たくさんの人の手によって助けられたほうがいいな~
人って置換されないものだと思う。よしんば技術が進んだとしても置き去りにされる何かは存在すると思う。その不完全さが豊かさでは?ただし生活での不便さが改善されることにおいて都合よく生きていくーある種の知恵として要るなあ。
そういうことを考えつつ、ぼんやりTwitterを開いていた。
すると重度精神疾患(自閉症・強度行動障害)の患者さんの記事が流れてきた。要約すると、ご本人が幼少期からいろんなサービス利用を試したけれども申請が通るものと通らないものが現行であり支援者である家族も疲弊し病気になりながら生活を続けているとのことだった。
読んでいて、なんとなく以下のことを思い出したので書く。
以前、幼保連携型の施設で勤めていたときに、土曜日になるとやってくる男の人がいて、勤め始めたときはものすごく不審者だと思って園長に「保護のために通報しないんですか?」と尋ねたことがある。
園長は、「毎週じゃないんだけどね。たまに来ちゃうのよ。」とふらっと猫かなにかが現れたみたいに言い、インターホン越しに「〇〇くん、ごめんねえ。園に通っているこどもしか入れないのよ。」と帰していた。
想像するに、平日はデイサービスを利用していても休みがある。その関係だろう。
そういうことが何回かあり、あとは夕方の送迎時と重なって入ってきたこともあって、リアルさすまたで園庭から門へ誘導されていた。
(ちなみに教室内の児童と先生にはちょっと緊張がはしった)
適切な距離感とはなんだろうか。
個人的な快適さもあるが、規則として置かれている防波堤でもあるように思う。だって危害を加えられたくないし。では、そのまえに人として、今何ができて、何がどうして出来ないのであろうか。
以前、介護福祉施設に勤めたときに業務の途中ですれ違ったり接する、
利用者本人や支援職の人たちの様子を見ていて思ったことがある。
・利用者も職員も出来る限り多くのひとと関係したほうがよい
・発語ができる会話ができるほうが圧倒的に大切にされる
・食事介助のときに、お互いが緊張やちょっとした依存があると進みにくい
・排泄や入浴介助はたいへん…なのでよく職員から愚痴がこぼれる
(介助、ここはよ技術でどうにかならないかなって思ってる。絶対しんどい)
いつも、いろんなひとの孤独をすこし垣間見てはどうしてもあげられなくて、どうにかしようとかではなくてただのおきもちとして心のどこかでざらざらとしたものが流れている。
というのは、少なくとも私はいろんなひとに助けられてきたし、今現在も気軽に「助けて!」と言える環境をつくろうとしているからなのだけど、もしこれがうまく出来てなかったらの世界線はすごくつらいなあと思ったのです。
もちろん、人の欲望は都度変わる程度には際限がないし、それを理性や知性で押しとどめることが叶うかどうかは人間次第だと思うんだけど、そもそもの不快さとの付き合いって人に余裕があってはじめて出来るんじゃないかなって思う。
ちなみに、いろんなひとに助けてもらうと、周りから何を言われるかというと、
・あなたひとりに何人分のリソースを割くの?
・みんながんばってる。あなただけがとくべつじゃない。
などなど、ひじょうに貧しい世界観、ひとひとりがしあわせになってはいけない世界観を示されるのですが、ものすごく人の鏡であるなと思っていて、
ほんとうはあなたも私みたいに助けてほしかったんだよね。と思うことにしています。それと、私も助けられる内容と範囲では出来る限りしています。
微々たることかもしれないのですが、されたいことを言って(あるいは可能な方法で表現して)ください。されたくないことも教えてください。それが回り巡っていくといいなと、ひそかに思っています。
いつもありがとうございます。
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