太平記 現代語訳 17-3 延暦寺、興福寺に対して、連合軍結成の勧誘檄文を送る
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利サイドとの戦に敗北あいつぎ、天皇サイドは士気も衰え、影が薄くなってきてしまった。
後醍醐天皇 こないな情勢ではなぁ、延暦寺やここ坂本の中にも、敵に寝返りをうつようなもんがいつ出てこんともかぎらんわなぁ。不測の事態に至るような事も、もしかしたらありうるでぇ。
天皇側近の公卿一同 ・・・。
後醍醐天皇 あぁ、困ったなぁ! 今のうちになんとかせんと、あかんがな! あぁ、あかんあかん! どないしたらえぇねんや、どないしたらぁ!
天皇側近の公卿一同 ・・・。
後醍醐天皇 あぁ、なんとかせんとあかん、なんとかせんとあかん!
側近A 陛下・・・ここはやはり、わが国家を守護してくださってる、比叡山に祭られてる神々方の、お力をお借りしてですねぇ。
後醍醐天皇 なんか、えぇ案あるんか?!
側近A 寄付、どないですやろ? 延暦寺へボーンと。そないしたら、比叡山の神仏も喜ばはりますやろし、延暦寺の衆徒連中らも、そらぁ奮いたちよりますやろて。
というわけで、延暦寺の九つの堂と比叡山守護の七社に対して、大荘園を各2、3か所ずつ、朝廷より寄進。
側近B いやいや、それだけではまだまだ、不十分なんちゃいますぅ?
かくして、延暦寺の衆徒800余人が、早尾社(はやおしゃ)に集まり、食料配分の事などについて会議を開いている所に、朝廷よりの使者がやってきていわく、
使者 天皇陛下より延暦寺に対して、ご寄進のお沙汰が下ったぞぉ!
衆徒一同 オォォォ・・・(どよめき)
使者 聞いて驚くなよぉ! 陛下は以下のごとく、おおせや!
「近江国(おうみこく:滋賀県)内の、領主がいいひんようになってしもぉた荘園300余箇所を、朝廷より延暦寺に寄進するものなりい!」
衆徒一同 ウォォーーッ、ピィピィ、パチパチ!
使者 これだけとちゃうでぇ、まだあんねんぞぉ、よお聞けよぉ!
「今後永久に、近江国の国司役所を管理する特権を、延暦寺に与えるものなりい!」
衆徒一同 イェーイ! やったでえぃ!
これを聞いた延暦寺の智慧ある者はいわく、
延暦寺の者C これで、天皇軍が勝利を得る、とでもいうような事になったら、わが寺の今後の繁栄は間違い無しと、みな思うんやろうけどなぁ・・・あんなぁ、この話、見かけほどエェ(良い)話やない、いうような気ぃするんやわ。わし、あんまり喜べへんなぁ。
延暦寺の者D えぇ? いったいなんでぇなぁ?
延暦寺の者C まぁ、考えてもみなはれ。こないな、人間の欲望をくすぐるような褒美をもろぉてやでぇ、うちのお寺のみんながエェ気になってしもぉたら、延暦寺の未来はいったいどないなる、えぇ?! これから先、学窓の前に座して仏教の真理を地道に究めていこうと志す者(もん)なんか、一人もいいひんようになってしまうんとちゃうかい? み仏を讃仰(さんごう)するこの山に上り、花のように美しく香(かぐわ)しい天台宗の教えを学ぼうとするもんも、皆無になってしまうやろうて。
延暦寺の者D ・・・。
延暦寺の者C 朝廷から頂いたこの富貴が原因となって、仏法を滅ぼしてしまう結果となるおそれ、十分にあり得る。こないなトンデモナイ事を、神々は、どのようにお考えあそばすやろ・・・あぁ、コワイコワイ!
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7月17日、延暦寺の衆徒多数が、大講堂の広庭に集まり、延暦寺三塔エリア合同会議を開催。
衆徒リーダーE 我らが寺は、王城(おうじょう)の北東方向の鬼門(きもん)を守る場所に位置し、神徳のあふれる霊地であーる!
衆徒一同 その通りぃ!
衆徒リーダーE 我ら一山(いっさん)、歴代の帝王の御治世が安泰でありますようにと、日々まこと込めて、祈願し続けてきた。また、国の四方に沸き起こる反逆者の国家擾乱(じょうらん)を、なにとぞお鎮(しず)め下さいますようにと、比叡七社の神々に対しても、なにとぞ御擁護(ごようご)を垂れ給え、と祈り続けてきたのであーる!
衆徒一同 まさしく、その通りぃ!
衆徒リーダーE さてここに、源氏の末裔(まつえい)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、ならびに、直義(ただよし)なる者が出現。こやつらは、今まさに朝廷を傾け、仏法を滅ぼそうとしとるけしからんやつ! その大逆の罪の重さ、異国にも比較すべき対象が見つからないほど、その悪逆ぶりは、かの中国・唐王朝の反乱の首謀者・安禄山(あんろくざん)をも上回る。その積悪(せきあく)の罪は、わが国の歴史上においても未だ類を見ないものであり、かの物部守屋(もののべのもりや:注1)でさえも、これに比べたらはるかにに罪は軽いーっ!
衆徒一同 異議無ぁし!
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(訳者注1)大和時代の豪族・物部氏の長。日本に仏教を導入すべきか否かで、蘇我氏と争い、敗れた。
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衆徒リーダーE そもそも、日本の国土はことごとく、天皇陛下のものである! 我ら、たとえ仏に仕える身といえども、この国家存亡の時にあたり、天皇陛下に忠義を尽くさいでどないする!
衆徒一同 そうやそうやぁ!
衆徒リーダーE さらに言うならば、ここ北嶺(ほくれい)・延暦寺は歴代の天皇陛下の本命星(ほんみょうじょう:注2)を祈念したてまつる寺でもある。従って、朝廷の危機に際しては、それをお助けするのが当然っちゅうもんやろがぁ!
衆徒一同 当然やぁ!
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(訳者注2)中国の占星術中の一概念。その人の生れた年と関係深い星。
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衆徒リーダーE 一方、南都(なんと)・奈良の興福寺(こうふくじ)は、摂関家藤原(せっかんけふじわら:注3)氏の氏寺(うじでら)やねんから、藤原家の久しい不遇を救って当然。ゆえに、一刻も早く、南都の東大寺(とうだいじ)や興福寺に、連合軍結成・勧誘檄文を送り、我らと同盟して天皇陛下をお守りする義戦に立ち上がるように、誘ってみようではないかぁー!
衆徒一同 異議無ぁし! 異議無ぁーしぃー!
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(訳者注3)摂政、関白を輩出する家を「摂関家」と称する。平安時代以降、摂政や関白の地位は、藤原家の中の一部の家系によって独占されるようになった。
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満場一致となったので、さっそく、興福寺に牒状(ちょうじょう)を送った。その文面、以下の通り。
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興福寺宗務局御中 延暦寺より
メッセージ:両寺、心を一(いつ)にして、朝敵・源尊氏・直義以下の逆徒(ぎゃくと)を追罰(ついばつ)し、わが日本国に、仏法(ぶっぽう)と王法(おうぼう)の昌栄(しょうえい)を大いにもたらそうではないか!
我が国に仏教が伝来してより、すでに700有余年になるが、その諸々の教義の中、なんというても、法相宗(ほっそうしゅう:注4)と天台宗(てんだいしゅう:)とが、最も勝れているのである!(注5)
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(訳者注4)世界の全ての存在・現象は、自らの心の奥深くにある「アラヤ識」という所から発するのである、と説く仏教の一派。「自分の心が自分を取り巻く世界の全てを作り出している」という主張なのだから、ヨーロッパの思想で分類すれば、唯物論ではなく、唯心論に属する、ということになろうか。(さらに正確に呼ぶならば「唯心論」ではなく「唯識論」と呼ぶべきか)。そのようにして、アラヤ識から発生した世界のすべての存在あるいは現象(「相」)を細かく分類説明するので「法相宗」と名づけられた。
法相宗は、玄奘(げんじょう)によって、インドから中国に伝道された後、さらに日本へも道昭他の遣唐使僧侶複数によって、4回にわたって伝えられた。その後、元興寺や興福寺において興隆を見た。
(以上の記述は「仏教辞典:大文館書店刊」を参考にして書いた。)
(訳者注5)興福寺は法相宗の本山であり、延暦寺は天台宗の本山である。延暦寺の衆徒たちはこのように相手の興福寺をもちあげて、連合結成の勧誘を試みた、という事になるのであろう。
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仏が仮の手段として神に姿を転じて人間世界に鎮座ましまし、その威光を輝かせておられる7000余か所の中でも、春日社の四神と、日吉社の三神の霊験はひときわあらたか。ここをもって、先には、藤原不平等(ふじわらのふひと:注6)公が興福寺を建立されて、八識五重の明鏡(はっしきごじゅうのめいきょう)を磨き、後には、恒武天皇(かんむてんのう)が比叡山・延暦寺を開かれて、四教三観(しきょうさんかん)の法灯(ほうとう)をかかぐ。
以来、南都北嶺(なんとほくれい:注7)は共に、護国護王(ごこくごおう)の重責をうけたまわり、天台と法相は互いに、権教(ごんきょう:注8)と実教(じつきょう:注9)の奥義(おうぎ)を究(きわ)めてきた。
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(訳者注6)藤原家のルーツ・鎌足(かまたり)の長男。藤原家の偉大なる二代目。
(訳者注7)このように、両寺(興福寺と延暦寺)は、しばしば対になって称されてきた。
(訳者注8)如来が衆生をして真実の義を悟らしめんがために、まずその手段として説かれた方便(ほうべん)の教えを言う。「権(ごん)」とは「実」の対で「方便」の異名、すなわち「手段」のことである(「仏教辞典」大文館書店刊より)
(訳者注9)「権教」の対。真実の教、すなわち、如来出世(にょらいしゅっせい)の本懐(ほんかい)たる大乗真実教(だいじょうしんじつきょう)のこと。(「仏教辞典」大文館書店刊より)
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この両寺が開基(かいき)されたまさにその時から、仏法は王法を守護し、王法は仏法を援助し、という、持ちつ持たれつの関係が始まったのである。
ゆえに、我らの寺に困った事が出てきた時には、上奏文を朝廷に奉って親しく相談し、逆に朝廷にトラブルあった時には、我らは朝廷と心を一にして、問題解決に向けて祈念してきた。
この5、6年間というもの、天下は大いに乱れ、人民の心は安まる事を知らぬ。中でも、目に余るのは、かの足利尊氏・直義である。
彼らは、辺境地帯の族長の分際でありながら、朝廷よりの過分のおとりたてに、いやというほど浴すような境遇になった。なのに、君臣の道をわきまえぬ彼らは、山犬や狼のごとき心を起こし、徒党を組んで、辺境地帯の者どもをその仲間にひきずりこんだ。さらに、陛下よりの命令を歪曲解釈し、陛下の盾ともいうべき人々を殺害した!(注10)
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(訳者注10)護良親王を殺害した事を非難しているのであろう。
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つらつら、天皇陛下の鎌倉幕府倒幕の聖行を鑑みるに、なにもあれは、尊氏一人だけに功績があったわけでは決してない。なのに、あれほどまでに恩寵を下さった陛下に対して、逆らい奉るとは、まったくもって、なんちゅう所業か、言語同断である!
さらに、尊氏は、新田義貞(にったよしさだ)を誹謗中傷しておる、「新田こそは朝敵である。天皇のご寵愛をむさぼり、それをかさに着て、自らの権力をほしいままに拡大しておる」てな事を、ぬかしとる。咎犯がそれを聞いたら、さぞかし不愉快に思うことであろうて。古代中国において「朝錯(ちょうそう)を討つ!」との名目を立てて反乱軍を起こしたリュウビ、その末路はどのようなミジメな結果となったか、よくよく考えてみるがよい、尊氏よ!
このように、臣下の分際でありながら主君を犯したてまつり、陛下よりの御恩を忘れて義に背くその行い、我が国の歴史はじまって以来、かくなるヒドイ男の話は聞いた事もない!
この男のせいで、今年の春の初め、煙火は都を焼き尽くし、九重の御所も灰燼に帰した。暴風は地をなぎ払い、罪もない民は塗炭の苦しみに陥った。その悪業を見ては、どこの誰もが、ため息をつかずにはおらりょうか!
かくして、日本の国土を覆うこの災いを鎮めんがため、神仏のご冥護(みょうご)を仰ぎながら比叡七社の神々の下、我ら延暦寺メンバー一同は、国家に安泰をもたらさんと、立ち上がった! 三千の衆徒は心を一にし、自らの身命をかなぐり捨てて、義兵を助けるために決起した! そして、老若心を同じくして、冥府(めいふ)の威力を頂いて、異賊(いぞく)をやっつけた!
あぁ、王道は未だ衰えず、神々の叡慮は我らを助く・・・逆賊の党は、旗を巻いて西に敗走、凶徒はホコを倒して敗北す。まさに、赤く燃える囲炉裏の火が雪を消すがごとく、丸い石が卵を押しつぶすがごとく。中国・東晋(とうしん)の帝が八公山に祈って、前秦(ぜんしん)・苻堅(ふけん)王の兵を退け、唐の時代に、不空三蔵(ふくうさんぞう)は四天王を祈願して、吐蕃(とばん)民族の陣を退けた。まさに、我らの働きも、これにたとえる事ができるであろう。
そしてついに我らは、威儀正しく、天皇陛下の御所への還御(かんぎょ)を成功せしめた! 天は妖星(ようせい)を払い、君臣は上下みな瑞雲(ずいうん)を見た。海に逆賊の主を切り、遠近ことごとく逆波(ぎゃくろう)の声を止む。これは、我ら学僧・衆徒の誠(まこと)をつくした所に、医王山王(いおうさんのう)のご加護を頂けたからである。
しかるに今、賊徒は再び都を窺い、朝廷軍はしばしの彷徨(ほうこう)の征途(せいと)を余儀なくされている。ゆえに、前回の例になろぉて、陛下は再び当山に御臨幸あそばされた。
山上山下の興廃、今まさにこの時にあり! 仏法王法の盛衰が決せらるるは、まさに今日のこの時。天台の教法、七社の霊験、その安危を、ひとえに朝廷と共にする。
法相宗の護持、四所の感応利益(かんのうりやく)もまた、国家の運命を離れて成り立つはずがない! 貴寺にもし報国の忠真の心があるのならば、興福寺の衆徒方もこぞって、陛下を助けるための計略をめぐらされてはいかが?!
我ら一山(いっさん)あげてのこの願い、なにとぞお聞きいれあって、貴寺も我らに合力せられたし! 朝廷が危機に瀕している今まさにこの時、必ず貴寺におかれては、我らの要請を容れ、我らと連合してもらえるものと信じる!
我らよりのメッセージ、以上の通り。事態は切迫しておる、もはや一刻の猶予もならん!
延元元年 6月日 延暦寺三千衆徒らより
これを見た興福寺の衆徒らは、すぐに延暦寺と連合軍を組む事を決定し、返答を送った。
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興福寺衆徒 延暦寺宗務局にメッセージを送るものなり
天台宗の説かれるところの観行五品(かんぎょうごぼん)の境地の上位を究めんと、わが法相宗の道昭師は、唐に渡り、黄河と准河の間の地にて、かの玄奘三蔵法師からそれを学ばれた。
インドにおいて、釈尊はすべての修行を了(お)えられて正覚者=ブッダとなられ、究極の教えを人々に説かれた。そしてこの教えは中国に伝道され、隋(ずい)王朝の高祖(こうそ)、唐王朝の大宗(たいそう)によって大いに興隆を見た。そしてさらに日本にも伝わり、貴寺にはその一つの理論であるところの天台の教えが伝えられた。
しかしながら、インド、中国、日本の三国に広まった仏教の中で、最高の真実なる教義・法相宗は、唯一わが興福寺のみに伝えられ、以来、長い歳月の経過の中に、我らはそれを護持し続けてきた。
まことに、仏法を広く世界に広めるためのみ仏の壮大なる御計画の下、我が興福寺は、天皇の基盤を護持する事業を展開してきたと言えるであろう。
さて、
かの足利尊氏・直義らは、辺境にうごめいてきた輩、鎌倉幕府側から降伏してきた者である。彼らに比べれば、犬や鷹の方がよっぽど使いものになるのでは、というほどの無才の人間であるのだが、それでも、天皇陛下の爪や牙の役目を頂いて、お仕えしてきた。なのに、たちまちその御恩を忘却し、謀反の心を起こした。
「楊氏を討つ」と称して、家臣でありながら皇帝に反逆し、各地の州県を攻略して掠奪を繰り返し、吏民を捕虜とした、かの中国・唐王朝の安禄山にも、足利兄弟はたとえられるべきであろう。足利兄弟のせいで、帝都はことごとく焼き払われ、仏閣多数が失われてしもぉた。まさに、赤眉(せきび)の乱、黄巾(こうきん)の乱を越えるような害悪である。
その資格の全くない者が日本の政権を握るなどとは、全くもって前代未聞。足利一味に天誅が下され、神罰がすぐに顕われる事は必定(ひつじょう)。よって、昨年の初春、足利軍は惨めな敗北を喫し、命からがら西海に逃亡していった。
それにも懲りず、再び敗軍を集め、生き残りの者どもを引き連れ、雷のごとき神威をも恐れず陛下に迫るとは、いやはや・・・またもや、天罰は下るにちがいない。
足利軍は今、京都を徘徊(はいかい)して凶悪を振るっておるが、それは決して、長続きするものではない。かの古代中国・殷(いん)王朝の紂(ちゅう)王を見よ、再び孟津を渡った周の武王によって、滅ぼされたではないか。尊氏の運命も、それと似たようなもの。
かの、中国春秋時代、楚の軍が晋の文公に打ち破られた事を忘れてはいかん。天命にそむく者は大いなる咎を受ける、道にそむく者は誰にも助けてもらえない。積悪の勢いも、そうそういつまでも続くもんではない。
まさに今、天皇陛下は京都の外に臨幸を余儀なくされておられ、比叡山に陣を張っておられる。延暦寺三千の衆徒らは、「なにとぞ陛下を守りたまえ」と、合掌の中に熱い祈りを捧げ、七社の霊神も陛下を擁護しようとされている。
唐の代宗(だいそう)は反乱軍の難を避けて、香積寺に遷座した。また春秋時代、越王・勾践(こうせん)が会稽(かいけ)山にあった時、その兵は天台山の北に布陣した。これらの歴史事例を見るならば、陛下が延暦寺へ遷座された事も、なにかしら吉なる結果をもたらすように思える。
我ら興福寺の衆徒らは、天皇が奈良から京都に都を遷された後も、朝廷に忠節を尽してきた。皇室の長久(ちょうきゅう)を専ら祈り、朝廷に逆らう者らの滅亡を願ってきた。我らのこの陛下に捧げ奉る赤心(まことごころ)に表裏はない、神仏もきっと我らを助けたもうであろう。
しかも、こちらの寺の周辺の若き者らや、大和国(やまとこく:奈良県)一円の武士らは、朝廷軍に参加しようとの意志を持っており、反逆者を退治する策をめぐらすに余念無し、という状況である。
しかしながら、こちらとそちらとでは南北遠く距離が隔っており、なかなか、行動を共には、しにくい。さらに、敵は様々に作戦を立てて、兵を、陛下のすぐ足元にまで進めてきているという。
そちらサイドの陣営内、人心未だ、和して一体という状態になってはいないように、見うけられる。禍の芽は、内部にもあるのでは?
前には、北方の異民族の軍、後には、フェルガナの軍、攻めにうってでるのが良いのか、はたまた、守りに転ずるのが良いのか・・・まことに悩ましい所である。
しかしながら、陛下からもわが寺に、「朝廷軍に参加せよ」との勅命を何度も何度もお送りいただいていることであるし、貴寺からも牒状をいただいたことでもあるからして、我々も黙って見ているわけにはいかん、速やかに精鋭部隊を編成してそちらに送り、一日も早く逆賊を征伐するために、貴寺と連合することを、ここに約束する。
延元元年 6月日 興福寺衆徒らより
「興福寺、延暦寺に同盟・連合」との情報が伝わり、この戦の帰趨(きすう)を計りかね、いったいどちらについたものやら、と迷い煩っていた近畿地方とその周辺の勢力は全て、「延暦寺に加担し、それに協力しよう」という状況になっていった。
しかし、天皇のいる坂本は足利軍に完全に包囲されてしまっていて、そこへ参ずる事も不可能。そこで、「陛下の下よりお一人、腹心の方を我々のエリアの方におつかわしください、我々はその方を大将として頂き、京都を攻めてみますから」との要請を、坂本へ送った。
「よし、ならば」ということで、八幡(やわた:京都府八幡市)に、四條隆資(しじょうたかすけ)が派遣されてきた。
真木(まき)、葛葉(くずは)、禁野(きんや)、交野(かたの)(以上、大阪府・枚方市)、鵜殿(うどの:大阪府・高槻市)、加島(かしま:大阪市・西淀川区)、神崎(かんざき:兵庫県・尼崎市)、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)、加茂(かも:京都府・木津川市)、瓶原(みかのはら:京都府・木津川市)の武士たちがそこに馳せ参じてきて、たちまち3,000余騎の勢力となり、大渡の橋(おおわたりのはし:場所不明)の西手に陣を取り、淀川一帯の交通路を完全に押さえてしまった。
宇治(うじ:京都府・宇治市)へは、中院定平(なかのいんさだひら)が派遣されてきた。さっそく彼の下に、宇治、田原(たわら:京都府・綴喜郡・宇治田原町)、醍醐(だいご:京都市・山科区)、小栗栖(おぐるす:山科区)、木津(きづ:京都府・木津川市)、梨間(なしま:京都府・城陽市)、市辺山(いちのべやま:城陽市)、城脇(しろわき:城陽市)の武士らが馳せ集まってきて、2,000余騎。宇治橋2、3間を引き落とし、橘小島(たちばなのこじま:宇治市)のあたりに陣取った。
北丹波道(きたたんばどう)へは、大覚寺宮親王(だいかくじのみやしんのう)を大将とし、額田為綱(ぬかだためつな)に300余騎を率いさせて差し向けた。彼らは白昼、京都を通過、長坂(ながさか:京都市。北区)を上がっていった。嵯峨(さが:京都市・右京区)、仁和寺(にんなじ:右京区)、高雄(たかお:右京区)、栂尾(とがのお:右京区)の在地勢力に加え、須智(すち)、山内(やまのうち)、芋毛(いもげ)、村雲(むらくも)らの家の者らが馳せ集まってきて1,000余騎。京都を足下に見下ろす京見峠(きょうみとうげ:北区)、嵐山(あらしやま:右京区)、高雄、栂尾に陣を取った。
この他、鞍馬道(くらまどう)を、延暦寺西塔エリアの衆徒が押さえ、瀬田(せた:滋賀県・大津市)を、愛知川(えちがわ:滋賀県・愛知郡・愛荘町)、信楽(しがらき:滋賀県甲賀郡)の勢力が占領した。
このように、京都に通じる四方の七つの道のうち、わずかに唐櫃越(からうとごえ:西京区)だけを残して、他の全てが天皇軍によって占領されてしまった。諸国からの運輸は途絶え、京都内部の足利サイドは食料不足に陥った。しばらくは、馬や鎧を売って食物を得て、なんとか食いつないでいたが、とうとう、京都や白川の在家や寺々へ乱入し、衣服や食物を掠奪しはじめた。
公卿や殿上人らも兵火の為に焼け出されてしまい、こちらの辻堂、あちらの社殿に身を側(そば)め、僧俗男女(そうぞくなんにょ)は道路に食を乞うて、築地(ついじ)の陰、門の下の石畳の上に飢え伏している。日本の歴史が始まって以来、戦乱は数多くあったが、これほどの惨状は前代未聞である。
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「足利軍サイド弱体化、天皇軍サイド、再び優勢」との情報に、諸国の武士らが100騎、200騎と団体を成して、続々と坂本へ参集してきた。海の彼方の阿波(あわ:徳島県)や淡路(あわじ:兵庫県淡路島)からさえも、阿間(あま)、志知(しち)、小笠原(おがさわら)家の人々が3,000余騎でやってきた。
公卿F いやぁ、まことにたのもしい事ですやんか。
公卿G あんな遠いとこからも、こっちサイドに、馳せ参じてきよるとはねぇ。
公卿H 京都奪回のチャンス、今まさに到来、この機会を逃してはなりません!
公卿I 総攻撃の日取りを決め、京都の四方から攻めさせましょう!
そこでまず、四国勢を阿弥陀峯(あみだがみね:京都市東山区)に繰り出して、毎夜、カガリ火を焼かせた。その光は2里、3里ほどにわたって連続し、一天の星々が地上に落ちてきてきらめいているかのようである。
東寺(とうじ:京都市・南区)の楼門の上からそれをながめる足利軍に、どよめきの声が起こる。
足利軍メンバーJ うわぁ、ものすげぇ数だなぁ、あの峯に燃えてるカガリ火。
高重茂(こうのしげもち)が、すかさず一首詠んだ。
多くても 48をは 超えまいて 阿弥陀峯(あみだがみね)の 光だもんなぁ
(原文)多く共(とも) 四十八には よも過(すぎ)じ 阿弥陀峯(あみだがみね)に 灯(とも)す篝火(かがりび)
(注11)
足利軍メンバーK イェーイ、なかなかうまいこと、詠むじゃん。
足利軍メンバー一同 ウワッハッハッハ・・・。
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(訳者注11)浄土三部経(じょうどさんぶきょう)中の一・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、「阿弥陀仏の48個の誓願」が説かれているとのことである。
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再度、京都へ寄せて決戦を、と、天皇軍側では軍議決定、各方面への通達を行った。
士卒の士気を高めるために、後醍醐天皇はもったいなくも、紅の袴をお脱ぎになり、それを三寸ずつに切り裂いて、希望する武士に下付された。
7月13日、大将・新田義貞は、過去何度もの戦に生き残った一族43人を率いて、天皇のもとへ参じた。天皇は、一同を笑顔で迎えた。
後醍醐天皇 今日の合戦、過去にも増して、忠節をつくせよ!
新田義貞 ははーっ!
後醍醐天皇 うん、うん。
新田義貞 陛下、合戦の結果は、運次第であります。ですから、前もって勝負をうんぬんするのは、不可能と思います。でも、でも・・・。
後醍醐天皇 ・・・。
新田義貞 今日の戦、尊氏がこもってる東寺の中へ、矢の一本も射る事もなしに、退却しちまう、そのような事だけは、絶対にいたしません!
後醍醐天皇 うーん!
このように天皇に誓って、義貞は御前を退出し、前後に天皇軍を率いて出陣した。
白鳥岳(しらとりだけ)の前を通過している時、見物している少女が、朝廷軍の後方を進む名和長年(なわながとし)を見ていわく、
少女 なぁなぁ、みんな、「三木一草(さんもくいっそう)」ってご存じ? あたくし、知ってますよぉ。
見物の人L そんなもん、今時(いまどき)、誰でも知ってるわぁい。「三木」いうたら、結城(ゆうき):伯耆(ほうき)、楠(くすのき)。「一草」は、千種(ちぐさ)やろぉ。
少女 その人らはみな、天皇陛下から思う存分、ご寵愛を受けた人らやねんけどなぁ、もう3人も死んでしまわはった・・・伯耆の木だけは、まだ生き残ってるようやけど。(注12)
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(訳者注12)「結城」は、結城親光(ゆうきちかみつ)、「伯耆」は、名和長年(伯耆守)、「楠」は、楠正成、「千種」は千種忠顕。
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これを聞いた、名和長年は、
名和長年 (内心)なるほどなぁ・・・おれが今日まで生き残ってきたの、世間の連中らからは、こういう目で見られてたんだわ。あんな子供までが、あんな事、言うんだもんなぁ。
名和長年 (内心)よぉし、今日の戦、わが方の敗北に終わっても、おれはたった一騎になっても、戦場に踏みとどまって討死にするぞ。今日が、おれの最後の戦いだわな!
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