太平記 現代語訳 21-4 後醍醐天皇、崩御
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝(よしのちょう)年号・延元(えんげん)4年(1339)8月9日より、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は病の床に伏すようになった。
その後、病状は次第に悪化、薬師如来(やくしにょらい)を祈っても効験は無く、いかなる名医の処方をもってしてもその効果は現われない。命の燈火は日々に細り、崩御(ほうぎょ)の時がいよいよ迫ってきた。
忠雲僧正(ちゅううんそうじょう)は、天皇の枕辺に参り、涙を押さえていわく、
忠雲僧正 伊勢神宮(いせじんぐう)のお山にも、再び花開く春は来る・・・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の流れも、いつかは澄みわたる時が来る・・・仏も神も三宝(さんぼう:注1)も、決して陛下を見捨てられる事は無い・・・そのように固く信じて、この忠雲、今日まで生きてきたのですが・・・。
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(訳者注1)仏・法・僧。
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忠雲僧正 「陛下のお脈がついに乱れ始めた」と、医療チームのリーダー(注2)が、驚いて私に言うてきましてな・・・。
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(訳者注2)原文では「典薬頭(てんやくのかみ)」。
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忠雲僧正 陛下、今となっては、なにとぞ・・・なにとぞ、陛下・・・(涙)、十善の天子の位をお捨てになり、成仏に至る悟りの道に赴かれます事をのみ・・・どうぞ、お覚悟をお定め下さいますように・・・(涙)。
後醍醐天皇 ・・・。
忠雲僧正 経文には、こう説かれてございます、「人間、いまわの際の最期の一念に応じて、生まれかわる先の世界が決まる」と・・・。ご崩御の後の事とか、お気がかりなこと、なんでもけっこうです、一つ残らず今ここで、おおせ置きくださいませ。その後は、どうぞ、ご成仏の事のみ、お念じくださいますように・・・(涙)。
後醍醐天皇 ・・・(ハァー)(苦しそうに)。
忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・「妻子、珍宝は・・・言うに及ばず・・・王位さえも・・・命終える時に・・・臨んでは・・・(ハァー)・・・身に随える・・・事なし・・・(注3)」・・・まさに如来の・・・金言・・・わしはいつも・・・肝に銘じてきた・・・。
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(訳者注3)原文では「妻子珍宝及王位 臨命終時不随者」。
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忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・秦(しん)の穆公(ぼくこう)・・・三良臣の・・・殉死・・・秦の始皇帝(しこうてい)・・・宝玉といっしょに・・・埋葬・・・そないな事は・・・一切・・・せんでえぇ・・・そないな・・・事は・・・わしは一切・・・してほしぃない・・・(ハァー)・・・。
忠雲僧正 はい・・・。(涙)
後醍醐天皇 ・・・ただ・・・あれだけが・・・心残り・・・あれ・・・だけが・・・。
忠雲僧正 陛下・・・。(涙)
後醍醐天皇 ・・・もう、これは・・・妄念やな・・・死んだ後にも・・・ずっと残る・・・消えへん・・・妄念・・・。
忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・いま思う事は・・・ただ一つ・・・朝敵をことごとく滅ぼして・・・天下を泰平にならしめたい・・・なんとかして・・・なんとかして・・・。(ハァハァ)
忠雲僧正 (うなづく)・・・。(涙)
後醍醐天皇 (ハァハァ)・・・。
忠雲僧正 (うなづく)・・・。(涙)
後醍醐天皇 ・・・わしが・・・逝(い)った後・・・義良(よりよし)を・・・天皇に・・・。
忠雲僧正 はい!
後醍醐天皇 ・・・賢人・・・忠臣・・・みなで・・・義良を助けてな・・・。
その場に集っていた一同 はい!
後醍醐天皇 ・・・義貞(よしさだ)と・・・義助(よしすけ:注4)の・・・。
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(訳者注4)新田義貞と脇屋義助。
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忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・忠功を・・・賞してやってくれ・・・子孫(注5)に・・・不義の行いが・・・なかったら・・・股肱(ここう)の・・・臣ならしめ・・・天下を・・・鎮めさせるんや・・・。
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(訳者注5)新田兄弟の子孫。
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忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・天下を・・・鎮めさせるんや・・・そうや、わが国の全土を平定するんやぞ、わかったな!(ハァハァ)
忠雲僧正 ハハッ!
後醍醐天皇 ・・・。(ハァハァ)
忠雲僧正 ・・・。
後醍醐天皇 ・・・天下・・・天下をな・・・平定・・・(ハァハァ)・・・たとえ・・・たとえ、わしの骨は・・・この吉野の地に埋もれても・・・わしのこの魂は・・・魂は・・・いつも京都の空を見つめてるぞ・・・天下・・・平定するんやぞぉ・・・。(ハァハァ)(注6)
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(訳者注6)この部分の原文は、以下のような格調高い文章である。
之(これを)思(おもう)故(ゆえ)に
玉骨(ぎょっこつ)は縦(たとい)南山(なんざん)の苔(こけ)に埋(うずも)るとも
魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望(のぞま)んと思う
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忠雲僧正 ハハーッ!(涙)
後醍醐天皇 ・・・わしの・・・この命に背き・・・義を軽んずる・・・ような事が・・・あったならば・・・義良かて・・・義良かて・・・わしの後継者とは・・・言えん・・・臣下らも・・・忠烈の・・・臣ではない・・・わかったなぁ・・・。(ハァハァ)
その場に集っていた一同 ハハーッ!(涙)
このように、こと細かく遺言を残した後、左手に法華経5巻を持ち、右手に剣を握りながら、延元4年8月16日午前2時、後醍醐天皇はついに崩御(ほうぎょ)した。
悲しいかな、北極星(注7)は位高くして、その周囲に百官は星のごとく列するといえども、黄泉(よみ)の国の旅路に供奉(ぐぶ)仕る臣は一人も無し。遠く都を離れたこの吉野の地に、万卒(ばんそつ)雲のごとく集まるといえども、無常の敵(注8)来(きた)らば、それを防ぎ止める兵は更に無し。流れの中に舟覆(くつがえ)り、一壷(いっこ)にすがりついては波に漂い、暗夜に燈火消えて未明の雨に向かうがごとし。
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(訳者注7)天皇の比喩。
(訳者注8)死の比喩。
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葬礼に際しては、生前の遺言を鑑(かんが)みて、臨終の際の御形(おんかたち)をそのままに、棺を厚くし、御座(ぎょざ)を正し、吉野山の麓、蔵王堂(ざおうどう)の北東の林の奥に円丘を高く築き、北向けに(注9)埋葬し奉った。
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(訳者注9)吉野の北の方角に京都は位置する。「魂魄は常に北闕の天を望んと思う」の遺言通りにしたのであろう。
後醍醐天皇の陵(後醍醐天皇・塔尾陵)は、如意輪寺(にょいりんじ:奈良県・吉野郡・吉野町)の近くにあり、寺の境内から行けるように道がつけられている。訳者は、2011年11月に、ここへ行った。太平記での記述通りに、陵は北を向いているように思われた。
しかし、陵のあるこの場所は、蔵王堂の南東方向に位置しており、太平記の「蔵王堂の艮なる林の奥に」と、違っていた。(「艮(うしとら)」とは、北東方向のことである)。
太平記作者が間違って記述しているのか、それとも、後日、陵の場所が移動したのか、訳者には分からない。
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静寂な無人の林中に鳥は鳴き、日は暮れていく。見れば、土墳の傍らには、はやくも数尺の草が伸びている。
吉野朝メンバーA (内心)陛下が逝かれたあの時から、もうこないに日がたってしもぉてたんか・・・つい昨日の事のように思えるなぁ・・・。
悲しみの涙はもはや出尽したといえども、愁いは未だ尽きることなし。旧臣・后妃(こうひ)らは泣く泣く、蒼穹(そうきゅう)に漂う雲を見上げてはありし日の先帝をしのび、天空を行く月を見上げてはいよいよ嘆きが深まっていく。御陵(みささぎ)を吹き渡る秋風にわが身を包んでは、夢中の花を惜しむがごとく、今はなき主上(しゅじょう)との別離を悲しむ。
あぁ、哀れなるかな。(注10)
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(訳者注10)この部分の原文は、以下のようなすばらしい美文である。
寂寞(じゃくまく)たる空山(くうざん)の裏(うち)
鳥(とりは)啼(なき)日(ひ)已(すでに)暮(くれ)ぬ
土墳(どふん)数尺(すうしゃく)の草
一経(いちけい)涙(なみだ)盡(つき)て愁(うれい)未(いまだ)盡(つきず)
旧臣(きゅうしん)后妃(こうひ)泣々(なくなく)鼎湖(ていご)の雲を瞻望(せんぼう)して
恨(うらみ)を天邊(てんぺん)の月に添え
覇陵(はりょう)の風に夙夜(しゅくや)して
別(わかれ)を夢裡(むり)の花に慕(した)う
哀(あわれ)なりし御事(おんこと)也(なり)
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吉野朝メンバーB (内心)天下が久しく争乱の中にあること、これはまぁ、仕方がないとしよう。なんせ、現代は末法の世なんやから。
吉野朝メンバーC (内心)それにしても残念な、陛下の崩御。
吉野朝メンバーD (内心)延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)よりこの方、陛下のようにすばらしく、神々しいばかりの武徳を備えてはった天皇は、未だかつておられんかった。
吉野朝メンバーE (内心)今はこないな状況に追い込まれてはいるけど、そのうち必ず、陛下の聖徳は開け、お仕えしてきた我らの忠功の望みも必ず達成されるやろうと、
吉野朝メンバーF (内心)皆みな、固く信じて、陛下に望みを託してきたんやったが・・・。
吉野朝メンバーB (内心)その陛下が、崩御してしまわはるとはなぁ・・・。
吉野朝メンバーC (内心)今となっては、伊勢神宮の五十鈴川(いすずがわ)の流れの末も絶え、(注11)
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(訳者注11)「伊勢神宮の擁護のおかげで、連綿と続いてきた皇統も絶え」という意味。
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吉野朝メンバーD (内心)筑波山(つくばやま:茨城県)の陰に寄る人もなし。(注12)
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(訳者注12)つくばね(筑波嶺)の このもかのもに 影はあれど 君がみかげに ます影はなし(古今和歌集・巻第20 大歌所御歌 東歌 ひたちうた)
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吉野朝メンバーE (内心)今や天下はことごとく、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の手中に落ちてしもぉたわい。
吉野朝メンバーF (内心)あぁ、もうなんの希望も無ぉなってしもうたなぁ・・・。
吉野朝メンバーB (内心)長年、陛下に従うてきたこの私やけど・・・。
吉野朝メンバーC (内心)こないなったら、「秦が天下を取ったら、東海の波を踏んで死のう」と言うた、あの中国・斉国の魯仲連(ろちゅうれん)みたいに、わしも・・・。
吉野朝メンバーD (内心)「南山うんぬん」と泰平の世を望む歌を歌って、斉の恒公に認められたとかいう、あの寗戚(ねいせき)みたいに、名君が現われるまでは、わしもどこかにじっと身を潜め、
吉野朝メンバーE (内心)こないなったら、各自、思い思いに、我が身を隠す場所でも探しにかかるしかないかいなぁ・・・。
吉野朝廷全体がこのような心理状態に陥ってしまっている事を密に伝え聞き、蔵王堂・宗務長の吉水法印(よしみずのほういん)・宗信(そうしん)は、急ぎ御所へ参内していわく、
宗信 みなさん、おぼえておいででしょう、崩御あそばされたおりに、先帝はこのようにご遺言なされましたわな、「義良親王殿下を天皇位につけ、朝敵追伐の本意を遂げるように」と。
臣下一同 ・・・。
宗信 陛下のそのお言葉、ここにおられる臣下のみなさまも直々(じきじき)にお聞きになられたはずですよ。そやのに、いったいなんですか! みなさん、いったいなに考えたはりますねん!
臣下一同 ・・・。
宗信 陛下の崩御から未だ日も浅いというのに、もうみなさん、退散やら隠遁やら、我が身のふり方を考えたはる、てな事が、わたしの耳に入ってきとりましてなぁ・・・ほんまにもう、アタマに来るやら、情けないやらで、もうわしゃ、たまらん!
臣下一同 ・・・。
宗信 偉大なる主君がお亡くなりになってしもぉたからというて、何もそないに力落す事もないでしょうに。中国の例を見てくださいよ。文王(ぶんおう)が開始した天下統一の企て、息子の武王(ぶおう)は立派に継承して、周(しゅう)王朝を設立しましたやんか。漢(かん)王朝を創始の高祖(こうそ)が崩じて後、その子・孝景帝(こうけいてい)は、みごとにその王朝を維持したやないですか! 陛下が崩御あそばしたからというて、陛下の恩顧を被ってこられた皆様が、その功績を捨てて敵に投降しようなど、そないな事考えたはるようでは、そらぁあきませんでぇ。
臣下一同 ・・・。
宗信 それにな、わが方の勢力かて、まだまだ行けまっせぇ。国の行く末を案じ、命を捨ててもえぇと考えてる人間、まだまだ、よぉけおりますやぁん。まず、上野国(こうずけこく:群馬県)には新田義貞の次男・義興(よしおき)がおりまっしゃろ。武蔵国(むさしこく:東京都+埼玉県+神奈川県一部)には、義興の弟の義宗(よしむね)かておりますよ。それに、越前国(えちぜんこく:福井県東部)には、あの脇屋義助(わきやよしすけ)とその子息の義治(よしはる)他、江田(えだ)、大館(おおたち)、里見(さとみ)、鳥山(とりやま)、田中(たなか)、羽河(はねかわ)、山名(やまな)、桃井(もものい)、額田(ぬかだ)、一井(いちのい)、金谷(かなや)、堤(つつみ)、青龍寺(しょうりゅうじ)、青襲(あおそい)、篭澤(こもりざわ)など、新田一族計400余人。国々に陰謀を回らし、所々にたてこもり、寸時の間も、忠義の戦を図って止まない人々です。
宗信 新田家以外でも、わが方に所属の人間は、よぉけおりますわいなぁ。筑紫(つくし:福岡県)には、菊池(きくち)、松浦是興(まつらこれおき)、草野(くさの)、山鹿(やまが)、土肥(とひ)、赤星(あかぼし)。四国には、土居(どい)、得能(とくのう)、江田(えだ)、羽床(はねゆか)。淡路(あわじ:淡路島)には、阿間(あま)、志知(しうち)。安芸(あき:広島県西部)には、有井(ありい)。石見(いわみ:島根県西部)には、三角信性(みすみしんしょう)、合四郎(ごうのしろう)。出雲(いずも:島根県東部)と伯耆(ほうき:鳥取県西部)には、故・名和長年(なわながとし)の一族たち。備後(びんご:広島県東部)には、櫻山(さくらやま)。備前(岡山県東部)には、今木(いまき)、大富(おおどみ)、和田(わだ)、児島(こじま)。播磨(はりま:兵庫県西部)には、吉河(よしかわ)。河内(かわち:大阪府東部)には、和田(わだ)、楠(くすのき)、橋本(はしもと)、福塚(ふくづか)。大和(やまと:奈良県)には、三輪社神主の西阿勝房(せいあかつふさ)、真木宝珠丸(まきほうじゅまる)。紀伊国(きいこく:和歌山県)には、湯浅(ゆあさ)、山本(やまもと)、井遠三郎(いとうのさぶろう)、賀藤太郎(かとうたろう)。遠江(とうとうみ:静岡県中部)には、井伊(いい)。美濃(みの:岐阜県南部)には、根尾入道(ねおにゅうどう)。尾張(おわり:愛知県西部)には、熱田大宮司昌能(あつたのだいぐうじまさよし)。越後(新潟県)には、小国(おくに)、池(いけ)、風間(かざま)、禰津(ねづ)、大田(おおた)。延暦寺勢には、南岸(なんがん)の円宗院(えんじゅういん)。その他、無名の者にいたってはもうとても数えきれないくらい。これらは皆すべて、義心金石のごとき人々にして、過去に一度も心変わりした事がありません。
宗信 そして最後に、この吉野。不肖この宗信、見ての通りですわ。当寺に関する限り、一切何のご心配もご無用に願いましょう!
臣下一同 (深くうなずく)。
宗信 とにもかくにも、陛下のご遺言通りに、早いとこ、お世継ぎの君をお立てしませんとなぁ! その後に、国々へ、「新帝御即位」の通達を出されませ。
臣下一同 うん!
そのような会議がなされている所へ、楠正行(くすのきまさつら)と和田和泉守(わだいずみのかみ)が、2,000余騎を率いて吉野へ馳せ参じてきた。
皇居を守護し、ひたすら先帝の遺志を実現せんとの彼らの意気込みを見て、人々は、「吉野から退散せん」との思いを一変。かくして、吉野朝の人心は落ち着きを取り戻した。
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