ジブリアニメ「君たちはどう生きるか」考察の断片(ネタバレアリご注意)

一回鑑賞しただけの記憶の断片。
あのこの世とあの世のあわいの世界で、奈津子は本音を吐き出す。「おまえ(真人)なんて大嫌いだ」と。真人は返す「おかあさん。奈津子かあさん」。そしてともに自分たちの世界に帰ろうと手を伸ばす。
真人は奈津子さんが好きなのと問われるたびに、「お父さんが好きな人だ」と答える。このやりとりは二回も重ねられていた。
大嫌いでも、理性をもって真人に優しく寛大に接する。母として真人を愛そうと努めているのが奈津子だった。
奈津子に心を開かず、死んだ母を思慕し続けている子どもが真人だった。
でもあの世界で奈津子のこぼれた本音を浴び、それでも奈津子の存在が元の世界に必要なのだと理解した真人は、奈津子の手をとり、この世に還ってくる。

最後のカットはたいへんに象徴的。新しい奈津子とその家族はもう支度を済ませて三人で玄関で待っている。
遅れて部屋を出た真人を。真人はひとりだ。
でも、奈津子と弟は、真人を見上げている。
あの三人の血のつながった家族の中では、真人は異質であり異物だ。
それが三人の塊と階上にたつ真人のカットで示される。
真人の感じる疎外感なんじゃないか。
でも、奈津子と弟がこちらを見上げている。
迎えにはこなくても、彼らの集団には入れなくても、でも彼らなりにつながろうとしてくれている。
そして真人はもう奈津子の本音も知っている。
そのうえで、帰属する集団として、家族の中に歩いていく。
自分の足で、歩いていく。
最後の、あの、母からの言葉が記された本を見つけたあの部屋から出ていくのは母親からの自立を示すものでもあるだろう。

ひみ、と呼ばれた少女の姿の母を、多分真人は母として愛し少女として愛す。
しかしひみは、真人を生むために、元居た自分の世界に還ることを選択する。あっけらかんとしたその強さ。優しさ。明朗さ。
母が大好き、という気持ちを抱きしめて、真人は自分の世界に帰ってこられた。だから、あの部屋からも、現状からも、歩みだすことができた。

これは、少年の自立の物語だ。

強く、善だけでも悪だけでも、愛だけでも憎しみだけでもなく、入り交じる濁った存在として、すべてのものが混とんとして入り交じるこのどうしようもなく雑然とした最低であり最高である淀みの中を歩いていく。
そんな物語だ。
宮崎アニメの軽快な動きや明るい色合い、かわいらしくも美しいキャラクターと世界が、ちっとも美しくない世界を包み込み届けてくれる。
だから、顔をしかめることなく覗き見ることで本質にちょっとだけ触れられるのだ。この世界のくだらなさ醜さ、それゆえの愛しさに。

追記
鑑賞してから2週間が経とうとしている。
「地球儀」をヘビロテしながら、映画を思い出す。
ヒミは最後、元の世界へ戻ることを選んだ。
それじゃあ、火事にあって死んじゃうと心配する真人に、「大丈夫、火は怖くない」「真人を生むために帰る」と言って扉へとびこむヒミ。
たった1回見ただけで時間も経っているので記憶の確かさは自信がないが、でもこんなやりとりはあったと思う。
そしてそれが、「真人」の存在を全肯定する力強い言葉と思いであることを今更ながら思う。「地球儀」を聴きながら思う。
母は自分の命より真人を選んだのだ。そして火なんて怖くないと笑いながら真人の心配も蟠りも吹き飛ばしたのだ。
元の世界でどんなことがあろうとどれほどの苦難に見舞われようと、どんな寂しいことがあろうと、真人には自分の存在をそうやって「遠くから」包み込み背中を撫でてくれる存在がいる。それを真人は自分の想像だけではなく伝聞でもなく、自分自身のすべてで知った。
だからきっと強く生きていける。
ああそう考えたら、これは母と子の物語でもあったのだなあ。


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