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「ミッドナイトスワン」これを感動するということはない私。結局、昭和のゲイ世界から何も変わってないじゃない。ゲイも、美しく踊れなくちゃダメでしょ…。
ネットを覗くと、観た方の多くが肯定的な感想であるようだ。LGBT関係の映画は、前から書いているように、私は本質的に苦手である。そこに彼らの未来が見えなければ意味がないと思う。向こう側から言わせれば、ノンケには理解できないことが多すぎるし、こんな汚いゲイばかりでもないでしょと言いたいのではないか?ゲイの撮った、未来に向けた映画が必要だと思う。
一人の孤独なバレエ少女と、本当の女になるために必死でもがくゲイの男の交流物語。映画の骨格はそれなりにちゃんとできているが、全く出ている人物たちに私はシンクロできなかった。だから、この話で私が涙をこぼすことなどないのだ。
私だって、小さいところから虐められ、馬鹿にされて生きてきた。だけど、ゲイには、ずっと違和感がある。別に差別をする気はないが、気持ちよく話せる人ではない。それはそれで、それぞれに生きていけばいいのだと思う。お互いに関わりないように生きることで問題は起こらない。もちろん、ここにあるように関わらなければいけないこともある。そして、ゲイの男と少女が何か惹かれ合うようになるのは、少しはわかる。でも、それだけだ。
そして私は、ここに出てくるようなショーパブに対して楽しめる人でもない。こういう場でオカマ、オカマ、とある意味下に見ながら楽しむ輩も知っている。そういう人間は、自分が真っ当であることを誇るためにそこに行って楽しむように感じた。だから、商売になる部分もあるだろう。
この映画に対して、ゲイを描いた話ではないと話す人もいるようだ。主人公の草彅剛に人間の本質的な弱さと心の美しさを見ろとでもいうのだろうが、それなら最後に外国で手術するシーンや、おむつが変えられないシーンなど描く必要はないだろう。男に身体を売ろうとするシーンなど見ていて吐きそうになる。(だから、よくできた映画という人もいるだろうが、趣味が悪い)ある意味、こういう刺激が、もう一人の主人公の少女(服部樹咲)の成長と成功の物語と真反対であることで、世の中のバランスの悪さみたいなものも表現しているのだろうが、映画として美しくはない。
草彅剛の演技に関しては、よくやっているが、美しく見えるシーンがないのがきつい。あえて言えば、バレエの先生が「お母さん」と読んだときの顔だろう。それ以外は、悲しくも辛い顔をしている。そして、それほど多くの顔がそこに見えてくるわけでもない。メイクが邪魔している気もする。彼は、報われないながらも、自分を生きる男をそれなりに演じているだけであるのだ…。
そして、映画を引っ張っているのは、服部樹咲の方だろう。虐待されながら生きてきた彼女が、バレエに興味をもち、(このバレエに興味を持つきっかけがよくわからないが)先生に見出され最後は留学までしてしまうシンデレラをきっちりと演じている。最後のバレエシーンは圧巻だ。「この娘があの子?」と思わせる流れの演技を作るセンスがある。バレエシーンはそれをできる子を連れてきたのだから、できて当たり前だ。最初の方の無口で世の中に馴染めない役ができていることに凄みを感じる。
二人の演技の交錯だけで、多くの観た方はは感動しているのだろうか?ショーパブの他に、汚い親父が集まるオタク写真会などいらないものが多く出てくるし、友人が屋上から飛び降りるようなシーンがあったが、あれはなんだったの?
結果的に、草彅が、服部の心のお母さんだったということだったら、やはり草彅を死なせたらダメでしょう。草彅も、現代の成功者としてLGBTの人々に勇気を与えるべきだと私は思う。ミッドナイトスワンが、朝の白鳥になるようにならなくては、観ている方の生きる力にはならない。全編に漂う昭和の古臭い日本映画的な臭いがとても私は嫌だった。確かに令和の今の状況は、そこに近いのかもしれない。でも、こんな映画で人の心を語る時代でもないだろうと思うのですよ。