いったいなんで 大井川に 橋 架からんかった?
2024.7.25 presented in [note] ( //note.com/runningWater/]
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新大阪から東海道新幹線に乗って東京へ向かう途中、様々な川を渡ることになる。
長良川、木曽川、矢作川、天竜川、大井川、富士川・・・等々。
それらの川の上を、現代の我々は容易に(時には車中で睡眠しながら)越えていけるのだが、明治時代初め頃までは、それらの河川は、人々の通行・貨物の輸送上での、大きな障害になっていたことであろう。
東海道が整備された江戸時代には、人々は様々な手段でもって、それらの川を渡っていたようだ。
矢作川においては、人々は、橋を渡っていったようだ。
天竜川においては、渡し船に乗って、川を渡っていったようだ。
そして、大井川においては・・・人は、人によって、渡されていたようだ。
島田市(静岡県)の大井川岸に、
[島田宿大井川川越遺跡]
と、いうものがあるようだ。
江戸時代、島田と金谷の間の大井川渡河においては、[川越制度]というものが制定されており、河岸には、[川越人足]と呼ばれる人々がいて、旅人や荷物を背負って、大井川を徒歩で渡っていた、という。
大井川のこの[川越制度]について、様々に考えているうちに、2つの疑問が生じてきた。
疑問A なぜ、大井川には、橋が架けられなかったのか?
矢作川には、橋が架けられていたのに。
疑問B なぜ、大井川には、渡し船制度が無かったのか?
江戸幕府が東海道の宿駅制度を制定した際に、大井川において、[渡し船制度]を設定する、という事も可能だったろう。なのに、なぜ、そのように、しなかったのか?
天竜川においては、[渡し船制度]を設定したのに。
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この問題を考えるにあたり、下記の本が参考になった。
[中世の東海道をゆく, 榎原雅治, 中公新書]
(以降、これを [本1] と略記)
[鉄道忌避伝説の謎 汽車が来た町、来なかった町, 青木栄一, 吉川弘文館]
(以降、これを [本2] と略記)
[本1] では、中世の紀行文をもとに、当時(江戸時代よりも前の時代)の大井川渡河の状況を、考察している。江戸時代の旧東海道の渡河地点よりも下流の方にある場所を、当時の人々は渡っていたのであろうと、著者は考察している。そのあたりでは、大井川は幾筋もの細い川に分流しており、それらを次々と、徒歩で渡っていった(渡っていけた)のであろう、というのだ。
すなわち、
中世においては、大井川は、[歩いて渡れる川]だった、
と、いうことになる。
江戸時代になぜ、大井川に橋が架けられなかったのか、というこの問題に関しては、江戸幕府が江戸の防衛のために、そのようにしたのだ、とする説があるようだが、 [本2]の著者は、その説を否定し、
技術的にも、経済的にも、大井川に橋を架けることが難しかったから
である、としている。
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島田市のWebサイト中に、[国指定史跡 島田宿大井川川越遺跡保存管理計画]というコンテンツがあり、その中に、
[12・川越遺跡保存管理計画_第3章5(PDF:4,482KB)]
があり、これも、参考になった。以降、これを [文書3] と略記することにする。
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まず、基本的な事項を確認していこう。
(1)[川越人足]業務の発生の時期
[文書3] 中の
[道中記 明暦3年(1657)]
に、「川越人足」という言葉が記されている。よって、これよりも前に、[川越人足]業務が発生していたと、考えてよいだろう。
(2)中世においては、大井川は、一般の旅人でも、[歩いて渡れる川]だった
上記( [本1] に関しての記述)において記したように、中世においては、一般の旅人は、大井川を、歩いて渡っていた。
(3)江戸時代が始まる直前の時期に、大井川の状態が激変している可能性あり
1590年に、[天正の瀬替え]という土木工事が行われ、大井川の流路は大きく変化したよだ。これにより、川の状態が大きく変化した可能性がある。
(4)江戸時代においても、一般の旅人の中には、自ら歩いて大井川を渡る人がいた
川越人足たちは(当然の事ながら)大井川を歩いて渡っていたのだが、旅人の中にも、歩いて、あるいは、馬に乗ったまま、渡っていく人がいたようだ。 [文書3] の中に、下記のような、それを示す情報がある。
[文書3] の中の
[身延の記 寛文3年(1663)]
[日本滞在記 1667年]
[海陸世話日記 寛文8年(1668)]
江戸時代においても、大井川は、(勇気ある旅人にとっては)、[歩いて渡れる川]だったのだ。
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いよいよ、本題に入ると、しよう。
なぜ、大井川には、橋も、渡し船も、無かったのか?
(なぜ、架橋されなかったのか、なぜ、渡し船制度が、制定されなかったのか)
江戸の防衛のために、とは、とても考えにくい。上記にも見たように、江戸時代においても、大井川は、[歩いて渡れる川]だったのだから。
このような、[歩いて渡れる川]は、江戸の防衛ラインとしては、機能しないだろう。
川の中に船橋を設置すれば、軍隊は容易に、大井川を渡っていけるだろう。あるいは、馬に乗ったまま、川の中へ進む、という事だって可能かもしれない。あるいは、下流の方の、中世に人々が渡っていた場所を渡る、という事だって可能かもしれない。
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なぜ、大井川には、橋も、渡し船も、無かったのか?
私は、以下のように考えた。
江戸時代よりも少し前の頃には、大井川の状況は、上記に見た中世のそれとは、異なっていたのであろう。(「天正の瀬替え」の影響があったのかどうか、までは分からないが)。
すなわち、大井川は、[歩いて渡れる川](中世には)から、[歩いて渡れる川・ただし、プロと勇気ある旅人だけが]という状態に、変化していたのであろう。「プロ」とは、[川越人足]である。
川底の地形を知らない人が、歩いて渡るのは危険、というような状態に、なっていたのであろう。
大井川の水量が大量になり、流れが激しくなる都度、川底の状態も変化したであろう。このような変化し続ける川底の状態を、頻繁に観察し続けていく事ができる人はといえば、地元の人々以外には、考えられない。地元の人々は、大井川の川底の状態に関する豊富な知識と、渡河に関するノウハウを、蓄積していったのであろう。
そのようなノウハウを持っている、となると、それを活用してのビジネスを、と考える人も、現れたであろう。このようにして、江戸時代よりも前の時期に、
私的な川越サービス業
が、発生していたのではないだろうか。
そのような状態であったので、江戸時代初期の東海道の宿駅制度の制定の際に、幕府は、
大井川は、とりあえずは現状のまま、
すなわち、
自力での渡河、あるいは、[川越サービス業に従事する人々]の支援による渡河で、
と、いう事にした。
とりあえずは、そのような状態でスタートさせて、
様子を見ながら、
架橋、あるいは、渡し船制度の導入を、ゆくゆくは検討、
と、いうような事も考えていたかもしれない。
(街道・東海道の整備に関しちゃ、他にもいっぱい、検討しなければならない場所がある、大井川の事ばかり、考えてられねえよ、という感じであったかも。)
しかし、大坂冬の陣、大坂夏の陣、徳川家康将軍の死去、秀忠将軍から家光将軍への将軍譲位等、重大な局面が続いていく中、そのような事を考慮する余裕がないままに、時は過ぎていった。
そして、1626年に、ある事件が起こってしまった。
[文書3] の中の
[大猷院殿御実紀]
の項に、以下のような趣旨の事が、記されている。
大井川に船橋を設置した事が、家光将軍の怒りに触れた。
その理由として、上記には、「関東鎮護の要衝」とある。大井川は重要な江戸の防衛ラインであるのに、そこに船橋を架けるとは、けしからん、という事なのだろう。
しかし、上記にも記したように、大井川は重要な関東防衛ラインの機能を果たしているとは、考えられない。
大坂冬の陣、大坂夏の陣以降、パックス・トクガワーナ(徳川の平和)の世となっている。
家光将軍は、1604年に江戸城の中で生まれ、その後も城の中で育てられてきた人である。軍事的観点からの現地(大井川周辺)に関する知見・見識を、どの程度持っていたか、極めて疑問である。
しかし、政権トップの座(将軍職)にある人が、このような事を一度でも言ってしまうと、その言葉は、後々の世までも、政策を縛ってしまうものに、なるであろう。
その後の時代の幕府首脳(老中たち)にとっては、大井川の交通に関しての政策の変更
([川越人足の助けを借りての渡河]から[渡し船による渡河]へ、あるいは[架橋]へ)
が、
とてもやりにくい、あるいは、不可能に近い、
と、いうような状態になってしまったのであろう。
東海道に関する諸々の制度が制定されて以降、家光将軍の時代までに、大井川に渡し船も橋も無い事により、様々な利益を得てきた人々も、いたであろう。そのような人々(いわゆる[既得権益]を持っている)にとっては、将軍のこの言葉は、その権益を確保し続けていくための、格好の手段になったであろう。
上記に述べたような事情により、大井川には架橋がされなかった、渡し船制度が設定されなかったと、私は想像するのだが、いかがだろう?
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[本2]の、
技術的にも、経済的にも、大井川に橋を架けることは難しかったからである、
との主張に関しては、綿密・慎重な検討が必要であろうと、思われる。
[経済的困難]に関しては、 [文書3] の中の
[大井川架橋の建議『島田市史資料』第5巻 明治2年(1869)]
の項に、関連する記述がある。
ところが、それから10年後、明治12年(1879年)に、大井川には[蓬莱橋]という橋が、架けられたのだそうだ。
江戸幕府が[大政奉還]を行ったのが1867年、それから12年後には、大井川に、このような橋を架けることができているのだ。
天竜川には、これよりも早い時期(明治7年)に、木橋が架橋されているようだ。
[蓬莱橋]や[天竜川の木橋]と同レベルの木造橋であれば、架橋できるほどの技術レベル
にまで、
江戸時代・後期の架橋技術は進んでいたのか、
それとも、
明治時代になってからの、欧米からの急速な科学技術の導入により、ようやく、大井川や天竜川に、このような橋を架けることができるようになったのか、
と、いうような事をも、検討する必要があるだろう。
江戸時代の渡河ルートとは別のルート(例えば [本1] で示されている中世の渡河ルート)での架橋さえも、技術的に、経済的に不可能であったのかどうか、という事をも、検討する必要があるだろう。
現代の大井川の姿だけを見て、これらの事柄に関して考察する事は不可能であろう。江戸時代には、大井川の上流にはダムが無かったのだから、川の姿は現代のそれとは相当異なっていたと、考えられる。
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[大井川 天正の瀬替え]
[島田市 島田宿大井川川越遺跡]
[島田市 川越遺跡保存管理計画_第3章]
[大井川 蓬莱橋 歴史]
[天竜川の橋 明治]
でネット検索して、関連する情報を得ることができた。