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【小説】連理の契りを君と知る episode2「文字は口ほどに物を言う」

←episode1「あなたに出会う日」

≪あらすじ≫
開国から半世紀ほど経ち、この国にもすっかり西洋の文化が染み渡り始めた頃のお話。

なんとか作家としてデビューを果たすことが出来た青年と、悪女役として人気の若手女優・椿月(つばき)。
以前の事件を通して親しくなった二人は、定期的に会う関係ではあるものの、相変わらずつかず離れずの関係のままだった。

二人のお出かけ中に突然現れた、椿月の知り合いの美形俳優・神矢。親しげな態度の二人に青年の心はざわつく。しかも、椿月は何か隠し事をしているようで――?



 地面を埋め尽くしていた桜の花びらが姿を消し、草木の緑が一層鮮やかになってきた。涼しい風が心地よい初夏の頃。

 抜けるように青い空に、束になった電線が五線譜のような模様を作る。

 栄えた町並みでは、木造に瓦を載せた建物の数が、のっぺりとしたコンクリート建築の数についに負けてはじめていた。

 大道りに隙間なく軒を連ねる流行りの店たちは、洒落た片仮名表記の店名を看板に躍らせる。

 瓦屋根の建築物の壁を一面レンガに飾らせてみたり、蔵作りの家屋に大きな薄いガラスをはめ込んだみたり。時代の最先端を走る都のこの町では、様々な文化がこれからの可能性を見極めようと、あらゆる方向に手足をのばしているようだった。

 そんなにぎやかな通りの中を、更なる中心部に向かって、ある一人の青年が雪駄の足を進めていく。

 袴姿の襟元に白いスタンドカラーを覗かせ、かぶった帽子の下からは丸い眼鏡の銀縁が光る。

 彼は今日、ある女性と会うことになっていた。

 視線の先に見える待ち合わせ場所の店の軒先には、既にその女性の姿があった。

 彼女は人ごみの中に男の姿を見つけると、笑顔で手を振り、待ちきれなかったかのように駆け寄ってくる。

「すみません。待たせましたか」

「ふふっ。ちょっとだけね」

 そう楽しそうにほほえむ彼女は、女と呼ぶにはまだあどけなく、少女と呼ぶには大人びて見える。桃色の着物に濃紺の袴を合わせ、足元は流行りの編み上げのショートブーツ。下ろされた長い髪には、桃色のリボンが頭の後ろでかわいらしく蝶結びにされていた。

「いつも思うのですが、こんなところで待ち合わせをして顔をさされたりしないんですか?」

 彼の言葉を彼女は笑い飛ばす。

「さされるわけないじゃない。私があの『椿月(ツバキ)』だって、誰が見たって気づきっこないわよ」

 この、少女にも大人にも見える女性・椿月の職業は、女優。この町の中でも有名な老舗の劇場で、若手ながら実力ある舞台女優として活躍している。

 演技の実力から観客の支持もあり、若手にしては人気ある女優ではあるが、彼女が自ら言うように、町中では決して人に声をかけられることはない。

 その理由は、彼女が演じる役柄にあった。

 彼女の役者としての真骨頂は、悪女の役。つやめくまでに濃い口紅を引いて、妖艶にほほえむ。体の線がくっきり出る西洋ドレスに身を包み、なまめかしく脚を組む。主役たちに意地悪く接し、いやみを言い、男を翻弄し、悪だくみをする。終幕に居合わせることはなく、追い出されるか自ら去っていく。

 主役として光が当たることはないが、物語に刺激を加える香辛料のような存在。

 このように実際の彼女からはかなりかけ離れた役柄で、観客たちから支持を受けていた。それも彼女の演技力と努力の賜物なわけだが、あまりにきつい舞台メイクと派手な衣装、奇抜なウィッグ。それと、その支度の姿を劇場内でさえ誰にも見せないことから、女優・椿月の本当の姿を知るものはほとんどいないという。

 その本来の彼女を知る数少ない人間の一人が、この男である。

 以前、ある人気作家の弟子兼助手として先生の手伝いをしていた彼は、ある事件に巻き込まれたことから彼女と知り合い、今もこうして親交が続いている。

 彼は彼女の舞台を月に一度くらいの頻度で見に行く。公演後彼女の楽屋を訪ねて、その時に二人で会う日を決める。それが習慣のようになっていた。

 一般人である彼が楽屋まで通してもらうことができるのは、前の事件で劇場の館長と面識があるからだ。

 館長は「事件で世話になった君からお金を取るのは忍びない」と言うし、椿月も「知り合いだからタダで入れてあげるのに」と言ったのだけれど、見栄もあり何となく断ってしまった。そののち、劇場に通う度に出て行く金額を目の当たりにし、遠慮したことを後悔したのは言うまでもない。

 二人はこうして会うと、いつも何をするでもなく町並みをぶらりと歩く。何を見るでもなく、何かを買う目的や行く場所なども特にない。その分、彼女はぶらぶら歩きながらよくお喋りをしたし、彼にとっても“どこかに行く”というより“二人で時間を共有する”ことが一番の目的なので、まったく構わなかった。

 そして通りや広場を歩ききると、大衆向けの喫茶店で珈琲を一杯ずつ飲む。そこでまた、取り留めのない話をする。

 会話の大概は、彼女が質問をして彼が答える。彼女が話して、彼が聞く。話し好きの彼女と口下手な彼のやりとりは毎回そんな感じだった。それでも椿月はにこにこと楽しそうだったし、彼もそのささやかな時間を心地よいものと感じていた。

 二人は今日も、“つかず離れず”の距離だ。

 こうして定期的に二人で出かけているけれど、別に交際しているというわけではない。

 彼は、自分が彼女に惹かれていることを自覚している。事件を通して彼女と知り合い、会話を重ねていくうちに、「この人ともう少し長く一緒にいられたらいいのに」と思うようになっていた。

 恐らくこういうのを恋愛感情と言うのだろうが、男はあまりにそういった経験に乏しく、初めてのそれをどう扱えばいいのかよく分からないようだった。

 一度、勇気を出して彼女に好意を伝えるような告白まがいのことを言ったけれど、あれ以来二人の間にそういう話は何もない。

 自分の言葉に手を握ってくれたということは、嫌われてはいないと思うのだが。彼は彼女が自分をどう思っているのかよく分からないままだ。

 今日もまた、いつものように町をぶらついたあと、喫茶店に入った。

 大きめのソファチェアに一人ずつ、白いクロスのかかった丸テーブルを挟み向かう合うようにして座る。頼むのはやはり珈琲を一杯ずつ。

 椿月は早速口を開く。

「小説の調子はどうなの?」

「まあまあ、です」

「まあまあって?」

「一応手は動いてはいるんですが、それが世の中に評価されるかは分かりませんから、何とも言えません」

 ふうん、と彼の言葉を考えるようにしながら、椿月は届いたカップにミルクと砂糖をたっぷり加える。

 はたから見ると、どう見ても年下にしか見えない彼女に敬語を使っているのだから、なんとも奇妙に映ることだろう。初めて出会った女優姿の時の彼女があまりに大人びて見えたから、彼は最初に接したように敬語で話してしまうのである。

 そんなことはまったく気にも留めていない様子の彼女。薄紅色の唇を小さくとがらせて、彼に言う。

「あなたが『椿月さんに読ませる自信がある作品が書けるまで読まないでください』っていうから、ちゃんと約束を守って読まないでいてあげてるんだからね。せっかくのデビュー作」

 自身の先生が思わぬ形でいなくなったしまった彼だったが、その後弟子時代に知り合った出版社から声をかけられ、奇跡的に作家として活動し始めることができた。

 ただ、どうも知り合いに自分の小説を読まれるのは気恥ずかしいようで、彼は数少ない知人友人たちに対しても、自分が作家として活動しはじめたことについてはほとんど黙っている。

 特に椿月に自分の小説を読まれるのは、小説が自分の心や哲学を反映したものであるがゆえに、彼にはどうにも抵抗があった。いつまでもそんなことを言っているわけにはいかないし、その抵抗を払拭できるくらい“彼女に読んでほしい”と思える作品が書けたら、とは思ってはいるのだが。

 彼女の読書に制約をかけてしまうことと、まだ期待に応えられないことに対して「すみません」と口にする。

 すると不意に、彼女は「そういえば」と何かを思い出したようだ。

「そうそう。劇場の知り合いにあなたの小説を読んだっていう人がいたからね、感想訊いてみたの。面白かったって言ってたわよ」

 にこっと笑って、椿月はまるで自分のことのように嬉しそうにそう言う。

 表情の変化に乏しい顔の下で、嬉しいような気恥ずかしいような感情が入り混じり、男は心臓の辺りがむずがゆくなる。

 そんな二人のささやかな時間に、初めて割り込む声があった。

「――椿月?」

 絶対に顔をさされるはずのない彼女の名前を呼ぶ声。

 二人が目を向けた先には、一人の若い男性が立っていた。

 すらっとした細身のスラックスに長い脚を包み、ベストから洒落たスカーフを覗かせている。ふわふわとした髪は自然な形でセットされており、通った鼻梁に垂れ目で釣り眉の顔は、常人離れした整い方をしていた。

「あら、こんなところで会うなんて珍しいわね」

 思わぬ遭遇に目を丸くしている顔の整った男性に、椿月は事もなげに言葉を返す。二人は知り合いなのだろう。

 その男性は、当然椿月の連れに視線を向ける。

「……そちらは? 椿月のファンの方かい?」

 視線を向けられた彼は、なんと返したらよいのか迷った。

 確かに自分は舞台に立つ椿月に活躍してほしいと思ってはいるが、ただ“ファン”と一緒くたにされると何となくモヤモヤする。

 彼は普段から、自分が駆け出しの小説家であることは口外しないように頼んであるので、椿月は詳しい説明を避け、「まあそんな感じよ」と適当に流した。

 彼は男性からのじろじろと値踏みするような視線を受けて、

「あなたは?」

 と問う。

 すると男性はまた目を丸くし、大げさにかぶりを振ってみせる。

「参ったね。俺のことを知らないとは」

 ピンと来ていない様子の彼に、椿月がそっと耳打ちした。

「あなたが先週見に来た舞台の主演俳優よ?」

 どうして覚えてないのよ、と笑いつつも少し呆れた様子である。

 男性は改まって、芝居がかった優雅なお辞儀をしながら挨拶をする。

「神矢 辰巳(カミヤ タツミ)と申します。以後お見知りおきを」

 その軽やかな身のこなしと自信をたたえた表情は、見る女性を一瞬で虜にしそうなものだった。

 だが、男は神矢に目の前で名乗られても、なかなか記憶と結びつかなかった。舞台と普段では化粧や衣装で顔も雰囲気も違うだろうし、何より彼はあまり人に興味がなく、他人の特徴を覚えるのは得意なほうではない。

 まあ、舞台では気づくと椿月にばかり注目してしまっている、ということも一因ではあるが。

 神矢は椿月に親しげに語りかける。

「なぁ椿月。せっかく町に出てきてるなら、俺のいきつけの店でも行こうぜ。うまいイタリア料理を食べさせる店があるんだ」

 白い歯をのぞかせ、彼の目の前で驚くほどスマートに椿月を誘ってみせる神矢。

 だが、椿月はそれを軽くあしらう。

「今度ね。今はダメ」

 椿月、椿月と彼女をやたら呼びつけにする神矢に対し、男は不快感を覚えたが、珈琲と一緒に喉の奥に押し込む。

 神矢は仕方ないという風に肩をすくめてから、ちらと二人のテーブルに目をやった。珈琲が二杯だけ置かれたテーブル。

 別に特別な意図はないのかもしれないが、神矢の口元に常に浮かべられる薄い笑みから、何となくバカにされているように男は感じた。被害妄想なのかもしれないが、まるで、この程度のお前なんて椿月には相応しくないよ、とでも言われているかのような。

 主役を張るような人気俳優には、あらゆる面で太刀打ちできるわけがない。神矢の言うような飯屋などに行けば、一晩で一体何ヶ月分の食費が飛ぶだろう、と彼は思う。

 彼がそんなことを心の中で考えている時、ふいに神矢が椿月に耳打ちをした。声量を落としてはいるが、男にも聞こえてくる。

「つーか、あの件は平気なのか?」

「いいの。今は大丈夫だから、放っておいて」

 彼の存在を気にするようにひそめられた神矢の声に、椿月は、ここで言わないでよ、とばかりに責めるような視線を向ける。

 中途半端に聞こえてしまった分、男は何の話をしているのか気になった。それでも、内緒話に踏み込む図々しさも、勇気も、持ち合わせていなかった。

 神矢が彼の前で妙なことを口走らないようにするためか、椿月は早々に神矢を追い払った。渋々といった感じで神矢が店を出ると、椿月はまたいつものように彼に向き直る。

「ごめんなさいね。騒がしい人で」

 劇場内ではともかく、町中で彼女の知り合いに遭遇するのは初めてのことだった。しかもそれは、彼女の本当の姿を知っているからこそ声をかけられるわけで。

 男は気になっていたことを尋ねる。

「今の人とは、親しいんですか?」

 彼からの質問に、意外そうに「え?」と小首をかしげたあと、彼女はこう説明した。

「うーん、そうねぇ。辰巳とはこの劇場でやるようになった時期がちょうど同じくらいだったから、割とね。同期みたいなものよ」

 辰巳。

 彼女が男の名を呼びつけで口にするのを初めて聞いた。話の内容よりも、彼の関心はそこに集中してしまう。

「劇場の館長とあなたの他にちゃんと私の正体を知ってるのって、あとは辰巳くらいじゃないかしら」

 そう話してから返事を待つも反応を示さない彼に、椿月は「聞いてる?」と、まばたきで長いまつげをパサパサさせながら顔をのぞき込む。

「あ、はい……聞いてます」

 椿月が自分と同じような若い男性を下の名で呼びつけにするのを聞いて、なんとなく胸がぎゅっとなり、ザワザワと落ち着かなくなる。

 そういえば、自分は彼女に名前を呼んでもらった記憶がない。もっぱら“あなた”とか。もちろん彼女は自分の名前をちゃんと知っているのだが。

 よく考えると、彼女は稽古や舞台で神矢のような見目の優れた役者らといつも一緒にいて、好きだとか嫌いだとかそういう演技を繰り返しているわけで。そうしていることで本当に相手のことを好きになったりすることもあったりするのだろうか。

 男は今までそんなことなど考えたこともなかったが、一度思いついてしまうとその思考は水に落としたインクのように頭の中に広がってしまう。

 視界に入る、壁にはめ込めれた大きな窓ガラスに、自分の姿が映っている。

 着古した着物と袴。勉学を想起させるような野暮ったい眼鏡。取り立てて魅力もない自分の見てくれが今更どうにかなるとは思っていないが、神矢と背格好はさほど変わらないはずなのに、この垢抜けなさの違いは一体何なのだろうと思ってしまう。

 それと、神矢が小声で耳打ちしていた「“あの件”は平気なのか?」とは何だろう。あまり聞かれたくないからこそ声をひそめたのだろうが、余計に気になる。

「――ぇ……ねぇ、聞いてるの?」

「あ。すみません、聞いてませんでした……」

 気づけば椿月が、不満げに軽くあごを引いて見つめてきていた。彼が一人思考の迷路に迷い込んでいる間も、何かしら一生懸命しゃべっていたようだ。

「今日のあなたはなんだかやたらぼーっとしてるわね。いつもはそんなことないのに」

 椿月は呆れたようにわざとらしくため息をついてみせる。

 この後も色々話したはずなのだが、彼の相づちはどこか上の空で、最終的には「具合でも悪いの?」と体調を心配される始末だった。

 こうして今日も二人は、市街をぶらりと歩き、お茶をし、日が暮れる前には帰る。

 自分たちの関係は一体何なのだろう。自分の存在は彼女にとってどういうものなのだろう。

 整理のつかない思考を抱えたまま、男は別方向に帰っていく彼女を見送る。彼女は一度振り返ってふふっと笑い、「またね!」と手を振ってきた。彼はそんな彼女に軽く頭を下げ、彼女の姿が人ごみに見えなくなると、自身も帰路についた。

 今日も、つかず離れずだ。


 最後に二人で会った日から数日経った、夜。

 男は真っ白な原稿用紙に向かって、もう何度目か知れないため息を吐いた。

 書けない。

 頭の中がゴチャゴチャしていて、まとまらないのだ。

 小説の内容のことだけであれやこれや思考がまとまらないのならまだいい。それなら時間をかけて考えてちゃんと整理すれば、いつか正解の道は見つかるはずだから。

 今集中力を乱しているのは、椿月のこと。より正確に言うと、椿月と神矢のことだった。考えたくはないはずなのだが、気づくと自然と思考の一番上に浮かび上がってきてしまう。

 もしかしたら今夜、あの日話していたように二人で食事に行ったりするのだろうか。

 同じ劇場で毎日顔を合わせている上に、同期で、互いに名を呼びつけにする仲。しかも椿月の本当の姿までも知っているのである。その特別感は流石にこたえる。

 男女の関係、恋愛というものはややこしい。こういうものに、いわゆる常道などはないと聞く。本の中の話ならともかく、実際の女性の心の機微は、正直全然分からない。

 そもそも、なぜ自分は彼女に惹かれているのだろうか。いつから? どうして? どこに? 明確な理由やきっかけが分からないということは、別に本当は大して彼女のことを好いているわけではないのだろうか。

 でも、別の男と話しているのを見ると心がざわつくのだから、彼女を他の人間にとられたくないという気持ちはあるのだろう。

 そうなると、恋心とは所詮ただの身勝手な独占欲に過ぎないのだろうか。

 と、こんなことばかり延々と考えてしまって、また頭の中のペンだけが動き、手元の原稿用紙に文字は増えない。

 少し夜風に当たろうと、男は書斎机を離れ、縁側に出た。

 昼間は暖かくなってきたとはいえ、朝晩の冷え込みはまだしっかりと感じられる。寝間着だと少し肌寒かったが、頭を冴えさせるにはこのくらいが良いだろうと、羽織りを取りには戻らない。

 板張りの床に腰を落とすと、手持ち無沙汰で引っ張り出してきた煙管に煙草を詰め、火をつけた。

 時間をかけ、ゆっくり一口吸う。

 夜の闇に沈む庭に目をやると、手入れをしていないから当然なのだが、あちこちの草が自由に伸びきっている。

 彼は、借家の一人暮らしとしては不似合いなくらいの、大きな木造の平屋に住んでいた。このように縁側に庭まである。

 この家の大家は彼の遠い親戚で、昔彼の祖父母にとても世話になったことから恩を感じ、孫である彼にタダ同然の家賃でここを貸してくれているのだ。

 ただ、広さはあるが、かなりガタがきている。定期的にどこかしらから隙間風を感じ、それを板切れで塞ぐということを繰り返す。大雨の日には雨漏りの箇所が両手で済めばまだ良い方だ。廊下は歩くたびキシキシ音を立てるので、そろそろどこかの床を踏み抜くのではないかと、彼は思っている。

 しかしながら、別に住居など雨風をしのぎ寝食をとれさえすればいいと思っているので、彼はこの家に不満はない。

 彼は長く息を吐く。細く煙が吐き出される。

 つい最近までわずかだった虫の音もだんだん大きく聞こえるようになり、まだ少し先であるはずの夏の到来を一足早く予告していた。

 ほんの少し前まで、自分がこんな風になるとは思いもしていなかった。

 紙がだめになるほどその著作を読み、尊敬していた先生の元に弟子入りし、その師を思わぬ形で突然失った。代わるようにして出版社から声がかかり、あれよあれよという間に念願だった作家としてのデビューを果たしてしまった。

 まあ、その肝心のデビュー作は、鳴かず飛ばずだったのだが。

 今後ヒット作を出さないと食べていけないし、出版社から見放されるかもしれない。

 仕事として文筆業を選んだ以上、これからは自己満足ではなく、読み手を意識した内容を書かなければならない。

 だが、売れるということを考えたしたら、自分が何を書きたいのかどころか、自分が何を書けるのかすら、分からなくなってきてしまった。

 先日椿月に会った時には、調子は「まあまあ」だと小さな見栄を張ってしまったが、実際は全くそんなことはない。自分はもうずっと小説が書けないのではないか、そんな気さえしてくる。

 先生のしたこと、していたことは到底許されることではない。でも、人気作家だった先生なら、こんな時どうしていたのだろうとすがるように考えてしまう自分がいた。

 彼はまた煙管を口に運ぶ。

 もう一つの、自分がこんな風になるとは思いもしていなかったこと。

 まさかこの自分が、女優に惹かれてしまうなんて思ってもみなかった。芸能関係や流行ごとなんて、信じられないくらいうといというのに。定期的に舞台を見に行くようになった今だって、椿月以外の役者の名前など一人も知らない。

 女優としての彼女は確かにすばらしいと思うし、応援もしてはいるが、はじめに知ったのが舞台の上の彼女ではないので、彼女のファンと言われると何か違う気がする。

 でも、彼女からするとどうなのだろう。出会い方はどうあれ、観客として舞台を見に来ている今となっては、ファンの一人という認識なのだろうか。

 特別な理由や目的があるわけでもなくとも、互いに定期的に会う機会を作ろうとしているのだから、少なからず特別な相手なのだろうと期待しているのは自分だけなのだろうか。完璧なほほえみの裏で、毎回来るから仕方なく付き合ってくれているだけだったりするのだろうか。

 彼女に直接訊けたらよいと思うのだが、そうすることで今の関係が変わってしまったらと思うと、踏み出せない。

 こんなことで思い悩むのは人生で初めてのことで、今後どうしたらいいのか見当もつかなかった。

 長く息を吐き、黒い空を眺める。

 月の姿は雲に隠されており、見当たらない。月明かりが無いので、夜の闇も濃い。

 時間的にそろそろ劇場が終わる頃だろうか。

 彼女も今、同じ空を眺めていたりするのだろうか。離れている以上、目に入る景色は違うものだけれど、空はどこまでもつながっているから、なんとなくそれを見つめてしまう。

 なんてロマンチストな考えをするようになったのだろうと、自分でも思う。椿月と出会ってからの自分の変化には、色々と驚かされてばかりだ。

 灰吹きに吸殻を落とす。空吹きすると、火皿に残った灰が舞った。

 こんなにモヤモヤするのなら、先週行ったばかりではあるがもう一度劇場に行ってみよう。ただ無闇に思考をめぐらすのではなく、彼女と直接会えば、少しは思考も澄むのではないか。

 この間会った時、神矢が去って以降情けないくらいに上の空になってしまったことも謝りたい。

 だいぶ体が冷えてきたので、男は煙草盆を持って室内に戻った。

 彼はいつも、劇場ではかなり後列に座る。

 舞台まで距離があるので普通はあまり好まれない席だが、彼としては四方を他人に囲まれるより、こちらの方が落ち着いて観られるのだ。

 そもそも、劇場などというものは人が多くて息苦しいイメージがあったので、相当なきっかけや理由が無ければ絶対に来ていなかっただろう。

 平日の昼公演ということで客の入りは休日よりかは芳しくはなかったが、それでも最前列から後列手前にかけて席はみっちり埋まっていた。

 この劇場では、大体二つから三つの演目が上演されており、その演目はおよそ一月ごとに変わる。

 演目も毎回同じ配役で演じられるわけではない。演目の顔となる主役が変わることは流石にほとんどないが、その他の役は日によって代わる代わる演じられることがままある。

 なので特定の役者が目当てであれば、その役をその役者が演じる回に見に行く。主役でなくとも支持のある役者ともなれば、出演回にはその人目当ての観客で客席はごった返すし、観客たちもあの役を演じるならあの役者が一番だと話題にしたりする。

 そして話も中盤となり、悪女の役をやらせれば右に出るものはいないと評判の女優・椿月が、舞台に姿を現す。濃い化粧に個性的な髪型のウィッグ。女性の曲線を際立たせる細身の西洋ドレスに身を包んでいる。舞台上を歩む彼女は、色っぽく体をくねらせるような歩き方一つから全てが普段とは違う。

 意地の悪い、性格のゆがんだ女性にも、これまでの人生と、そうなってしまった理由がある。そういう行動をとるだけの理由と、そういう行動をとらざるをえない理由がある。それらをきちんと理解して、自身の身に植えつけて、表現する。

 正義の側から見ての悪として演じるのではなく、正義の対となる側から見た正義として悪役を演じる。彼女はそれができる女優だった。

 まあ、男がそれを分析したわけではなく、彼女について書かれた演劇雑誌で読みかじったことなのだが。

 舞台の上の椿月は、色気のある喋り方で台詞を発する。指先の所作ひとつでさえ妖艶だ。

 あの素顔からは想像もつかないが、多くの観客は逆にあの本当の姿を想像することができないだろう。

 その素顔を知るのは、劇場の館長と、彼と、神矢だけという。

 その時、客席がにわかにざわめく。ちょうど、主役である神矢が舞台上に現れたのだ。すらりとした四肢で、軽やかな身のこなしを見せ、もはや舞台を歩いている姿だけで様になる。

 彼が登場するたび、黄色い歓声が最前列あたりから聞こえてくる。

 すると、一つ空席を挟んで隣の席に座っていた客が不愉快そうに咳払いをした。彼は思わず横目でそちらをうかがう。身なりのしっかりした、恰幅の良い老紳士だ。

 あまり人気のない後列席なので、平日の昼公演ともなると人は少なく、ここ一帯の座席には二人しかいない。うっかり目が合ってしまい、彼は反射的に軽く会釈をする。

 それを同意と見られたのかなんなのか、老紳士は控えめな声でこう話しかけてきた。

「……あの主役の男、どう思います? 容姿はいいのかもしれないが、若い女性の人気ばかりにかまけて、演技が全然ダメだ」

 眉間に深いしわをきざみ、老紳士は説教するようにそう言う。

 男は正直、演技の良し悪しなどはよく分からない。お茶を濁すように「そうですね」とだけ言った。

 すると老紳士は、また同意してもらえたと思ったのか、更に言葉を重ねてくる。

「そうでしょう、そうでしょう。台詞が全部上っ面だ。大げさな動きだけで、表情や感情がついてきていない。私は昔からこの劇場が好きで、若い頃から通っているんだが、この伝統ある劇場も見た目だけであんな役者を主役にするようじゃ落ちたものだ……」

 小声で、しかし途切れることなく不満の言葉をつむぐ老紳士。

 よく、年を取ると若者に文句を言いたくなるというが、長年の演劇好きということもありそれに拍車がかかっているのだろうか。

 ふいに、老紳士は思い出したことを口にする。

「ああ、そういえばこんな話を知っていますか? あの主演俳優、あの女優とできているらしいですよ。ほら、あの派手なドレスの」

 老紳士が指し示すのは、当然ながら椿月のことで。

 男は一瞬、周りの声が何も聞こえなくなったような気がした。

「毎夜よく、一緒に帰っているところを目撃されているとか。客の間ではもっぱらの噂ですよ。まったく、同じ劇場の女優に手を出すような俳優などろくなものじゃない……」

 老紳士はその後も不満を喋っているようだったのだが、男の耳にはそれ以上届いていなかった。

 元々知人友人も少ないし、演劇関連の知り合いなどほとんどいない。そんな噂など今までまったく知らなかった。

 でも、よく考えたら自分は彼女の普段の私生活など何も知らないのだ。月に一回程度、昼間の数時間に会うだけ。

 神矢と椿月が交際しているという噂。

 もやもやを晴らそうと思ってやってきたのに、それ以上のもやもやを抱えることになってしまった。

 こんなことを理由にしてはいけないとは分かっているのだが、原稿の完成が更に遠のくのを感じた。


 上演後。老紳士は「話を聞いてくれてありがとう」と満足げに男に礼を言い、早々に席をあとにした。だが彼は、なんだか心が重くてなかなか席を立てなかった。

 しばらくそこでぼうっとしていたが、劇場の清掃員からの視線で、他の観客がすっかりいなくなっていたことに気づき、ふらふらとホールから出て行った。

 いつもならばここから楽屋に向かい、椿月に挨拶をしてから帰る。でも、こんな気持ちのままではなんとなく会うのが億劫で、今日はそのまま帰ろうと建物を出た。

 劇場の敷地は町中にあるとは思えないくらい広い。ホールや楽屋などが入った現在主に使われているこの建物の裏手には、今は物置同然になっている旧劇場もある。

 敷地は赤茶色のレンガ造りの塀に囲まれており、客は正面の背の高い門から出入りをする。

 男がその門をくぐろうとしたところで、後ろのほうから呼び止める声が聞こえた。

「待って、待って!」

 聞き覚えのある声に男が振り返ると、小股で走って追いかけてくる椿月の姿があった。その姿はほぼ舞台での衣装のままで、大ぶりのイヤリングが揺れ、三連になった金の細い腕輪がチリンチリンと音を立てている。

 門の前で足を止めた男に追いつくと、椿月は息を整えながら文句を言った。

「もう、どうして黙って帰っちゃうのよ」

 男は椿月が自分を追いかけてきたことにびっくりした。

「……すみません。僕がいることに気づいてたんですか?」

「気づくに決まってるでしょ。あなたが座るのっていつもあの辺りだし、舞台から客席って、実は結構見えるものなのよ?」

 いつも気づいていたのか。てっきり観客席など暗くて全く分からないと思っていた男は、驚き半分、気恥ずかしくも感じる。

「それにしても、二週連続で見に来てくれるなんて珍しいわね。ビックリしちゃった」

 椿月は口角をきゅっとあげると、彼の腕にひっついた。外国製の香水の甘い花の匂いが、男の鼻腔を刺激する。

 妖艶な舞台女優としての時の椿月は、いつもぐいぐいと寄ってくる。普段の姿の時は、口調はともかく年相応の娘としての慎ましやかさはあり、共に歩いていても袖が触れ合うことさえもほとんどないというのに。

 これも彼女の役者としての精神的な切り替えがさせることなのだろうけれど、誰にでもそうしているとしたら少し問題だと思う。もちろん、自分だけにやっているとしてもそれはそれで問題なのだが。

 そんなことをぐるぐる彼が頭の中で考えていると、不意に、彼女がさりげなく周りをキョロキョロと見回している様子に気づいた。

「……どうかしましたか?」

 椿月は彼の問いに「え?」と彼の顔を見上げると、本当に何でもなさそうに、

「ううん、別に?」

 とほほえんだ。

 何か普段と違う感じがしたのだが、彼女にとって完璧な演技などお手の物。こうなってしまうと、気になってもこれ以上踏み込むことはできなかった。

「ねえ。次の夜の出番まで結構時間があるの。これからちょっとお散歩しない?」

「いいんですか? 抜け出してしまって」

「いいのいいの」

 小悪魔のようないたずらっぽい笑みを口元に浮かべ、目を細める。形の良い赤い唇は、美しい皿型に曲げられていた。

 前にも二人で散歩したことがある、劇場裏手の小川。賑やかな表通りに面した先ほどの正面の門と、建物を挟んで反対側にあるため、人もほとんどおらずとても静かだ。

 二人はそこを川沿いにゆっくりと歩いた。川辺の野草の中には小ぶりな花も見られ、季節の移ろいを静かに暗示するするようだった。

 雲間から覗く昼下がりの優しい太陽が、小川の水面に白い光をちらつかせる。

 ただ、この穏やかな空間の中で、ほぼ舞台衣装のままの椿月の姿は非常にそぐわないものだった。淡い色が占める景色の中で、コントラストのきつい深い紫のドレスと、真っ赤な口紅。まるで夜の世界だけを生きる蝶が、昼の世界に迷い込んでしまったかのように見える。

 そんな彼女が、いつものように彼に尋ねる。

「今日の舞台はどうだった?」

「良かったと思いますよ」

 すぐにそう答える彼に、椿月は両の眉根を寄せる。

「あなた、いつもそればっかり言うわね。ホントに小説家なの?」

 自分には演技を評するような知識もないし、毎回本当に良かったと思ったからそう言っているのだが。男は反論をこうまとめる。

「口下手なだけです。文章は書けます」

 男は着物の袖に両腕を突っ込み、腕を組む。

 椿月は、男からすると何かの罰かと思うほど信じられないくらい高さのある西洋靴を履いているので、彼女が転ばないように速度を合わせて歩調を落とす。

 いつも会う時のように、他愛もないことをいろいろ喋る。

 人と会話を持たせることが苦手な男からすると、椿月は次から次へとよく話すことが尽きないなと思う。でもそれは決して批判的な意味で思っているのではない。自分もこのくらい達者に話すことができたら、と思うのだ。

 普段はもっぱら聴くばかりの彼だが、今日に限っては彼女に訊いておきたいことがあった。

 老紳士からあの噂話を聞いてからというもの、頭の片隅から、というより頭の真ん中から、そのことがどいてくれない。

 さりげなく、そちらの方向に話を持っていこうと努めてみる。

「あの……出ていましたね。この前喫茶店で会った、あの人」

 突然の神矢の話題にきょとんとしつつも、椿月はうなずいてみせる。

「ああ、辰巳? そうよ。彼、主演だから出ずっぱりだったでしょ」

 やはり彼女の口から男の名が出ると、何度聞いても心がザワザワする。

 色々訊きたいことはあるのだが、どう尋ねたら自然なのか。男は思案しながら話す。

「あの人は……その、椿月さんから見て……演技はどうなんですか」

「へ? 演技? あなたがそんなことを訊くなんて珍しいわね。そりゃあ、主役を張れるくらいなんだから、同世代の若手としてはすごいと思うわよー」

 男からの思わぬ質問を不思議に思いながらも、素直に自分の思うことを口にする椿月。

「そうなんですか……」

 つい核心から逃げてしまった。

 男が心の中でため息をこぼしていると、椿月が大きな目をパチパチとまばたきさせながら、顔をのぞき込んでくる。

「なあに? 辰巳に興味がわいた?」

 違います。男は心の中で即答する。

 一度咳払いをしてから、意を決して口を開く。

「あの……神矢さんと、椿月さんは――」

 その時、男越しに小川の向こうの景色を視界に入れていた椿月が、びくっと彼に身を寄せてきた。

 彼の袖先をくいと引っ張って、そちらに注意を促す。

「ねえ。向こうの物陰のところ、誰かこっちを見て立ってない?」

 ひそめた声でそう言う。

 彼女の示す先は、小川を挟んでかなり距離がある。彼は眼鏡をかけているくらいなので、当然目が悪い。何となく人影らしきものがぼんやり見える気もするが、物や草木などの見間違いのようにも感じられる。

「気のせいじゃないですか?」

 男はそう言ったのだが、椿月はやけに気にしている様子で、

「……場所を変えましょう」

 と提案した。

 彼は断る理由もなかったので従うが、質問したかったことは何となくうやむやになってしまった。

 二人で裏口から劇場に戻る。楽屋方面に通じる劇場関係者通路に向かい、人の出入りが激しい廊下を歩いているところで、椿月に声をかける者があった。それは椿月よりも年若そうな手伝いの娘で、恐らくこの劇場で見習いとして働いているのだろう。

「椿月さん。あの、また――」

 深刻そうな表情で何かを伝えようとした娘に、椿月はすっと掌を向け、彼女の言葉を制する。

 娘も、椿月に連れがいることにハッと気づき、口をつぐんだ。ぺこりと頭を下げて、すっと去っていく。

 男はその一連のやりとりに、言い知れぬ不安を抱いた。

「……何かあったんですか?」

 そう訊かれて、椿月は両の口角を上げてみせる。

「大したことじゃないのよ、気にしないで」

 大人びて見える今の彼女に、至極軽そうな感じでそう言い切られると、その先を踏み込むのがためらわれた。

 でも、ここは引けない。

「椿月さん――」

 一歩踏み出し、先を歩く彼女の細い手首を取ろうとした。

 が、その手は虚空を掻く。

 もう一つの彼女を呼ぶ声に、椿月が身をひるがえしたからだ。

「椿月~」

 通路の奥側からこちらに向かって、手を振りながら歩いてくる人物。

 遠目からでも分かる。男にとって今一番会いたくない相手である、神矢だった。

 神矢は椿月ばかりを見ていたのか、男の存在に気づいたのはかなり近づいてからだった。

「おぉ? あんた、こんなところまで入り込んでるのか?」

 驚いたようにそう口にする。

 “入り込んでいる”だなんて何という言い草だ、と彼は思ったが、同時に、ただのファンだと思われているのなら仕方のないことだとも思った。

 それに、もし噂通り二人が恋仲であるのなら、邪魔な男性ファンだと思っていることだろう。

 神矢の言い様に、椿月は男の腕にピタリとくっついて抗議する。

「いいでしょう。私が好きでそばに呼んでるんだから」

 そう言い切られてしまうと神矢も、納得いかずとも不機嫌に口を閉じるしかない。

 神矢は男を凝視してから、

「んで、見たか? 俺の舞台」

 と、得意げにそう訊いた。

 男がうなずくと、「どうだった?」と自慢げに質問を重ねてくる。肯定の言葉しか返ってこないと確信しているような声色だ。

 そのあまりの自信家な様子に、男は思わずこう口にする。

「僕は演技などについては良く分かりません。……ただ、隣に座っていた老紳士が、あなたの演技を酷評していました」

 人の言葉を借りて、つい意地悪なことを言ってしまう。自分にこんな一面があったとは、男としても自分に驚くばかりである。

「ああ……あのおっさんか……。もう引退した先輩たちが現役の頃からずっと、よくこの劇場に見に来てるらしいからな。とにかく評価が厳しいらしいんだよな……」

 神矢はどうやらその老紳士がよく見に来ていることを知っているらしく、先ほどの自慢げな表情から一変して、苦虫を噛み潰したような顔になる。

 すると椿月は明るくこう言った。

「あら。酷評でも何でも、ちゃんと見てくれてるってことは目をかけてくれているのよ」

 同じ役者としてらしい助言だった。

 そんな彼女の言葉に、神矢は大げさに感極まってみせる。

「椿月はいいこと言うなぁ~。ま、将来有望なこの俺だしな」

 途端に自信を取り戻したのか、どや顔でそんなことを言ってのける。

 対して椿月は、自分の言っていることが全然伝わっていない、と小さな唇をとがらせた。

「もう。だから天狗にならないで、っていう意味なのに」

「まあまあ。今度椿月の好きなビーフシチューの専門店に連れてってやるからさ」

「はいはい。時間ができたらね」

 神矢の誘いをあしらうように、彼女は手をひらひらとはためかせる。

 椿月と神矢がやりとりしている間、男はというと。結果として二人の食事の約束の手助けしてしまったことにショックを受けつつ、椿月が好きらしいビーフチューなど自分は一度も食べたことがないな、と考えていた。

 その時、神矢が「あっ」と何かを思い出したようだ。

「つーか、さっき館長が椿月のこと探してたぞ」

「まあ。それを先に言ってよ」

 男に「ごめんね、少し待ってて」と伝えると、椿月は一人館長室の方へ向かっていった。

 言われた通り、彼はこの場で待っているつもりだったのだが。なぜかいつまでも神矢がこの場を離れない。二人になると喋る人間がいないくなり、沈黙がとても気まずい。

 椿月が向かった方向をいつまでも見ていた神矢に、男は勇気を出して話しかけた。

「あの、神矢さん」

 振り返る神矢。視線がかち合う。

 男は今度こそ意を決す。

「失礼ですが……、あなたと椿月さんは、どういう関係なんですか?」

 彼の言葉に、神矢は片眉を吊り上げる。

「それはこっちが訊きたいね。あんたは一体何者なんだ?」

「……どういう意味ですか?」

 彼は本当に神矢の質問の意図が分からなくて尋ね返したのだが、神矢はじっと目を見つめてくる。まるで彼の本性を探ろうとするかのように。

 いつもの薄笑いが消えた神矢の真剣な顔は迫力がある。それでも男の目は、風のない水面のように揺らがない。視線を逸らすことなく見つめ返す。後ろめたいことなど何もないし、なんとなく、ここで引くわけにはいかない気がしたから。

 その様子はまるで、見えないつばぜり合いをしているかのようだった。

 どのくらいそうしていただろう。ふっと神矢は視線を外し、何事も無かったかのようにきびすを返して去っていった。

 一体何だったのだろうか。神矢に尋ねられた言葉の意味がよく分からないまま、男は離れて行く神矢の背を見送った。

 しばらくすると椿月が戻ってきた。

 それから、劇場内にある、出演者や裏方などの劇場関係者のために設けられている食堂で軽くお茶をした。

 二人はいつものように取り留めなく話をした。そして時間は過ぎ、夜の公演が近づいていた。

 椿月は彼を劇場の正面口近くまで送ると、

「じゃあ、私はそろそろ夜公演の準備があるから。付き合ってくれてありがとう」

 と、優雅な笑顔で礼を言った。

 いえ、と軽く頭をさげ、見送られるまま出て行こうとした男が、足を止める。

 振り返って、彼女の瞳を見つめた。

「あの、椿月さん」

 小首をかしげる彼女に、言いたいこと、訊きたいことがたくさんあるはず。

 同期として以外に、神矢さんとはどういう関係なんですか。

 二人はお付き合いしているんですか。

 いつも夜は一緒に帰っているんですか。

 今度、神矢さんと二人で食事に行くんですか。

 見つめる先の、彼女の黒々としたまつげがぱさぱさと動く。

 そして。

「……夜の公演も、頑張ってください」

 彼の言葉に、椿月はまた美しく笑む。

「うん、ありがとう」

 結局彼は何も訊くことができなかった。自分の意気地の無さに呆れるばかりである。


 ある雨の日。

 しとしとと、雨粒が静かに地面に吸い込まれていく。未明から降り続く雨は、部屋の中にまで雨の匂いを届けていた。

 男は朝から机に向き合っていたが、増えるのは丸めた原稿用紙ばかり。

 書いても書いても、何か違う、という感じが拭えない。

 気持ちを入れて書いているつもりではあるのだけれど、これを人に読ませて何かを伝えたいのか、作品を通して何かを表現したいのかと言われたら、すぐにはうなずけない。

 今の自分の文章は、それっぽいことの上澄みをすくっているだけのような気がする。本当に伝えたい核心に向かい合おうとせず、それから逃げ回っている感じ。でも、その核心が何なのか自分でも分からないというような状態。

 朝から夕方までこうしてずっと机に張り付いていたが、もうそろそろ体が限界だった。

 大きく伸びをして、畳の上に寝そべる。

 すると、着物の袖の部分にゴリッと何か硬いものの存在を感じた。探ってみると、大ぶりのきらびやかな装飾品が出てきた。

 彼はすぐに思い出した。

「しまった。渡し忘れていた……」

 これは椿月のイヤリングの飾りだ。先日二人で劇場周りを歩いていた時に、金具が外れて落ちてしまったものを、ポケットも鞄もなかった椿月の代わりに預かっていたのだ。

 別れる前に渡すつもりだったのだが、色々あってすっかり忘れてしまっていた。

 キラキラしたそれは、もしかしたら替えのきかないものなのかもしれない。確か、普通イヤリングは左右で同じものをつけるはずだ。

 そう考えた男は、すぐに思い立って草履をつっかけ、傘を手に取った。

 今日彼女が劇場にいるかは分からないが、彼女に直接渡せなくとも劇場の関係者に預けるでもいいし、なるべく早く返そう。

 朝から降り続く雨で夕日はその姿を見せず、空に敷き詰められた暗い雨雲がそのまま黒い闇になって、夜に溶けようとしていた。

 街灯のともりはじめた町中を足早に抜け、劇場へ。正門前は、雨にもかかわらず夜公演を見に来た観客らでにぎわっていた。

 いつもは混雑を避け平日の昼公演に来ることが多いので、久々に見る夜公演前の盛り上がりに圧倒される。建物自体にも無数の灯りがともされ、外壁のレンガの色を反射して橙色の幻想的な雰囲気に包まれていた。

 男は人ごみを縫い、建物の中へ。人々が傘をさしていない分、屋内はいくらか混雑が解消されている。赤じゅうたんを踏み、大きなガラス製のシャンデリアが吊るされた天井の高いロビーへ向かう。このまま正面に進めばホールだが、右に曲がって劇場関係者用の領域へ。

 流石に、上演前に部外者が楽屋に入るなんて邪魔以外の何物でもないだろう。楽屋のある通路には踏み入らず、その少し前辺りを歩いた。誰かイヤリングを彼女に渡してくれそうな適当な人物はいないかと見回していると、遠くに見覚えのある人影を認めた。

 大きな体に、頭はライオンのたてがみを彷彿とさせるようなシルエット。

 この劇場の館長だ。

 声をかけるには少し距離があり、周りも騒がしい。彼は歩いていく館長の背を追った。

 忙しそうにすれ違う人々にたびたび阻まれながら進んでいくが、館長の行く先は慌しく舞台の準備をしている楽屋方面とは打って変わって、寂しいまでに静かだった。

 この劇場は広く入り組んでおり、館長が道を曲がった際、その姿を見失ってしまう。

 どこに行ったかと辺りを見回していると、館長の声が聞こえてきた。誰かと会話しているのだろう。

 声はすぐ近くの階段の裏辺りから聞こえ、「館長」と声をかけようとして、彼は自分の口をつぐんだ。

「また届いていました……。どうしましょう」

 わずかな記憶をたどり奇跡的に分かった。この困ったような声の主は、この間椿月と劇場を散歩した日に声をかけてきた手伝いの娘だ。深刻そうに椿月に何かを伝えようとして、彼女に制止されていた。

「ううむ……。この事は、椿月には言ったのかい?」

 これは館長の声だ。二人は椿月の話をしているのだろうか。

 立ち聞きなどいけないとは分かっているのだが、男はついその場で息をひそめてしまう。
「あ、お話してしまったんですけど……」

「これ以上椿月が不安がるといけないから、これからは私だけに言うようにしておくれ」

「はい。分かりました……」

 やはり、椿月の周辺では何かが起きているのだ。先日から、椿月の行動には引っかかる点があった。一つ一つはさほど大したことではなかったのだが、それが積み重なってくると流石に違和感が生じてくる。

 はじめは、喫茶店で神矢が椿月に耳打ちしていたこと。「あの件は大丈夫なのか?」と。あの時もヒソヒソやりとりをしていて、椿月もその話題を出してほしくない様子だった。

 そして、この間椿月と会った時も。やたらキョロキョロと周りを気にしていた。劇場裏手を散歩したときは、「誰かこちらを見ている人がいる気がする」とえらく警戒していた。その後彼の前で、この手伝いの娘の発言を不自然にさえぎった。

 彼女は自分に何かを隠している気がする。彼女と話がしたい。

 そう思った男は、館長たちと鉢合わせしないよう足音を殺してその場を離れた。

 ロビーに戻って本日の演目と出演者を調べると、夜公演には椿月が出るようだ。ということは、今くらいの時間だとちょうど旧劇場で一人で準備しているところだろう。

 椿月はその正体を劇場の関係者たちにさえ秘密にしており、いつも旧劇場の一室でこっそり身支度を整えてから、劇場に入る。

 男はまた人でごった返す正面口を抜け、劇場の裏手に回った。ほとんど物置代わりとなっている旧劇場には最低限の質素な明かりだけが点っていて、劇場の光のきらびやかさとは比べようもない。

 前に来た時と同じく、というより、夜であるしあんな事件もあった後なので、ますます寂れているように感じられた。

 ここは特に鍵はかかっていないので、そのまま正面の扉を押し開けて中に入る。入り口から三方向に広がる廊下は光が不足しており、先の方は闇に落ち、見通せない。

 物置としてはこの程度の明かりで十分なのだろうが、椿月がこんな暗い夜もここに通っていると思うと、彼としては少し心配になった。

 この間の事件の時に聞いた、彼女が支度に使っているという部屋に足を進める。

 今の劇場と同じくらいかそれ以上に入り組んだ作りである旧劇場は、やたら曲がり角が多い。建てられた当時、こういう建築様式が流行っていたのだろうか。

 床も今の劇場と同じくぶ厚い赤じゅうたんが敷き詰められていて、足音はほとんど吸収される。

 だからか彼は、角の向こう側から早足でやってくる人物に、直前まで気づくことができなかった。それは向こうも同じだったようで、出会い頭に激しくぶつかってしまう。

「キャアアアアアッ!」

 それは、ただぶつかっただけにしてはひどく不自然な、あまりに激しい悲鳴だった。

 悲鳴の主、ここの一室で身支度を終えて出てきたのであろう椿月は、頭を抱え込むように身を縮こまらせていた。体がブルブルと小刻みに震えている。

「す、すみません! 椿月さん、僕です!」

 ぶつかったことよりも尋常でない悲鳴に驚いた男だったが、すぐに、気が動転している椿月の細い両肩をつかんだ。

 彼の声を耳にして、椿月が顔をあげる。薄暗い中でも分かるくらい、顔が青ざめていた。

「あ、ああ……良かった……。びっくりした……」

 ぽつぽつとしか言葉がつむげない彼女は、どこか放心した様子で、バクバクと早鐘を打っているのであろう胸を押さえていた。

 どう見ても、おかしい。

 彼女が落ち着くまで黙って見守っていたが、彼女が平静さを取り戻したのを感じると、男は改めて尋ねた。

「椿月さん。どうかしたんですか?」

 彼女が女優としての演技の切り替えをする音が、男には聞こえたような気がした。

「ん? 違うのよ、普段ここには人なんてめったに来ないから、人がいてびっくりしちゃって。ごめんなさい、驚かせちゃって」

 完璧な笑顔で完璧な台詞をつむぐ彼女。

 口には出さないが、男は思う。先程の動転からの切り替わり方が完璧すぎて、逆に不自然ですよ、と。

 ふるまいの継ぎ目が丸見え、とでも言えるだろうか。

 それに、あのとてもただぶつかっただけとは思えない驚き方をしておいて、なんでもないわけがないのに。

 それでも自分に何かを隠し通そうとする椿月を、男は目を逸らさずじっと見つめた。こういう駆け引きみたいなことで、彼女に勝てるわけはないのだけれど、それでも。

「……心配しないで。あなたが気にするようなことなんて何もないのよ」

 椿月は彼を安心させるようにほほえむ。でも、彼女はいつものように彼の目をまっすぐ見てはいなかった。

 心配しないで、とそう言われてしまうともうどうしようもないのだけれど、彼は通せんぼするかのようにその場所を動かない。

「そろそろ上演時間だから、行かないと……」

 うつむきがちに目を逸らして逃げようとする彼女に、彼は言った。

「でしたら今夜、公演が終わるのを外で待っています」

「え……」

 椿月が顔を上げる。

「ご迷惑でなければ、ご自宅まで送りますから。道すがらでいいので、話をする時間をください」

 二人は見つめあう。

 こんなにはっきり物を言う、強く何かを要求する彼を、椿月は初めて見たかもしれない。

 短くも長い時間が流れ、彼の真剣な眼差しに根負けして、椿月はそっと表情をゆるめた。

「うん……分かった」

 何かを覚悟したように、自然なほほえみをたたえる。自分の抱えていたすべてをようやく白状する、そんな解放感を感じさせる瞳だった。

 夜公演の終わり。

 雨にもかかわらず大変な盛況ぶりで、すべての観客が退館するまでに結構な時間がかかった。

 客が一人もいなくなると、すぐにシャンデリアや建物の周りを照らす明かりなどが落とされ、一瞬にして寂れた空気が一帯を支配する。劇場内も旧劇場と変わらないくらいの暗さになる。

 男は、劇場の敷地を囲う塀に作られた門から少し離れた場所にいた。降り続く雨と夜の冷え込みで肌寒い。流石にこんな日は役者たちのファンの出待ちもいない。

 男の立つ場所からだと、わずかな明かりだけがともった正面口と、人気のない裏口、その両方からぱらぱらと帰路につく役者や舞台関係者たちの姿が見えた。

 椿月に「外で待っている」と伝えたが、彼女が正面口と裏口のどちらから出てくるのか聞いていなかった。だから、どちらからも少し距離は遠いが、両方の口を見通せる場所にいたかったのだ。

 次第に出て行く者たちの姿も少なくなったが、様々な稽古や後片付けなどもあり、若手の役者が帰るのはほとんど最後の方だ。

 男は傘を握る手に降りやまない雨の勢いを感じながら、すっかり人気のなくなった通りをじっと眺めていた。

 先ほどは、少々強引すぎてしまった気がする。とても自分の取る行動とは思えないことで、彼も自分自身に驚いていた。

 それでも、彼女が何かに追い詰められているような様子を見たら、多少強引にでも踏み込まずにはいられなかった。自分が気になっていた神矢とどうこうの話は、あれだけ訊くことができなかったというのに。

 そんなことを考えているうちに大分時間が経ったのか、裏口の方から椿月が現れた。女優の時の彼女など微塵も想像させない普段の袴姿で、下ろした長い髪にはいつものリボンがかわいらしく結われている。女物の小ぶりで細身の傘を手にしていた。

 頼りない小さな電灯一つだけに照らされた裏口の小さな扉から出ると、きょろきょろと辺りを見回す。まだ男が来ていないのだと思ったのか、椿月はそのまま手持ち無沙汰に空を見上げた。

 男は彼女の方に歩みを進める。

 正面口の前は華やかな大通りに続いているのだが、裏口の正面は道を挟んですぐ雑木林で、夜ともなるとその闇は非常に濃いものになる。そんなところで彼女を一人いつまでも待たせるのも申し訳ない。

 そう思った彼が、歩調を速めようとした瞬間。

 裏口正面の雑木林の闇から、道をつっきって人影が飛び出してきた。

 その影はまっすぐ椿月に向かい、驚く彼女の手首をつかんで自由を奪う。彼女のさしていた傘が空に舞っていく。

 か細い「イヤッ」という悲鳴は口をふさがれたことでかき消された。

 降り続いた雨でぬかるんだ道に、地面を踏み荒らしながらもみ合う水気を帯びた音が響く。
 この不審者は、椿月を力ずくでさらおうとしている。

 一瞬何が起こったのか分からなかった男だったが、すぐに緊急事態を理解し、傘を放り投げて駆け出した。

「椿月さん!!」

 騒がしい雨音の中でもひときわ響く彼の大声に驚いて、正体不明の襲撃者は一目散に逃げていく。

「待て!」

 このまま追いかけて椿月を襲った輩を捕まえるべきか迷ったが、目の前で泥の道の上に倒れこんだ彼女を放置することなどできなかった。

 すぐに駆け寄って抱え起こすも、椿月は気を失っていた。いきなりあんな目に遭えば、無理もない。さぞ驚き、怖かっただろう。

 彼女の美しい髪と、陶器のような白い肌が、泥に汚されている。

 それを見ていると、心の奥底からふつふつと許せない気持ちがこみ上げてくるのを感じた。

「おい、どうした!」

 騒ぎを聞きつけ裏口の方から夢中で駆けてくる足音と、知った男の声。

「神矢さん……」

 男は駆けつけた神矢を見上げ、腕の中の彼女を示してみせた。

「用事があって、門のところで椿月さんを待っていたのですが……。向かいの雑木林から、不審な人間が」

 彼の話を聞くと、神矢は悔しそうに顔をゆがませ、「チクショウ!」と片足で強く地面を打ちつけた。

 神矢の様子を見るに、何か事情を知っているのだろう。男はそう思った。

 神矢は冷静さを取り戻そうと努め、目を閉じて何度か深呼吸をする。そして、

「とりあえず、館長のところに運ぼう。まずは椿月を休ませて、館長にも報告しないと」

 と提案した。

 男はうなずく。

 膝の裏に腕を通し、彼女の体を自分の胸に寄せ、ひょいと抱えあげる。

 華奢な体だ。彼は思った。

 こんなに軽くて細い身に、一体何を隠して、抱え込んでいたというのだろう。

 男は、悲しいような、寂しいような、悔しいような、複雑な気持ちだった。


「椿月にはあんたに黙ってるように言われてたんだけど……今あいつ、ちょっと熱心すぎるおっかけに追われてるらしいんだ」

 館長室にある簡易ベッドで椿月を休ませ、館長に事件を報告した後。

 明かりが完全に落とされた廊下に、館長室から漏れる明かりだけを頼りに二人の男の姿がある。

「はじめは匿名の熱烈なファンレターから始まって。『愛してる』だとか、『うちに迎え入れたい』とか。まあ、正直そのくらいならよくあるっちゃよくある話なんだ。俺たちはそういう仕事だからな」

 開け放した窓辺で、神矢は紙煙草を吸っていた。雨音の止まない窓の外の空気に、煙を吹きつける。

「それからちょっとどうかしてるくらいの量のファンレターが引っ切り無しに届くようになって。その文章もどんどん過激になっていった。『君を連れ去りたい』、『二人でどこか遠くへ行こう』ってな。あまりの手紙の数に手伝いの娘たちも気味悪がっていて」

 標的にされているわけでない手伝いの娘たちが気味悪がるくらいなのだから、椿月の心労はさぞつらいものだっただろう。男はそう察する。

「もちろんそんな手紙は無視するんだが、そうしたら『なぜ応えてくれないんだ』『どうなるか分かってるんだろうな』と脅迫めいた文章に変わっていって。今度は、椿月の劇場での挙動を事細かに書かれたりするようになった。まあ、“いつでも見ている”とでも伝えたいんだろうが、こっちからしたら付きまとわれてるってことだから、気味が悪いよな」

 彼女がいつも周囲を気にするようにキョロキョロとしていた理由はこれだったのか。今思えばもっと気にしてやれば良かったのだが、その時はそんなに重要なことだと思えなかったにぶい自分が悔やまれた。

「それから、どこでどうやって知ったのか……多分、警備の手薄な旧劇場で、着替えでも覗いたんじゃないかと思うんだが、普段の椿月も追っかけまわすようになったらしくてな。それも手紙に書いてくるようになって。それから劇場でも私生活でも、気のせいかもしれないんだが、いつも遠くから視線を感じるとか物音がするように感じるとかで、出かけるのを怖がってな」

 神矢が煙草を吸ってできた間に、男は問いかける。

「警察には?」

「行ってるんだが、その相手が分からないことにはな……」

 悔しげな表情で廊下の灰皿に煙草を押し付けると、もう一本取り出して火を点ける。

 また一口吸って吐いてから、話を続けた。

「“女優の椿月”が“あの椿月”であると劇場内で正体を知っているのは、館長と、同期の俺だけだ。客や知人友人はもちろん、劇場関係者も信頼のおけるほんのごくごく一部しか、彼女の正体は知らない。だから、館長の頼みで、普段の昼間の外出は館長が付き添って、劇場で帰りが夜になる時は俺が家まで送り届けてたりしてたんだが……」

 そこで神矢はちらと男に視線をやった。

「喫茶店であんたと出会った時は驚いたよ。外に出るのをあんなに不安がってた椿月が、館長も誰も連れずに出かけてたんだから」

 あの日神矢が自分をじろじろ見ていた理由が分かると同時に、あの時あんなに楽しそうに笑っていた彼女が、実はそんな無理をしていたなんてと、とてもショックだった。

 演技の達者な彼女のこと、気が乗らない外出でもにこにことしていられるのだろう。今まで二人で会っていた日のすべてが嘘になるようで、男は悲しかった。

 しかし、神矢はこんなことを言う。

「……あんたら、たまに二人で会ってるんだろ? 椿月はよっぽどそれを大事にしたかったみたいだな」

 神矢の言葉に男は小首をかしげる。

「自分が変なおっかけに付きまとわれて悩んでいるなんて知られたら、せっかくの二人の外出がなくなってしまうかもしれない。それに、余計な心配をかけたくないから話さない、って」

 神矢はフッと片方の口角を上げる。

「あの椿月にそこまで思い入れされるなんて、どんないい男かと思ったんだがな……。ホント、あんたは一体何者なんだか」

 男は、今の神矢の話を聴いて、胸の中にじんわりと広がる何かを感じた。

 彼女が二人で会うことをそんな風に大切に思ってくれていたこと。そして、それゆえに彼女の胸に秘密を抱えさせてしまったこと。嬉しさ、気恥ずかしさ、悔しさ、悲しさ、色々な思いが入り混じる。

 それでも心の一番深いところから、彼女をひどく愛しいと思う気持ちと、彼女を助けたい、守りたいという気持ちがあふれてきた。

「今夜も、送って行くと言ったんだが、今日の帰りはあんたと会うからついてくるなって言うんだ。一応、あんたと落ち合うまで二階の窓から裏口辺りを見てたんだが、まさかあんなそばに潜んでいたとは……」

 神矢の表情がゆがむ。それから男に尋ねる。

「顔は見たか?」

「いえ……。暗がりでしたし、すぐに逃げられてしまったので。体格的に、少なくとも女性や子供ではない、ということくらいしか言えないです」

 彼の言葉に、神矢は悔しそうにわしゃわしゃと頭を掻いた。

 あご先に指をあてがい、男は静かに思考する。

 今の神矢の話と、椿月のこれまでの振る舞い。自分が見てきたこと、聞いてきたこと。色々なことを振り返ってみる。

 こそこそと椿月を追い回す熱烈なファン――。

 外出に付き添う館長と神矢――。

 神矢と椿月が恋仲であるという噂――。

 その時、黙って考え込んでいた彼の頭の中で、何かがつながった。

「……もしかしたら、その人を捕まえられるかもしれません」

 彼の言葉に、神矢の片眉がいぶかしげに上げられる。

「どこの誰かも分からないのにか?」

 男は考えるように足元に視線をやりながら、神矢にこう尋ねた。

「もう一度確認しますが、椿月さんの正体は、そのおっかけの人以外だと本当に館長と神矢さんとごく限られた信頼のおける劇場関係者たち、それと僕しか知らないんですね?」

「ああ。誓って言える。正体を知るわずかな劇場関係者たちが、勝手に秘密を他言するような奴ではないということも、俺と館長が保証する」

 神矢は真剣な目でそう宣言する。

「……分かりました」

 男は足元から視線を持ち上げ、廊下の先の闇をじっと見つめていた。

 きっと本人すら気づいていない、今まで誰も見たことのない彼の鋭い眼差しに、神矢だけが気づいていた。

 神矢の紙煙草の灰が、ポロリと落ちる。

 そして。

 ある日の昼公演に、男はまた足を運んでいた。

 彼が見に行く舞台ということは、もちろん椿月が出演する回である。

 この間と同じように、平日の昼ともなるとまた客の入りは少ない。

 男は前と同じ後列の席に座っていた。

 一つ空席を挟んで隣の席には、そこがその人の指定席なのか、前回と同じようにあの老紳士が座っていた。

 ここ一帯にはやはりまた二人しか人はいない。

 男は舞台を邪魔しないよう控えめな声で、老紳士に話しかけた。

「また会いましたね」

「ああ、君か」

 老紳士も男に気づくと、帽子を軽く持ち上げて会釈をする。

「君も何度もこの舞台を見に来ているんだね。若いのにこの劇場の良さが分かるか」

 嬉しそうにうんうんとうなずく老紳士。

「ええ、まあ。それよりも、ちょっとお訊きしたいことがあるんですが」

 男の言葉に、「なんだね?」と席を一つ男側に移動してくる。

「この間お会いした時に聞いた、あの俳優と女優が付き合っているという噂。確か、夜によく一緒に帰っているのが目撃されているとか。気になって確かめたかったんですが、みんな知らないと言うんです。その噂、どこで聞かれたんですか?」

「うーむ。観客の皆が言っていることだからなぁ。はじめに誰から聞いたかは忘れてしまったよ」

 たくわえられた白いひげを指先でなでながらそう語る老紳士に、男は更に踏み込む。

「皆って、一体誰が言ってるんですか?」

「……なんだね急に」

 男の声色が変わる。

 二人の間の空気が、ピリリと電気を帯びたようになる。

「一人でいいので、その噂話をしていた誰か具体的な人の名前を挙げてください。その人に確認を取りますから」

 男は視線を逸らさない。

 老紳士は言葉を返さない。

「……嘘ですよね。そんなことが噂されているなんていうのは。それは貴方が、夜によく出歩いている二人を見ているからではないですか?」

 舞台の盛り上がりと対照的な重い空気が、ここにあった。老紳士はまっすぐ前の舞台を見すえたまま動かない。

 男は追い討ちをかける。

「二人が夜一緒に帰るようになったのは、ある熱烈なファンのおっかけ行為がしつこくなってからだそうですよ」

「違う! お前の言っていることはでたらめだ」

 ホール内であることも忘れて声を荒げ、感情的になって言い返す。

「私は本当に人から聞いたんだよ。その二人が夜に町中を出歩いているのを見たという人から!」

「そんなわけがないんです」

 男の眼鏡のレンズが白く光る。

 ホールの後ろの扉から誰かが入ってきたのだ。

 公演中にもかかわらず扉を開けたことで、薄暗い劇場内に差し込んでくる外からの光。

 中間列くらいまでに座る観客たちが、一体何なのだと後ろを振り返る。入ってきた人物の姿を見、普通に観客が入ってきただけと分かると、不愉快そうにまたすぐに前に向き直った。

 だが、老紳士だけは「えっ、えっ?!」と、舞台とその入ってきた人物を忙しなく交互に見つめている。

 男は老紳士に言う。

「何を慌てているんですか」

 物語は中盤に差し掛かり、妖しい音楽と共になまめかしい演技をする悪女が現れる。

「えっ、だって、そんな、今、舞台の上に……」

 男はうろたえる老紳士の手首を強くつかんだ。眼鏡越しの鋭い眼光が光る。

「一体、何を言ってるんですか」

 一言ずつ、強調して言う。

 その言い方に、老紳士は意味を理解しハッとした。

 扉から入ってきた人物、それは、下ろした長髪に袴姿の普段の椿月だった。

 舞台の上に出てきた悪女役の女優は、この間の女優・椿月と同じような衣装だが、喋りだすと声が全然違う。この劇場でこの役を演じているのは椿月だけではない。代われる役者もいる。

 老紳士の失敗は、入ってきた椿月を見て驚いてしまったことだ。

 多くの観客たちはただの一般人だと思い、無視してすぐに観劇に戻ったのに、老紳士だけが慌てふためいていた。

 それは、この袴姿の彼女が、女優・椿月であると知っていなければできない反応だった。普通の観客が、椿月の素顔を知っているはずがないのに。

 そしてこれだけの反応を見せてしまえば、言い逃れることはもうできない。

「彼女のこの姿を知らなければ、夜に誰かと帰っているところなど目撃しようがないんですよ」

 男がそう言い切ると、すべてを認め、諦めたように老紳士は脱力した。

 入ってきた椿月のそばで入り口の係員に扮していた、館長の要請で来ていた警察官が、老紳士を拘束する。

 最後に老紳士は一言こうこぼした。

「……すまなかった。行き過ぎていたのは分かっていたが、自分でも止められなくなっていた」

 その姿が見えなくなるまで、男は険しく冷ややかな眼差しを老紳士に向けていた。


 平日の昼間で人が少ないとはいえ、この逮捕劇でロビーはざわついた。

 連行した警察官らがいなくなり、ようやく騒ぎが治まると、鋭い眼差しを向けていた彼もやっと気を抜き、椿月のそばに近寄った。

「協力してもらってしまってすみません。怖い思いをさせてしまいましたか?」

 そう尋ねる彼に、椿月は大きく首を横に振る。

「ううん、大丈夫」

 目をパチパチまばたきさせながら、驚いたようにこう言った。

「ほんの少しの会話からこんなことが見抜けたなんて、すごいわね。さっきなんて、まるでいつものあなたとは別人みたいだったわ」

 そして、館長も二人のそばに寄ってくる。

「いや、本当にありがとう、ありがとう。一度だけでなく二度も椿月を守ってくれて。君には本当に頭が上がらないな」

 椿月のことを実の娘のように大切に思っているのであろう館長が、涙ぐみながらそう感謝する。

「まさかいつも舞台を見に来ていたあのおっさんだったとはな。毎日視界に入ってたのに、悔しいぜ。クソ」

 苦々しそうにそう言い捨てるのは、神矢。

 主演俳優にもかかわらず、今日は無理をいって代役を立て、いざという時のためにそばで見守っていたのだ。

「……ま。とにかくこれで色々解決したってことで――椿月、フレンチのフルコースでも食べに行こうぜ」

 ほんの少し前まであんなに苦い顔をしていたのに、あっという間に切り替えて椿月を誘っている。

 これには館長も呆れて苦笑いを浮かべるばかりだ。

 肩にまわされそうになった神矢の手をするりと回避して、椿月はパタパタと手をはためかせた。

「はいはい。あなたへのお礼はまた今度ね。この後は彼にお礼が言いたいから」

 そう言って、「ね?」と、椿月が男の顔を見上げる。

 神矢は肩をすくめながらも、館長の目配せを受けて渋々その場を離れ、二人だけがその場に残った。

 椿月は彼にこう提案する。

「ねえ。この間のお散歩のやり直し、しよっか」

 彼は「はい」と返事した。

 昼下がりの澄んだ空には雲ひとつ無く、小川はいつものように穏やかに流れている。そよ風が、川辺の背の低い草たちを優しくなでていた。

 劇場裏手の人気のない静かなこの場所は、この間は邪魔が入ってしまったけれど、二人がのんびりと話すことのできる場所のひとつだ。

 少し先を歩く椿月の長い髪が、ふわりと風に舞う。

 椿月はそっと口を開いた。

「改めて……、今回は本当にありがとう。迷惑をかけてごめんね」

 椿月は歩きながら振り返って、彼にそう詫びた。申し訳なさがにじんだ声色だった。

 すると男は足を止めて、こう真剣に言う。

「迷惑なんかじゃ、ありません」

 彼女を見つめる目は、何かを伝えたそうに細められている。

「椿月さん。僕では頼りないかもしれませんが、もう少し僕のことを頼ってくれませんか。……頼ってほしいです」

 今まで見たことのない彼の切実な眼差しに、椿月はハッとした。

 そして男ははっきりと告げる。

「貴女に起こっていることを知れないことのほうが、僕はよほど辛い」

 見つめ合う二人の間をゆるやかな風が優しく吹きぬける。彼女の髪がさらりとなびく。

 椿月はびっくりしたように目を見開き、そのあと表情をやわらかく崩した。

「ありがとう……。そう言ってくれて」

 彼女の瞳がうるみ、ほほえんで細くなった目尻をさりげなく指先で拭う。嬉しさに耳の端が赤くなって、それを隠すように背を向けた。

「えへへ……。そんな風に言ってもらえるなんて、私って幸せ者ね」

 そう照れたように笑って、前にゆっくり足を踏み出した時。

 彼女が「あっ」と思った時にはもう、後ろから覆いかぶさられるようにして、彼の腕の中に抱きすくめられていた。

 一気に紅潮する頬。心臓の音が直接伝わってしまいそうなゼロの距離に、椿月は息が止まってしまいそうだった。

「――椿月さん。お願いがあります」

 耳元から伝わってくる、彼の切ない声。

「……神矢さんと二人で食事に行くのは、やめてもらえませんか」

 何を言われるのかと緊張していたのに、まったく予想だにしないことで少し拍子抜けしてしまう。

「どうしたの、急に……」

 ドキドキで声が震えないようにしながら、そう尋ね返す。

「僕の勝手なわがままだとは分かっていますが、どうしても嫌なんです」

 ぐっと彼の腕に力がこもるのを、椿月は体で感じた。

「今の僕では、貴女をそんなところに連れて行くことはできませんが、これから努力しますから……」

 きつく抱きしめる彼の腕にそっと手を重ね、椿月はふっと笑った。

「……もう、バカね。何言ってるのよ。初めから行くつもりなんてないわ」

 椿月は彼の頭に手を伸ばし、細い指先を彼の髪に触れさせる。そのままなでるように優しく毛先をすいた。

「あの人はいつも誰にでもあんなことを言ってまわってるの。不安にならなくて大丈夫だから」

 彼女はそう笑い飛ばすけれど、彼から見ると神矢はとても冗談で言っているようには見えない。

 彼の心のもやもやを感じ取ったのか、椿月はもう一度言葉を重ねた。

「行かないわ。約束する」

「はい……」

 優しい声色でつむがれる彼女の言葉に、彼はようやく安心できたようだった。

 しかし、まだ彼はその腕を離さない。

「あと……もうひとつ、お願いがあるんですが」

「なあに?」

 彼は意を決して、ずっと気にしていたことを一つ、お願いした。

「……僕のことを、名で呼んでくれませんか」

 彼自身も驚くくらいにずっとモヤモヤと気にしていたこと。神矢と椿月が親しげに名で呼び合う度に、胸がチクチクと刺激されていた。

 彼女もまさかそんなことをお願いされるとは思っていなかったようだったが、

「う……うん、分かった。これからはそうするようにするわ」

 と、どぎまぎしながら小さくうなずいた。

 でも、彼は更に言う。

「できれば、今すぐ、がいいんですが」

「えっ……今?」

 びくっと驚く椿月に、彼は「はい」と答える。

 椿月は、背後の彼に伝わらないようにしながら一度深く呼吸して鼓動を整える。

 そして、口を開いた。

「……誠一郎さん」

 彼女の鈴の音のような声が、彼の――誠一郎の、鼓膜と心を揺らす。

 その余韻を味わうような時間が幾許か過ぎる。

「……ありがとうございます。もう、大丈夫です」

 誠一郎は腕の力を抜き、彼女の体を離した。

「あ、うん……」

 椿月が乱れた髪を整えながら彼に向き直ると、自然と見つめ合うような形になってしまう。恥ずかしくてお互いサッと視線を逸らした。

 つい先程まであんな風に抱きしめられていた、抱きしめていた相手が目の前にいるということが、どうしようもなく気恥ずかしい。

 椿月は心の中でうろたえながら思う。女優の椿月としてだったら、もっと笑い飛ばしたり、からかうことだってできるのに。

 二人の間を妙な空気が流れはじめた時。誠一郎が、眼鏡のブリッジを押さえつつ、うつむきがちに、申し訳なさそうにこう言った。

「すみません……。普通の男性ならきっと、こういうことをもっと上手くやるんだと思うんですが……」

 困り果てた彼が、照れている。

 いつも何事にもあまり大きな反応を示さない彼のその頬が、ほのかに赤みを帯びていた。

 その珍しい光景をとてもかわいらしく思った椿月は、自然と笑みがあふれてくるのを感じた。

「別に、あなたがそういうことに達者な人だなんて思ってないわよ」

 そう優しく言ったあと、

「それに、私はそんなところに男の人の価値を置いてないから。ね?」

 とほほえんで、彼の瞳をまっすぐ見つめた。

 普段の彼女だって十分に悪女だ。無垢な笑顔を見つめながら、誠一郎はそう思った。

 その後。

 誠一郎は二作目として、恋愛を題材にした作品を発表した。

 ごく普通の青年が身の程の違いすぎる人気女優に恋をしてしまい、苦悩したり、彼女に好かれようと努力を重ねるという、どこかで聞いたような話。

 男性作者らしからぬ繊細で美しい心理描写と、恋に苦悩する男性の心理が如実に表現されているということで、特に女性に人気が出たようだった。

 椿月には以前より「読ませる自信がある作品ができるまで読まないでほしい」と約束してあるし、彼女がそういう約束を隠れて破るような人ではないことは分かっている。けれど。

「いやー。まっさかあんたが小説家だったとはなー。なぁ、深沢(フカサワ)誠一郎センセイ?」

 目の前で自分の新刊を読んでいる、神矢。

 劇場で椿月のことを待っていたら、急に彼の楽屋に呼び込まれたのだ。

「俺、あんたのデビュー作読んだことあるんだよ。そうしたら椿月にしつこく感想を訊かれて。素直にほめたらニッコニコしてたぜ。ちくしょー、正直に言わなければよかった」

 神矢は見た目こそ常人離れした美形の俳優だが、ささいなことで大げさに喜んだり悔しがったり、中身はごくごく普通の人間であることを、誠一郎は最近になって分かってきた。それに親しみを覚え、最初にいだいていた敵対意識みたいなものもすっかり溶解した。

 だが。

「『私が好きになったのは女優としての貴女ではない。女優を演じる貴女に惹かれたのだ』ね……」

 本をパラパラとめくって、自分の書いた文章を音読される。

 これは本当にやめてほしい。誠一郎は赤面を禁じえない。

 この本の内容も、神矢は「その方が面白そうだから」と椿月には話さないでいてくれるそうだが、これから会うたびずっとニヤニヤされるだろうなということは察しがつく。

「まぁ……色んな意味で、頑張れよ。これからもあんたの本、読んでやるからさ」

 ニヤッといつもの笑みを口元にたたえ、神矢は言う。

 誠一郎はありがたいと思う気持ちと、あまり読んでほしくないなという気持ちが入り混じり、「はい」とだけ答えて済ませる。

 すると、神矢は話題を変えた。

「まー、あれだ。あのおっさん問い詰めてる時のあんた、結構怖かったからな。実は本気で怒らせると怖い人なんだろうから、椿月に手を出したりはしない。安心しな」

 これまで自制心を失うほど怒った記憶などないのだが、神矢がそうしてくれるというのなら、誠一郎は黙ってそういうことにしておいた。

「あ。手は出さないが、飯には誘うけどな」

「えっ。そ、それは……」

 神矢の言うことはよく分からない。それは、誠一郎からすると手を出すこととほぼ同義になると思うのだが。

 誠一郎が戸惑っていると、楽屋に舞台衣装の椿月がやってきた。

「もう、こんなところに居たの」

 待っていたはずの彼がいなくなっていたので、探していたようだ。誠一郎は「すみません」と軽く頭を下げる。

「悪いな、深沢センセイ借りてたぜ」

 神矢が椿月にひらひらと手を振る。

 すると。

「あっ、新しい本!」

 椿月は神矢の手元に誠一郎の新刊を見つけたようだ。

 すぐに誠一郎の腕にひっつく。

「ねえ、誠一郎さん。まだ読んだらダメなの?」

 子猫のような瞳で上目づかいにねだるようにして、甘い声色で自分の腕にすがる椿月。

 目の前でニヤニヤ見つめてくる神矢。

 その手には、自分の心情を思い切り吐露し、投影している新作の本。

 誠一郎は思った。ここから逃げ出したい、と。

 夏雲が覗く開け放たれた窓からは、蝉の音が聞こえていた。

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 私はなぜ彼女に惹かれるのだろう。きっと、明確に定義して口に出せる理由なんてないんだと思う。

 美しいから、優しいから。

 こうだから、という理由を無理につければ、それではそれがなくなってしまったらもう好きではないのかといったら、決してそうではない。

 空気に惹かれる。雰囲気に惹かれる。

 あいまいに感じられるかもしれないが、存在自体に惹かれるということが理由であってもいいではないか。

 好いたあなたが美しく、優しかったのだ。

 好意はそれらの要素に起因することではなく、私にとっては付随でしかない。

 彼女が彼女であることを、一番近くで見ていたいと思う。

 世の中がそれを恋と定義するのであれば、きっと私にとっての恋とはそういうことなのだろう。

(深沢 誠一郎 「恋情語り」より抜粋)

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「文字は口ほどに物を言う」<終>



【作品情報】
・2017年執筆
・短編連作 全7エピソード
・本作のショートボイスドラマを制作いたしました。 リンク先にてご視聴いただけます。

⇒episode3「夏の手紙」

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