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閃光の極点、あるいは連鎖する閃光
2024/02/17~2024/06/10
テレビ東京開局60周年連続ドラマ 2024年4月期ドラマプレミア23『95』
広重秋久/Q役
ああ、ぎらぎらしている。髙橋海人さんを見ていて、そういうふうに思うことがあります。
たとえば、圧倒的な何かに触れて大きな瞳が一際輝くとき、心から濾しだされたような言葉が鮮烈な未来を描くとき。目の前の誰かを幸せにしようとするアイドルの眩い煌めきの中に、烈しく火花が散る瞬間。髙橋海人さんがその全身でもって、負けたくない、と叫んでいるように感じられることがあるのです。
その種の感情は往々にして、打ち破りたい相手に差し向けられるものだと言えるでしょう。それはときに、自分と他者の間に線を引き、向こうがわを敵と呼ぶことをも伴います。ぎらぎらとした光は多かれ少なかれ、誰かを刺しうる棘と化す可能性を内包しているのでしょう。
けれど海人さんの発露する閃光はこのうえなく鋭いものでありながら、不思議としなやかさを失わないのです。尖っていることと柔らかくあることをこれほどまでに美しく調和させてみせるひとを、私はほかに知りません。
負けたくない。海人さんのそれはおそらく、闘争心ではあっても敵意ではないのではないでしょうか。
自分はもっとできるはずだと涙を流したのも、自分を磨く努力ならいくらでもできると言えてしまうのも。多数の人間の目を惹くセンスとスキルを備えながらどことなく「たりなさ」を抱えているのも、単一の選択しか認められないような世界で何ひとつとして諦めない道を探し続けているのも。柔和な印象を突き破るようにしてときおり現れる海人さんの烈しさの片鱗、そのすべてが向かう先はいつでも、ほかならぬ彼自身であるように見えます。彼の覗かせる鋭利さの正体がそういうものだとするなら、それはやはり、棘のような敵意とはまるで違っているのでしょう。
常に自分自身を究極の壁と見定めて、のりこえるために自分自身を磨く。今の自分に打ち克っては、また次の瞬間における「今」の自分と闘う。自分を対象とする闘争心、絶え間ない克己の心とも言い換えられるもの。それこそが、紛れもないアイドルの輝きの内にぎらぎらとした光を矛盾なく共存させられることの、そしてどんなに尖っていても他者に対する柔らかさを保っていられることの、ひとつの所以なのではないかと思います。
負けたくない、勝ちたい、克ちたい。ほかでもない、今この瞬間の自分自身に。
海人さんのそういうありようは、ドラマ『95』において彼自身が生きてみせたQの姿に、重なっているようにも思われるのです。
自分自身に腹を立てている。彼が何かと闘う時、ある意味で、そこに敵は存在しない。立ちはだかる誰かと相対していても、彼が向きあっていたのはいつだって自分自身だったのではないでしょうか。怒って、泣いて、走って、殴って、闘う。そうやって変わることを恐れたあの頃の自分を、動けなくて耳を塞いだあの夜の自分を、正しい未来を選べなかったあの夏の自分を、己が足で踏みこえていくために。
未来は、僕等の、手の中。King & Princeの歌うその詞は、そんなQの心を映し出しているように思います。
読み方によっては、どこまでも自由で眩しい歌詞です。輝かしい明日を握りしめて前だけを見据える若者の姿を、思い浮かべたくなるような言葉です。けれど、1995年の日本にあってQたちは果たして、そのような自由で眩しい若者だったと留保なく言えるでしょうか。目の前を塞ぐ予言、ずれた世界に軋む倫理、ひとを窒息させる力の跋扈、見えそうで見えないこの世の底。思うように夢を描くことのできない時代において、どうすれば彼等の未来は「手の中」のものであり得たでしょう。常に何かに揺らされて、煽られて、悪意に呑まれる危険と隣あわせ。何が光で何が闇なのかも曖昧で、自分の心の置き所は定まらない。Qたちが生きた時代は、きっとそういうものだったのではないでしょうか。
それでは、この歌詞をいかに解せば良いのでしょう。
未来は僕等の手の中、続く言葉は、「今だけを生きていたい」。つまり、今しかないのです。今この瞬間の自己を乗り越えて、影のない自由があり得ない世界で、未来が彼等にとって「僕等の手の中」のものであり得るとしたら。大事なひとたちを欠くことなく、世界の終わりの先まで駆け抜けてゆく。ただそれだけを賭けて今の自分に打ち克ち、行く手を阻む闇は1995年の中に取り残して、そして次の「今」へ。そうやって自分自身に負けることなく、強く生きようと走り続けたQ。その未来は、自分が生きる「今」この一瞬の連鎖としてのみ想像されます。「今」という瞬間に閉じ込められた自分自身を絶えず乗りこえていくことでしか、掌の上に留め得ないものとして。
『95』のラストシーン、仲間たちとともにある「今」。血に塗れたあの夜の底では想像すらできなかったような眩しいそれはたぶん、ただ対峙する他者を倒しただけでは得られなかったでしょう。変わろうともしなかったかつての自分をはるか遠くに突き放し、今の自分から更に先へと進んでゆくための闘いに打ち克ったことではじめて、それはQたちにとって「僕等の手の中」にある未来となり得たのでしょう。
海人さんの見据える未来は、きっとそれに似ています。RPGのように敵を倒して勝ち得る栄光ではなく、自分自身に克ち続けることでいずれひらかれる地平。そのようなものとして未来を描くひとであるがゆえに、彼はぎらぎら光る克己心をもち続けながら、矛盾なくあかるい笑顔で圧倒的な煌めきを纏うことができるのではないでしょうか。
ひたむきに「今」を踏破してゆくその道程の先で、彼自身が望むままの未来、究極的な到達点としてのそれを手の中におさめる瞬間がいつの日かくるのなら。そのとき閃く光は、どんなにか目映いことでしょう。夢を見るような心地でそう思いつつ、けれどもしかしたら、髙橋海人さんであればそうした極点ですら軌跡の一部にかえてどこまでも駆けていってしまうのかもしれない、という気もするのです。