新入社員の時に味わった与信管理の難しさと厳しさの記憶が今蘇る!
さて、今回は、与信管理シリーズ第一弾の話になります。
新入社員として審査部に配属され、最初に担当した営業部署が東京の繊維部隊の一つでした。
時代は丁度バブル崩壊が騒がれ始めていた平成2年の秋に差し掛かっていました。
都内にある小規模な生地卸の会社に対して、担当営業部から、取引増加をしたいとの事前の相談を受けて、担当の私も含めて4人で訪問調査を実施しました。
具体的に、私以外のメンバーは、私の上司の室長、それに担当営業課の課長と担当者(同期)から成る4人でした。
取引与信枠として、プラス30百万円の増額申請でした。自分自身にとっては、実質初めて体験する真剣な訪問調査でした。
当時、都内には、所謂生地屋と言われる、生機取扱のブローカーが多数存在していて、設立間もない零細企業も多かったのですが、私が所属していた会社でもそのような客先との取引が多数存在し、バブル期に乗じて、勢いを増していたのも事実でした。
入社直後の審査部での営業部からの申請内容は、繊維部隊に関して言えば、取引を増やす為の増額申請の嵐であり、取引を縮小するとか、意図的に辞めさせるというような社内での風潮は皆無に等しく、営業部の鼻息は荒かったと記憶しています。
訪問調査に備えて、事前に質問事項を審査部で作成し、それを営業部ともすり合わせして、本番に臨みました。
案の定、訪問した会社のオフィスの雰囲気・構えは、正直、華やかな繊維業界とは思えない程の何だか薄暗い雰囲気を呈していました。面談したその会社の社長の風貌もしかり、正直個人的にはあまり好まないタイプのいい加減さが滲み出ていて、受けた印象は今一つでした。
ただ、営業部が入手していた決算内容と、直近の月次決算の内容を示す月次試算表の数字を見る限り、黒字は継続していました。ただ、足許の受注オーダーの増加傾向に追いつかない位、厳しい資金繰りの中で、更に与信枠を増やそうという、今思えば、実に無謀な限度増額申請であったのは事実です。
面談時の質疑応答も全てクリアな回答ではなかったものの、その時点での支払振りに問題がなかったこともあり、完全に増額申請を否決する程の具体的且つ明確な根拠・理由を挙げることができない中で、最終的には、期間限定でのピーク与信の増額を許可する方向で、その後社内決裁が取得されました。
さて、皆さん、その後どうなったと思われますか?
増額決裁後に、予定通り、与信残(債権残)も増加し、さて次回のその客先からの支払期日が到来する前後で、営業部から嫌な連絡を電話で受けました。
それは、ここ数日、相手と連絡が取れない、電話しても繋がらない、コールバックがないということでした。
直ぐに、営業部でその客先の事務所を訪問したところ、何と、蛻の殻の状態で、誰もいない、何も物も残っていない状態になっていたのでした。
これぞ、まさに映画で見た「夜逃げ」、行方不明、連絡が取れずの状態であり、結局、最近増額したばかりの金額を含め、相応の焦付が確定してしまいました。
実にショックでしたね。入社して初めての焦付案件であり、しかも増額申請をしたばかりの段階で、夜逃げにあい、これぞ会社の倒産の実情、実態を目の当たりにすることになった貴重な教訓事例になりました。
この経験から、私は以下の教訓を得ました。
1)会社は倒産するということ
2)審査業務に私情を差し挟む余地は一切ないこと
3)相手方の体力に見合った与信が存在すること、でありました。
その頃、日本はバブル崩壊の時期に当たり、これ以降も、私は幾度となくお客様の倒産事例に直面し、ある時は焦付き、ある時は焦付金額を軽減・回避できたこともありました。
ただ、今回ご紹介した焦付の苦い体験が、結局、53歳で早期退職するまで、ずっと脳裏にこびり付いていたということになるんですよ。
極めて苦い経験でありましたが、自分自身の総合商社での審査マンの経歴を語る上で、絶対に欠かせない新入社員としての貴重な失敗談でありました。
Rユニコーンインターナショナル株式会社
代表取締役 髙見 広行