宇宙の真理のように、免責を主張したり、「集団的責任ではなく個別責任だ」等と主張します。1+1は2ですが、大学教員はまるで1+1が2であるかのように、「私たちが責任を負わないのは宇宙の真理だ」みたいな感じで、主張します。
 個別責任とは、「アカデミック・ハラスメントをしたA大学の鈴木太郎教授は悪いが、B大学の佐藤次郎教授(ぼく)は悪くない」というような考え方です。一方、集団的責任は、「大学人」という大きな職能集団があり、その集団で、責任を引き受けるという考え方です。B大学の佐藤次郎教授は、A大学の鈴木太郎教授がやったアカデミック・ハラスメントについて、同業者として責任を感じるべきです。「大学がちがうので、うちは関係ない」等と言いますが、大学人全員で、「学校事件・事故を起こしてもいいや」という日本社会を作ってきました。「どこそこ大学で教授がセクハラをして、くびになった」という報道は毎年報道されていて、業界人はみんな知っているはずなのです。

 大学教員からすると、集団的責任は重すぎるので、値引き交渉をしたいです。「集団的責任ではなく、個別責任」と主張することがあります。

公務員側が自発的に大学人を免責することがある

 ややこしいことに、責任のディスカウントをすると損をする側である、市職員側が、自主的に勝手に免責することがあります。市役所にとって、大学人に集団的責任を負わせるほうが得ですし、公の秩序を考えたときに、大学人に集団的責任を負わせるほうが、秩序として美しく収まります。しかし、つい、集団的責任から個別責任へと、ワンランク免責する公務員がいます。それは背任です。
 市職員等がつい免責したがる理由は、おそらく、儒教道徳(「親や年長者、医師や先生を尊敬しましょう」という美徳)が日本社会に存在するからだと思います。
 市職員はいつも学者を心から尊敬してしまっており、認知的慣性ができています。自分で、社会福祉学者を講師に起用し、「福祉のまちづくり講演会」を開催し、それを聴講して、心の底から、福祉学者をまた尊敬してしまったりするのです。
(教育というのは、教育企画者の教育理念が反映するものです。教育企画者の教育理念以上の教育はできないです。また、「教育企画者自身が、自分で企画した教育を自分で聴講し、自分が教育されているんじゃないかな? 自分がもっと深く洗脳されるような、宗教的なぐるぐるの中にいるのではないか?」と、心配になるときがあります)
 尊敬とはまったく逆向きの道徳的態度である、「相手が悪人であり、責任を追及しなくてはいけない」という場面にさしかかったとき、人は、とっさに道徳的なパニックが起こします。道徳のとりちがえをする傾向があります。
 なので、すぐに判断しようとせずに、半年ぐらいかけて、ゆっくり考えるほうがいいです。私たちは、幼児の頃から、親や教師等から、「学校の先生を尊敬しましょう」という教育を受ける等しており、「学者や教師を尊敬しないといけない」という気持ちは、心の奥深くにあり、なかなか、いっちょ一席に払底できなかったりします。
 私は、お釈迦様が悟りを開くような気持で、何年も、「私はなぜ、医師・学者・教師を尊敬してしまうのか?」を内省し、ようやく、現在の境地に達しました。瞑想して、自問自答して、ようやく悟りの境地に達するという感じです。
 公務員になるような優等生が、一朝一夕に、私の境地に達することができるとは思えないです。

利害当事者である大学人に教育政策を作らせる社会慣行がおかしい

 わが国では、科学というのは、「つじつまがあっていることが科学」ではなくて、「科学者が言っていることが科学」だと思われています。
 どうも日本人は、宗教と科学の区別がついていないです。日本人は、まるで神社を拝むように、大学や教授を拝むべきだと思っています(私のこの文章に対し、猛省しないといけないのは、科学哲学者あたりです)。
 しかし、教師(大学教師)が、「教師の権力を増やしたい」と主張するのは、利害当事者なので当たり前です。なぜか、私たちは、教育政策や大学政策、学術・科学技術政策等を、利害当事者である大学教員に考えさせています。いま、教育学者や科学技術社会論、公共政策論などの研究者が、かなりの人数、います。人数を減らし、研究倫理・教職倫理を研究する研究者を確保するべきです。
 また、学外の市民や政治家が、もっと教育政策や大学政策、学術・科学技術政策を立案すべきです。
 例えば、科学技術・学術政策研究所(NISTEP)や政策研究大学院大学(GRIPS)、国立特別支援教育総合研究所等、「科学者や教師が自分を取り締まる政策を作る」という感じの公的ポストがたくさんあります。規模を小さくしてほしいです。規模を小さくすると、税金が節約できます。その税金を、地域の市民研究者等に配分すべきです。例えば、学校事件・事故被害者が運営する一般社団法人(一般社団法人ここから未来等)等に補助金・助成金を与える等して、学外の人に政策を考えさせるべきです。大学や学校が圧倒的に有利になるように、社会秩序・法秩序ができてしまっています。秩序のつりあいがとれるように、均衡するように秩序を作るべきです。
 いままで私たちは、学者に教育関係政策を作らせていたのですが、その社会慣行がおかしいです。学者・教師以外が、学校・学者関係政策をよく再考して、作り直すべきです。

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