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東日本大震災体験(2011.3.11)その2 【完】

■3月16日(水)

雪が降りしきる中、山形自動車道が閉鎖されているため、一般道を仙台から山形に向けて出発しました。この時点で、ガソリンが半分以下の状態でした。ガソリンを補給したかったのですが、ガソリンスタンドもクローズしています。

夕方、仙台を出発し一般道で山形へ向かいましたが、雪がどんどん降ってきます。大型トラックも多く、必死で運転したのを覚えています。そして、ようやく山形に到着。ホテルもなかなか予約できなかったところ、取引先の旅行会社の社長が、山形グランドホテルを予約してくれました。そこで、ようやく久々に、バスタブにゆっくり浸かることができました。東京に住む娘が、パソコンをチェックしながら「キャンセル待ちだった17日の山形から羽田への飛行機」を予約してくれることが出来ました。

■3月17日(木)

山形は朝から雪でした。会社の車を取引先の旅行会社に預かってもらい、そこからタクシーで山形空港へ。相変わらず雪は降り続けています。空港へ到着すると、何と、私が乗る予定の前の便が、雪のためにまだ飛び立てない状況でした。もしかしたら、また山形に泊まることになるかもと覚悟しました。そんな中、除雪車が懸命に作業をしてくれ、何とか前の便が飛び立ち、そして私も、ようやく飛び立つことができ、羽田に無事到着しました。

この時の気持ちを、今、思い返してみると「別世界の平和な街」に帰ってきたというのが、偽りのない心境でした。普通に電車が動き、コンビニも営業しています。そして家族の元に帰ることができ、安堵したのを覚えています。

■3月18日(金)

東北支店の状況報告と今後のことについて相談するために本社に出社。部下の課長とも再会しました。実は、震災の日、部下の課長は冠婚葬祭のため、東京にいたため、そのまま本社に出社し、東北支店管轄の代理店の安否確認並びに、お客様対応を行ってくれていました。相談の結果、当分、東北支店は休業のまま、代理店並びにお客様対応は本社で行うことになり、私の机も用意されることになりました。

■3月21日(月)

本社に出社すると、社長秘書から社長室に来るようにとの伝言。すると「三井さん、明日仙台に戻って下さい。私も一緒に行きます」とのこと。まさかの展開に驚きはしましたが、社長命令とあれば、それに従うしかありません。再び、翌日の羽田~山形便と山形市内のホテルを予約。そして課長も一緒に仙台に戻ることになりました。実は、課長も仙台に単身赴任中でした。自分の部屋の状況や、自家用車がどうなっているかもわからない不安な状態だったのです。

■3月22日(火)

社長と3人で山形に到着。山形グランドホテルに宿泊。

■3月23日(水)

預けておいた営業車で仙台に向かう計画でしたが、ガソリンを補給しなければ、仙台までは行けるかどうか微妙な状況でした。しかしながら、山形市内のガソリンスタンドもクローズしているところが多く、営業していても、長蛇の列といった状況でした。山形~仙台のバスが運行していることがわかり、営業車を課長に託し、どこかでガソリンを補給して仙台に戻るように指示し、取り合えず、社長とふたりでバスで仙台に向かいました。JTB東北本社へ挨拶し、午後東北支店へ。そこに課長も何とか無事に仙台に到着。結局、ガソリンの補給が出来ないまま、仙台に戻ることを決断。「ガス欠」の覚悟で、ひやひやしながら、取り合えず自分のマンションまで到達。そこから、自家用車で会社に来たとのことでした。幸い、課長の部屋も自家用車も無事だったとのことでした。

支店の中に入り、取り敢えず、倒れたキャビネや動いた複合機などを元に戻し、散乱した書類などを片付けました。幸い、パソコン、複合機、電話機などは全く壊れていなかったのですが、私の机は、倒れたロッカーで破損し、のちに、新品に取り換えることになりました。

■その後

実は、私は日記を1994年から毎日記録として書き続けています。ところが、今回このnoteを書くために当時の日記を開いてみると、何と「2011年3月19日から5月20日までの2か月間」がすっかりブランクになっているではないですか!一番残しておきたかった記録が全く残っていないのです。愕然としました。その期間以外は、これまでの約27年間、一日も記録の無い日は有りません。

おそらく当時は余りにもショックが大きく、日記を書こうという気持ちになれなかったのだと思います。このnoteを書こうと思ったのは、きっと日記をたどれば、当時のことを思い出して書けると思っていたので、ある意味、そのことにショックを感じています。

ここから先は、記憶をたどりながら書いていこうと思います。

*仕事について

私は損害保険会社に勤務していました。損害保険会社の場合、営業の休止についても、金融庁への届け出が必要です。2週間程度支店閉鎖した後営業を再開しました。高速道路が開通してから、東北各県の代理店を訪問しました。三陸海岸沿いにあった代理店で、津波に流されて廃業になった代理店もありました。幸いお亡くなりになった方はいませんでした。三陸海岸を営業車で走っていると、海岸沿いはすっかり津波に流され、そしてちょっと高台に行くとすっかり平和な街並が、そして再び、全く何もない・・・本当にこれが現実なのか?と思ったことを、今、思い出します。そして、その頃も、まだ余震が続いていたため、運転しながら「またもし今、地震がきたら、どうしよう・・早くこの場所を離れたい・・」そんな思いでいたのを思い出します。

本社では「緊急対策本部」を立ち上げ、火災保険の地震特約に加入されているお客様には全件連絡を入れ、被害状況の確認並びに保険金請求の仕方についてご案内しました。その後、本社の「お客様損害サービス部」の担当者と「損害鑑定会社」のメンバーが、1週間単位で、仙台に常駐し、ほぼ全ての加入されている契約者のお宅を訪問し、保険金支払いを行いました。震災後から5月末頃まで、すべての損害保険会社の社員が全国から動員され、保険金支払いのための実地調査を行っていました。レンタカーや、タクシーを1日貸し切りにして実地調査を行いました。この時ほど「地震保険」の大切さを感じた経験は有りません。

市内のホテルは、震災直後、ガスが使えないため、シャワーも使えない状況でした。それでも営業を行っていました。

*日常生活について

電気と水道は、地震の翌日に復旧しましたが、都市ガスについては、何と復旧したのが震災から1か月目(4/5)でした。この間、当然のことながら、自宅で風呂に入ることができません。電気ポットでお湯を沸かし洗面器にためてタオルで身体を拭く。そんな毎日でした。そして、プロパンガスの家オール電化の家は、お風呂を沸かすことができるわけです。幸い、マラソン仲間が声をかけてくれ、2度ほど使わせてもらい、今でもとても感謝しています。

都市ガスの復旧が、何故、そんなに時間がかかるのか?引っ越しを経験された方はご存じだと思いますが、1軒1軒、開栓するために立ち合いが必要だからです。そのため、仙台市内には、全国のガス会社の営業車が終結していました。

震災後、公共交通機関がほとんどストップしたため「自転車」が必需品となり、巷の自転車屋では、瞬く間に売り切れになりました。街に出ると、リュックを背負い、自転車で移動する人々を多く見ました。おそらく食料の調達が目的だと思います。そして多くの女性が化粧をしなくなりました。戦後の風景は、きっとこのような感じだったのでは無いかと思いました。

仙台市内の飲食店も、約1か月は都市ガスが使えない状況でした。それでも、多くのお店が、カセットコンロで調理を行い、店頭でお弁当を販売したり、一部の居酒屋も、少しずつ営業を再開し始めました。通常は、当たり前に営業していたはずのコンビニは、全く営業できなくなりました。長い間クローズの状態でした。日頃、コンビニ頼りの方々にとって、お弁当が手に入るようになったことは、とても有難いことでした。

仙台市内では「ダイエー」が一番最初に営業再開したのを記憶しています。具体的な時期は思い出せませんが、3月後半だったと思います。寒い中を長蛇の列でお店に並びました。ひとりあたり5点までの制限で買い物したのを覚えています。この時は、電子マネーやカードは使えず現金のみでした。

当時、妻や親戚から、食料を送ってもらおうとしましたが、当然のことながら、全く配送できない状況でした。

多くの人が、風呂に入れない状況でした。秋保温泉の共同浴場が営業している情報が有り、マラソン仲間と一緒に行ったのが今では懐かしい想いでです。当時、秋保温泉の旅館やホテルには、全国のパトカーが集結していました。目的は、治安維持と、壊れた信号機の代わりに手旗信号を行うためと聞きました。震災直後、被害に遭った家の盗難や、銀行のATMを狙った犯罪がかなり横行していました。また、多くの信号機は止まったままでした。

震災後、何日目かは定かでは無いですが、床屋やヘアーサロン「洗髪のみ500円」のサービスが始まったのを記憶しています。多くの方が、風呂に入れない状況が続いていたので、とても有難く感じました。

*震災が原因で別れたカップルと、震災がきっかけで結婚したカップル

女性がマラソン仲間でした。彼女は当時、バツイチ。彼女の実家は新潟で、仙台のアパートで一人暮らし。彼は両親と同居でした。震災当日、彼女は真っ暗なアパートで、余震が続く中、ひとりで彼が来てくれるのを待ちました。しかし、彼は来てくれませんでした。なぜなら彼女との交際のことを両親に隠していたからだそうです。結果、別れることになりました。その後、彼女は実家に戻り、別の方と結婚することになりました。

一方、震災のボランティアがきっかけで、めでたく結婚したメンバーもいます。

■最後に

震災からまもなく11年が経過します。日本は、いつ、どこで再び震災が起こっても不思議では有りません。震災から3年後「石巻の大川小学校」へ行ってきました。校庭の真ん中で多くの生徒と先生方が津波で犠牲になった学校です。校庭の真ん中からは、津波が流れてきた川は全く見えません。校庭の裏側には、斜面のきつい山が有ります。今、もし同じような地震が発生したら、間違いなく、あの斜面を登って逃げることはできただろうと思います。しかし、あの時、もし自分がその立場だったら、小さな子供たちに「登って逃げろ!」とは言えないだろうと思うくらいのきつい斜面でした。

あの日、あの時、無事でいられたことは、運命でも有り、奇跡だと思っています。それでも、震災後、しばらくの間、エレベーターに乗ること、車の後部座席に座ること、飛行機や乗り物に乗ることが、精神的に辛くなりました。私は、他の方に比べれば、それほどの被害を受けてないわけですが、それでも、そんな気持ちになるほどの体験だったんだと思います。

これからも、常に、準備できることは準備して、万が一に備えていければと思っています。






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