太平記 現代語訳 36-3 天王寺の金堂、再建成る
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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吉野朝廷(よしのちょうてい)・閣僚A 今回の大地震では、日本全国そこら中の寺院が、被害を受けたと聞いとります。中でも、天王寺(てんのうじ)金堂(こんどう)の倒壊(注1)、これほどひどい被害を受けたとこ、他にあらしまへん。
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(訳者注1)36-2 参照。
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吉野朝廷・閣僚B 地形の変動も、すさまじいもんがありますよ。中でも最大は、紀州(きしゅう:紀伊国=和歌山県)の山々の至る所にできた地割れ。
吉野朝廷・閣僚C どっちも、わてらの近所で起った災害ですからなぁ。
吉野朝廷・閣僚D こらほんまに、ただ事ではないわいな。
吉野朝廷・閣僚E 陛下におかれても御慎(おんつつし)みいただき、寺社にも加持祈祷を行わせるべきやろなぁ。
と、いうわけでさっそくに、様々の加持祈祷が始まった。
吉野朝廷・後村上天皇(ごむらかみてんのう)よりの勅命を受け、直ちに、般若寺(はんにゃじ:奈良県・奈良市)の円海上人(えんかいしょうにん)が、天王寺金堂の再建に着手した。
この工事の際には、希代(きたい)の奇特事(きどくじ)が多かった。
「なんせ、大きな建造物を建てるんやから、安芸(あき:広島県西部)、周防(すおう:山口県南部)、紀伊(きい:和歌山県)の山々から、大木を切り出す必要あり。1、2年程度の工事期間では、とても無理。」、というのが、大方の予測であった。
ところがなんと、2人がかりで抱きかかえるほどの太い桧(ひのき)の柱と、6~7丈ほどのカブキ(注2)300本が、どこからともなく難波浦(なんばのうら:大阪市の海岸)に漂着(ひょうちゃく)してきて、干潟(ひがた)の上に乗り上げた。
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(訳者注2)門や鳥居の上に渡す横木。
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「これはきっと、どっかの誰かのもんやろて、そのうち、誰か探しにきよるわい」という事で、しばらくそのままにしておいた。
ところが、いつまでたっても、「あの材木は、わてのもんだす」と、名乗り出てくる者が、一人もいない。
「さては、天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)が、今回の天王寺・金堂の再建工事を助けようと、この材木、送ってくれはったんやなぁ」ということになり、その材木を、虹の梁(にじのうつばり:注3)、鳳の甍(おおとりのいらか:注4)など、様々な部位に用いる事にした。
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(訳者注3)梁の一種で、虹のように上方に反っているもの。
(訳者注4)甍の美称。甍とは切妻屋根の下の三角形の部分のこと。
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「柱立て作業」が完了し、棟木(むねき)をその上に揚げよう、という段になり、工事担当・現場監督いわく、
現場監督 あれだけ重たいもん、滑車で持ち上げるんやからな、綱、大量に要(い)りまっせぇ・・・そやなぁ・・・科(しな)の木の樹皮でこしらえた綱、1000束(ぞく)は、用意してもらわんとなぁ。
円海 そうかいな。で、その、「科の木の綱」とやらは、いったいどこにあるねん?
現場監督 そんじょそこらには、ありませんでぇ。信濃国(しなのこく:長野県)みたいな山国に行って探さんと、あきまへんわ。
円海 そうか、それやったら、わし、行ってくるわ。知り合いの人らに、寄付、もちかけてみるわいな。
ところが、難波の堀江(ほりえ)の渚に、死んだ蛇のようなものが漂着した。
いったい何かと思って近づいて見たら、まさに、科の樹皮で編んだ太い綱であった。直径2丈、長さ30丈もの巨大な綱が16本も、水泡(みなわ)の中に列をなして横たわっていた。
円海はもう大喜び、その綱は直ちに、滑車にかける綱として用いられる事になった。
円海 ほんまにまぁ、これぞまさしく、第一級の奇特やわなぁ!
という事で、工事に使用した後に、円海はその綱を、宝蔵に収めた。
また、300余人もの大工がいる中に、肉を食べず酒を呑まない者が、多数いた。
円海 (内心)大工にしては、また、珍しもん(者)ぞろいやがな。いったい彼らは、なにもんなんやろ?
円海は、彼らの仕事ぶりをじっと観察してみた。
円海 (内心)なんと、なんと! 1人で10人分もの仕事、してるやないか、あの大工ら・・・あれは、タダモンではないぞぉ。
円海は、ますます不思議に思い、日没の後、帰路につく彼らの後ろ姿をじっと見送った。
円海 あっ! 消えたぁ!
にわかにかき消すように、円海の目の前で、彼らは姿を消してしまった。
円海 なんとまぁ・・・不思議な事もあるもんや・・・。
円海 いや待てよ・・・彼らは、たしか28人おったな・・・あ、わかったぞ!(両手を打つ)
円海の両の掌 パン!
円海 彼らはきっと、千手観音(せんじゅかんのん)様のご家来衆、あの二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)の化身(けしん)やな!
建築関連者一同 あぁ、なんとまぁ、ありがたいこっちゃ!(合掌)
このようにして、金堂はあっという間に完成し、美麗にして金銀を鏤(ちりば)めたその威容(いよう)を、地上に現した。
霊仏の威光と円海上人の陰徳、まさに、蓋が箱にピタッと合うがごとく、両者みごとなるマッチングを見た、実に奇特なる再建工事であったといえよう。
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一方、京都朝廷側においても、加持祈祷(かじきとう)の勅命が出された。ある寺の僧侶が、「東寺(とうじ:京都市・南区)の金堂が、1尺2寸南方へ移動し、真言宗(しんごんしゅう)の祖・弘法大師(こうぼうだいし)が、南方の天へ飛び去っていかれた」との内容の夢を見たからである。
「これは一大事、首都一円、大いに慎みあるべし」(注5)という事となり、青蓮院(しょうれんいん:京都市・東山区)の尊道法親王(そんどうほっしんのう)に、加持祈祷の勅命が下った。
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(訳者注5)この部分は、以下のようなストーリーであると解釈されよう:
弘法大師・空海が南方へ移動、かつ、空海にゆかりの深い東寺においても、金堂が南へ移動、これは、京都の南方にある吉野朝廷側に、大きな力が加わって吉野朝廷側が援護される事になることを予見させる夢である、と、京都朝廷側は解釈した、その結果、「これは一大事」ということになった。
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尊道法親王は、伴僧(ばんそう)20人と共に、8月13日から御所に伺候し、大熾盛光法(だいしじょうこうぼう)を修した。
さらに、聖護院(しょうごいん:京都市・左京区)の覚誉法親王(かくよほっしんのう)は、御所の清涼殿(せいりょうでん)・夜の御殿・東の間に参内し、9月8日から7日間、尊星王法(そんしょうおうぼう)を修した。
これのみならず、近年途絶(とだ)えていた金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)・問答も行われた。論者のメンバーリストは、以下の通りである。
第1日目
質問者(注6) : 延暦寺(えんりゃくじ)・尋源(じんげん) and 東大寺(とうだいじ)・深慧(しんえ)
回答者(注7) : 興福寺(こうふくじ)・盛深(しょうじん) and 興福寺・範忠(はんちゅう)
第2日目
質問者 : 東大寺・経弁(けいべん) and 東大寺・良懐(りょうかい)
回答者 : 興福寺・実遍(じつべん) and 延暦寺・慈俊(じしん)
第3日目
質問者 : 興福寺・円守(えんしゅ) and 延暦寺・円俊(えんしゅん)
回答者 : 園城寺(おんじょうじ)・経深(けいじん) and 興福寺・覚成(かくせい)
第4日目
質問者 : 興福寺・孝憲(こうけん) and 興福寺・覚家(かくげ)
回答者 : 延暦寺・良憲(りょうけん) and 園城寺・房深(ぼうじん)
最終日
質問者 : 東大寺・義実(ぎじつ) and 興福寺・教快(きょうかい)
回答者 : 延暦寺・良壽(りょうじゅ) and 興福寺・実縁(じつえん)
レフェリー(注8) : 大乗院(だいじょういん:注9)の前大僧正・孝覚(こうがく) and 尊勝院(そんしょういん:注10)の慈能(じのう)僧正
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(訳者注6)原文では、「問者」。
(訳者注7)原文では、「講師」
(訳者注8)原文では、「證義」。
(訳者注9)興福寺の塔頭である。[旧大乗院庭園]が、奈良市内に現存する。ここの門跡を務めた、尋尊、政覚、経尋が記した日記は、[大乗院寺社雑事記]と呼ばれていて、重要な史料である。特に、尋尊が記した部分は、応仁の乱の頃の史実を知るための重要なものである。
(訳者注10)陽範によって延暦寺の横川エリアに開創された「尊勝坊」が、そのルーツである。現在地は、京都市・東山区・粟田口。元三大師(がんざんだいし)を本尊とする。
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質問者と回答者は、朝と夕で席を替え、互いに論争を展開していく。仏教学の大海中から珠玉のごとき言説を拾い、双方堂々の弁論を展開、最終的には、レフェリーが勝負を決する。まさに論談(ろんだん)の林中に百花開き、プンナ(注11)の弁舌、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の智慧も、かくや、と思われるような一大盛儀である。
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(訳者注11)釈尊の十大弟子中の一人、「弁舌第一」と称された人。
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