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この1年間を振り返る

おかげさまで1周年

トラウマと認識していわゆる「トラウマ治療」に取り組んだのは昨年の10月からだったが、その前にACカウンセリングを受けていた。いわゆるトークセラピーで、幼少期の自分を振り返り感情を出し、今の自分の内面に何があるのかについて向き合うものだ。このnoteには「ACカウンセリング」として記録を残している。

そのカウンセリングを始めたのが、ちょうど去年の4月の終わりだった。あの頃は「私がカウンセリングなんてものを本格的に受けるなんて」とか「大袈裟できっと笑われる、気のせいって言われるんじゃないか(誰にだよ)」などとビクビクしながら申し込んだのを覚えている。

今、当時のカウンセリングの記録を読んでもものすごく遠い昔のことのように思える。「おお、そう考えていたんだ」とびっくりしたりもする。この頃の気持ちを忘れてしまったわけではなく、思い出せるし言語化もできる。ただ、リアルな感覚がどんどん薄れていっている感じがする。記録を取っておいたのはとてもよかった。今の私には、あんな文章はもう書けない気がする。


自分自身の変化を挙げてみる

途中からは「変わらなきゃ」と思うことは無くなり、このままの私でいいんだと思えるようになった。でもそう思っていなかった私がそう思えるようになったことで、変化があったように思う。

  • 喉の詰まりが軽くなった

  • 意味不明な焦燥感や動悸がほぼ無くなった(ほぼなので、まだたまにある時はある)

  • 夫に対する燃えるような怒りが無くなった

  • 「誰か私のことをわかってくれ、見てくれ」という焼けるような思いが無くなった(これは今回カウンセリングの記録を読んで改めて思った。あれは何だったんだと思うぐらいである)

  • 親にああされた、こうされたと思い出すことがほとんど無くなり、親に対する恨みの気持ちが無くなった(EMDRの処理の時はあえて思い出すようにしている)

  • 自分のネガティブな感情を「ある程度安心して」抱えておけるようになってきた

  • 自分ではどうにもならないことを保留しておけるようになった(どうにもならないことだと識別することが上手になってきた)

  • 無理をしないようにすることができるようになってきた

結構あるな。ただ、どれも「そういえばそうかも」ぐらいな感じで「パーっと変わりました!」というものではない。髪の毛が伸びるように、植物が育つように徐々にという感じだ。


「回復楽しいィィィ」期かもしれない

先日、三森みささんのこちらの記事を読んだ。

かなり私に当てはまっていて仰け反った。
「あ、これこの間までバリバリそうだったけど、そういえば今はすっかり鳴りをひそめたな」というものもあった。「人に押し付けたくなる」というやつだ。もう周りの誰を見ても、Xでのポストを見かけても「この人はトラウマあるな、向き合った方がいい」などとすぐに決めつけたりしていた。私が「この人なら向き合っていけそう」と勝手に思った人に「情報」として話したことはあった。今思えば勝手な押し付けだった。すみませんでした…。という訳で、のべつ幕無しに「布教」したいという気持ちが無かったといえば嘘になる。

ちなみに今は人のことは正直どうでもいい。私にはわからないからだ。「私は私、あなたはあなた」というのがしっくりくる。例え我が子であっても夫であってもそれは同じ。そして、家族はともかくとして、それ以外の他人のことなどそれこそまったくわからない訳なので、本当にどうでも良くなった。「布教」も考えていない。ちなみに「布教」というのは、三森さんのような啓発や情報を発信するというのとは違う。

本を読み漁るというのはまさに「回復楽しいィィィ」期そのものだ。読みながら泣くことも多々あるのだけど、自分のキツい気持ちに向き合うよりはずっと楽なのだ。それに、読んでいる間は「何かしら回復に向けてやっている」感を持てるし、自分の知りたい欲を満たしてくれるので楽しい。ちなみに最近はだんだん読み漁るペースが落ちてきた。

そうか、これはそういう時期なのかと思うと、じゃあこのままでいっかと思える。まだまだな感覚はする。自分の中で解決していないところもたくさんあるし、パーツワークはまだ始まってもいない。でも、昨年の今頃に比べたら本当に違う世界にいるよなあと思う。


もう1年、まだ1年

この1年は本当に濃かったのだけど、でも今になって振り返るとあっという間だった。きっとこの調子で2年目や3年目も少しずつ変わりながら過ぎていくのだろう。

現実は思うようにならないし他人はコントロールできないけれど、私はこのままでいいし大丈夫なんだ、とますます思えるようになっていくのだろうと希望を持っている。

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