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芥川龍之介のオタク、東京を歩く


 7/24に東京に行った。
 その時のことを書こうと思う。

 まず事前情報。
 7/22、新幹線が止まってしまった。

JR東海によりますと、22日午前3時半ごろ、東海道新幹線の豊橋駅と三河安城駅の間の上り線で、線路に敷くための石を積んだ保守用の車両が基地に向かって走行していたところ、前で停車していた別の保守用の車両に追突し、双方の車両が脱線しました。

NHKニュース防災より

 この脱線によって22日は丸一日運行が停止されてしまった。22日夜時点では23日の運行の見通しも出ていなかった。

 新幹線が止まったことに私は焦った。新幹線で行く予定だったのだ。そりゃ焦る。もちろん豊橋駅と三河安城駅の間も通る。
 7/24の14時にはどうしても東京にいなきゃいけない。なぜかというと、田端文士村記念館で行われる特別講演会「書斎“澄江堂”を大解剖!─芥川龍之介の書斎再現に向けて―」の抽選に当たったからだ。

 募集人数は100名。たったの100名の中に入り込めたのだから、当日行けなくなっては困る。(講演会当日に知ったけれど、応募者は400名にものぼっていたらしい)
 そういうわけで夜行バスを予約した。新幹線で12:00頃に東京に着く予定だったのが、夜行バスだと東京に朝7:00にはついてしまう。
 まぁでも講演会に間に合わないことに比べたらなんてことない問題である。

***

 夜行バスに乗り、バスタ新宿へ到着。時間の有り余る朝、東京に着いてまず向かったのは染井霊園。芥川龍之介のお墓があるところ。
 行くか迷ったけれど、せっかく時間があるので行くことにした。行って正解だったと思っている。というか、今後は関東に行けそうな機会があればねじ込んででも行こうと思っている。それくらい良かった。

 さて、染井霊園まで来たはいいけれど芥川のお墓がどこにあるのかわからない。地図があったので手に取ってみたものの、方向音痴なのでまるでわからない。
 蝉の鳴く中を歩き回ってようやく辿り着いた。

 案外こじんまりとしている。
 もう少しお花とかお供えとかがあるのかと思ったけれど、早朝(7時過ぎくらい)だったからか、どちらもあまりなかった。持っていけば良かった。

 墓前に手は合わせてみたものの、正しい墓参りの知識がない。芥川はあの世でも忙しいと思うからこんな小娘を気にかけている余裕はないだろうけど、万が一にも芥川に見られていたらと思うと恥ずかしい。

 すぐに去ろうと思ったけれど、なんだか名残惜しくなってしまった。
 朝が早かったせいか誰もいない。だから許されるだろうと思って、しばらく居座らせてもらった。お墓があるってことは本当に生きてたってことだよなあ、と思ったら、なんで死んじゃったんだろうと悲しくなった。
 死から逆説的に生を思い浮かべるんだから、人間って不思議だ。

 まだ羽のぱやぱやした若いカラスが口を開けて垣に止まっていて、暑いよねえと思ったら私も汗が吹き出してきた。私はまだ死にたくないので、体を冷やすためにここらで切り上げることにした。


 この後、ファミレスで時間を潰しつつ酒を飲んだり駅で迷子になったり改札を無駄に出たり入ったりしたけれど、割愛する。

 私は荷物を両手いっぱいパンパンに抱えていたので、一旦田端のロッカーに荷物を預けることにした。
 田端に行ったついでに天気の子の聖地である田端南口の写真をパシャリ。

 紫陽花が咲いていたらめちゃくちゃ綺麗なんだろう。私は天気の子を一回しか見ていないのだけど、見ると案外すぐに「あ、ここだ」とわかって楽しかった。
 晴れていたからか、田端南口からスカイツリーがかなり綺麗に見えた。

 田端駅周辺探索中に、芥川関連のポスターが3枚貼ってある掲示板を発見。

 田端文士村記念館さんが過去に「3つ貼ってある掲示板を見たらいいことがあるかも」とツイートされていたことを思い出してにっこりしてしまった。

 記念館さんの撮られてる写真とは違う掲示板っぽい。あらゆるところに芥川が潜んでいる北区という場所が羨ましい。住みたい。坂多いけど。


 12:30頃、いよいよ旅行のメインである田端文士村記念館に到着。

 私が記念館についた少し後くらいから、大雨が降り出していた。雷もピカゴロしていて、雨が降り出す前に記念館に到着していて良かったと思った。

 文士村記念館の展示は「友情から生まれたもの」のタイトル通り、田端の作家たちの友情にフォーカスしていて、見ていて楽しかった。
 個人的には室生犀星と芥川龍之介の友情を紹介するコーナーに置いてあった九谷の鉢が良かった。

文士村記念館のパンフレット
「ココミテシート 書斎編」より


 これは芥川の『野人生計事』の中にも出てくる鉢で、私はちょうど旅行の直前くらいにこれを読んでいたので個人的にアツかった。

或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸からくさの寂びた九谷くたにの鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云つた。
「これへは羊羹やうかんを入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである)まん中へちよつと五切いつきればかり、まつ黒い羊羹やうかんを入れなさい。」

芥川龍之介『野人生計事』より

 私は室生犀星のことはあまり知らないのだけど、芥川に鉢をあげて「羊羹をいれなさい」と言ったり、友達(萩原朔太郎)が攻撃されると思って椅子をぶん回したり、兄貴肌というか、面倒見たがりというか、かなり面白い人だなと思っている。

室生君が卓の遠く離れた地位に居た爲に、私と岡本君との問答してゐる光景を見て、何か私が不當の暴行でも受けてゐるやうに見誤り、友人の一大事として決死的に突進して來たのである。

萩原朔太郎『中央亭騒動事件(実録)』より

 ちなみに芥川はこの事件を聞き、室生犀星に手紙を書いている。

敬愛する室生犀星よ、
椅子をふりまはせ 
椅子をふりまはせ

馬込文学マラソンさんのHPを参考にしました
https://designroomrune.com/magome/daypage/05/0511.html

 煽りすぎだし、やや犀星を馬鹿にしているし、愛に溢れている。ニヤニヤ笑いながら書いている様が想像できて良い手紙だ。

 この犀星と朔太郎、そして芥川の手紙についても田端文士村記念館の展示で触れられていた。私は芥川が好きなのでやっぱりそちらにばかり気が向くけれど、犀星と朔太郎の関係が好きな人もすごく楽しめる展示だったと思う。


 講演会自体は「書斎"澄江堂"を大解剖!」の副題にふさわしく、芥川の執筆場所であった書斎の間取りや愛用品などについてが多かった。
 お話を聞いていて、私が思っている以上に芥川って夏目漱石の影響を受けているというか、ミーハー的というか、オタク的な感じで漱石が好きなんだなあと思った。

 私の記憶違いや勘違いじゃなければ、芥川が漱石から影響を受けて決めたものは、

・文机
・ペン皿
・原稿用紙
・お墓の形
・全集の出版社

 などがある。
 それぞれ、

・漱石と同じ紫檀の文机
・漱石と同じ竹箕を使ったペン皿
・漱石と同じ半ペラ(400字詰め)の原稿用紙
・生前使っていた座布団と同じ面積のお墓(漱石のお墓は安楽椅子の形)
・遺書にて漱石と同じ岩波からの全集出版社を希望

 こう列挙してみると、作家として重要なもの、あるいは人として重要なものをかなり漱石に依って決めているような気がする。今回の講演会を聞いて、芥川って相当漱石のこと好きだったんだなあと思った。


 講演会終了後、一旦宿に荷物を置いて、神谷バーへ向かった。BlueSkyで相互さんにおすすめしていただいたお店である。

 神谷バーは明治時代から続くお店で、浅草の下町風情を残した「庶民の社交場」を自負している。店内は姿勢良くキビキビ動く店員さんと、ほろ酔いの気持ちよさそうなお客さんに溢れていた。

 有名なのは写真右側に写っている琥珀色をした「デンキブラン」というカクテルで、なんと度数は30度。私はお酒がそこそこ強い。だからいけると思ってストレートで飲んでみたら、喉が焼けるかと思った。度数が高いのにすごく甘くて、喉がピリピリ痺れる。面白いお酒だった。

 神谷バーは明治からずっと「庶民の社交場」として機能しており、だからこそさまざまな文学作品に名前が登場している。

一人にて酒をのみ居れる憐れなる
となりの男になにを思ふらん

(神谷バァにて) 萩原朔太郎

これは大正初期、朔太郎が二十代の時に詠んだ歌です。
店内のざわめきをよそに一人静かにグラスを傾ける朔太郎、さぞやデンキブラン(当時は電気ブランデー)が胸深くしみたことでしょう。

神谷バーのホームページより引用
http://www.kamiya-bar.com/denkibran.html

 私は1人で行った(庶民の社交場なのに……)ので、奇しくも朔太郎と同じ状況で神谷バーを過ごしたということになる。
 1人で行ってもそれはそれで趣があって良かったけれど、今度は友達か家族を連れて行こうと思う。賑やかな庶民の社交場に女1人は、なかなか切ないものがあった。「憐れなる」と言った朔太郎の気持ちもわかる。


 神谷バーで無事ほろ酔いとなったので、散歩がてら隅田川を眺めることにした。

 隅田川といえば芥川でしょう(私調べ)

 芥川作品で隅田川と言えばやはり『大川の水』を思い浮かべる人が多いと思うけれど、芥川は基本川が好きなのでそれ以外の作品にもかなりの頻度で川が出てくる。もちろん隅田川(大川)はめちゃくちゃ出てくる。
 青空文庫サーチで作家を芥川に絞って「大川」と調べてみると、それだけで17件出る。「隅田川」でも5件。

 講演会の中で、芥川の書斎の屋号「澄江堂」は隅田川の(すみ)の部分と(澄み)を掛けて名付けたんじゃないか、という説があると聞いた。
 命名理由の真偽はどうあれ、後世の人から「書斎の名前を隅田川から取ったんじゃないか」と思われているのは事実である。芥川はそれくらい隅田川が好きなのだ。

 私も川が好きなので、眺めながら歩くとそれだけで楽しかった。隅田川は潮の匂いがして、波の形も海っぽかった。クラゲもいたし。

ゴミじゃなくてクラゲです

 芥川の書く隅田川は「どんより」としていたり「濁って」いたりすることが多いけれど、実物を見てなるほどと納得した。
 海に近いから水の流れる速度が緩慢で、だからこそ停滞感がある。ゆっくりと動く波が重そうに見えて、だからこそ屋形船が波を割っていく様はなかなか迫力があった。


 24日はこれにて終了。
 翌日は宿をチェックアウトしてから、ちらっと芥川の文学碑に寄る。

 文学碑が黒くてピカピカなので、写り込みを避けるとこの変な角度からになってしまった。
 ガッツリ道端だったので、その時は写真を撮って「ヨシ!」と思ったけれど、今改めて見てみると、なんで杜子春なんだろう……この「芥川龍之介」の字は芥川のものなのかしら……など、じわじわ知りたいことが湧いてくる。

 文学碑に限らず、この旅行を経て知りたいことがたくさん増えた。
 デンキブランが出てくるという芥川作品『十円札』もまだ読んでいないし、澄江堂の間取りだってまだちゃんと把握しきれていない(私はとんでもない方向音痴なので空間の把握も苦手)し、隅田川の出てくる『大川の水』だってもう一度読みたいし……。

 もちろん新しく増えた知識もたくさんある。むしろ、知識が増えたからこそ知りたいことが増えた。


 大人になってから、仕事とかに関係なしで知りたいことがたくさんあるって贅沢だと思う。
 そう考えると、人生が贅沢になる良い旅だった。

 また近いうちに田端に、隅田川に行きたい。そう思える楽しくて最高の旅だった。


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