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「天使はだれのもの」


 この世界に点在する天使の数は、正確には判っていないそうだ。イエスの使徒ヨハネは、黙示録に『千の数千倍、万の数万倍の天使を見た』と記した。そう何かで読んだ記憶がある。
 天使は数え切れないほどたくさんいて、天使に出逢ったことがあるという人間がいても嘘とは言い切れない。そんなことを考えながら駅のホームに降り立ったのは、十二月も後半の太陽が沈んだ直後のことだった。

 当初予定になかった帰郷は、半月ほど前に偶然立ち寄った古書店がはじまりである。
「いらっしゃいませ」
 入ってすぐ、カウンターの向こうから女の子の声がした。姿は見えなかったが、そちらに向かって小さく頭を下げ、迷わず奥へと進んだ。書物を探していたわけではない。通りからちらりと見えたものの正体を確かめたかったのだ。
 間口の割に奥行きのある店で、和書の前を通り過ぎると次は洋書の棚がある。その棚の前に、件の品、大きなクリスマスツリーが飾られていた。見たかったのは、僕の背丈ほどもあるツリーの天辺で翼を広げる天使である。間近で見ると、白く見えた衣装は生成りのレースで飾り立てられており、顔は天上を見上げるでもなく地上を見下ろすでもなく真っ直ぐ前を見ているのがわかる。人間で言えば、美しい大人の女性と可愛らしい少女のちょうど中間あたりの年頃だと感じた。
「珍しいでしょう」
 いつの間にか、店の女の子が僕のすぐ後ろで天使を見上げていた。大学生か、あるいは卒業して一、二年というところだろうか。ウエーブのあるふわりとした髪を一つにまとめ、赤と緑の細いリボンを結んでいる。
「ツリーの天辺に天使を飾ることもあるんですね」
 目当ては、本ではなくクリスマスツリーであることを告げたほうがいいという気がした。
 女の子が大きな目を真っ直ぐ僕に向けた。カールした睫毛がとても長い。
「よく見かけるのは星だけど、地方によっては天使や聖人を飾る習慣があるんですって。イギリスからのお客様が教えてくださったの」
「へえ、初耳です」
 女の子は、さらに続けた。
「叔母がね、わたしの母の妹にあたる人なんだけど」
 続きを聞きたい?というように僕は顔をのぞき込まれた。もちろんというように、小さく頷く。待ってましたとばかりに、彼女は話を続けた。
「叔母の名前は桔梗ききょうさん。……ちなみにわたしの母は桜子さくらこ。両親がそれぞれに好きな花への思いを娘に託したそうよ。桔梗さんは大学二年生のとき、一年間の予定でイギリスの大学に在籍することになったの。でも、一年が過ぎても、まだ勉強したいことがあると言って戻らなかった。つまり、好きな人ができたということ」
 この流れで、つまりという接続詞を用いることが妥当かどうかについて、意見を述べるのはよした。話の腰を折るのは無粋だ。
「帰ってこいと言っても無理ですの一点張り。業を煮やした祖父は、遠縁にあたるわたしの父をイギリスに行かせることにしたの。首尾よく桔梗さんを連れ戻せば、桜子をお前にやってもいいと言ってね」
「それで、お父さんは桔梗さんを連れて帰ることができたんだね」
「すごい。どうしてわかるの」
 鈍感な僕でもそれくらいわかるさ。その男性を君が父と呼んでいるのだから。
「これは、桔梗さんが持ち帰った天使……ということかな」
「ご名答」
 笑うと、だれかに似ている。
「でもね、話は終わりじゃないの」
 声がほんの少しだけ抑え気味になった。
「帰国してからも、何年かの間二人はこっそり逢っていたの。その結果、赤ん坊が産まれてね。でも、結婚は叶わなかった。相手の人は、すでに他の女性と一緒になっていたから」
「酷い」
「仕方がないわ。運命だもの」
「……」
「桔梗さん一人で育てるのは難しいだろうってことになって、今の両親の子どもとしてわたしは育てられたの」
「あ……」
 こんなふうに、初対面の女の子から出生の秘密を聞かされたら、なんと答えるのがよいだろう。困惑した僕は、会話のきっかけとなった天使を見上げ、助けを求めた。
「どうかした? わたしの数奇な運命、ちょっと刺激が強すぎたかしら」
 そりゃあそうさ。が、もっと気になることがあった。
 ずいぶん前に、僕は天使を見たことがある……と、そんなことを思い出したのだ。輪郭は曖昧だが、僕だけが知る天使がいる。
「心配しないで。その後桔梗さんは結婚して、まあまあ幸せに暮らしてるから。目標は、息子をお医者にすること。最近、その息子が進路相談で『夢は写真家です』って言ったんですって。桔梗さん、帰るなりカーテンを引き裂いたらしいわ。エキセントリックなの」
 やれやれ。どこの家庭も何かしら問題ありだ。……とは、もちろん口に出せるはずもない。
「大切な話を聞かせてくれてありがとう。僕はこれで失礼するよ」
 運命に翻弄された男女から生をうけた彼女に見送られ、僕は古書店を後にした。

 これが、半月前の出来事だ。この後、僕は大急ぎで仕事の調整をして長目の休暇を認めてもらい、生まれ育った地へと向かった。自分の内側にある朧げな天使の正体を、はっきり見定めたいと考えたのである。


「ただいま」
 玄関の引き戸を開けた途端、妹の瑠加るかが奥から飛び出してきてぎゅっとしがみついた。そして、母の足音が近づくと外へ出て行った。
「ただいま戻りました」
「本当に帰ってきたのね」
 母は呟き、それから僅かに笑みを浮かべた。
「しばらくいていいかな」
「そう、しばらくいるの」
 事情を尋ねるでもなく、説明するでもないへんてこりんな親子だ。
 いつ頃からだろう。母は心の内を僕には明かさないと、そんなふうに感じることがあり、僕のほうでも本音を語ることをやめてしまった。互いの暮らしにも踏み込まないようにしている。僕が学生時代から五年以上も女性と暮らしていると聞いたら、母はどんな顔をするだろう。
 夕飯時に瑠加は現れなかった。僕が自室にこもるうちに戻り、疲れて寝たのだろう。口のきけないあわれな子。従姉妹が産んだ忘れ形見の女の子。
 ぐっすり眠れないまま起き出したのは夜明け前のことだ。雪が降る前にどうしても見ておきたい場所があり、古い自転車で森へ向かった。深く息を吸い込むと、気道が凍てついてしまいそうだ。これほどまでに清涼な場に身を置き、神々しい空を見上げてしまったからには、二度とあの都会に戻れないのではないだろうか。
 とは言え、野乃花ののかはどうする。別れを切り出したら彼女がなんと答えるか、まるで見当もつかない。そんなことを思いつつ、僕は駐輪場の隅に自転車を立てかけ、珊瑚色に染まった雲を横目に歩きはじめた。せせらぎの音がすぐ近くから聴こえる。
 亡くなった父との思い出は数えるほどしかなく、そのほとんどはこの森が舞台だ。売れない画家だった父は、僕をスケッチや植物採集に付き合わせるのみで、一緒に遊んでやろうという気は、露ほども持ち合わせない人だった。さらに言わせてもらうなら、森を訪れては僕以上に子どもっぽい遊びを夢中でする人だった。
 そんな父が、森から続く標高六百メートルほどの山へ登り、向こう側にある海を見ようと計画を立てたことがある。当時僕は十歳くらいだったはずだ。同居していた祖父母は無謀だと反対したが、父は耳を貸さず、初夏の早朝僕を連れ出した。
 そして、その日、僕は天使を目撃した。
「このあたりは、昔から天使が羽を休めるのにもってこいの気候と地形なんだ。運が良ければ、今日あたり天使が飛び立つところを見られるぞ」
 そう言って父は僕のほうを振り返りもせずどんどん山道を登って行くから、はぐれないよう必死で付いて行くしかなかった。

「やあ、君たちも天使を見たことがあるかい」
 ふいに、昨夜母に休みますと言ったきり言葉を発していないことに気づき、姿を見せないまま囀る小鳥たちに語りかけてみた。なんとはなしに野乃花の言葉を思い出したのだ。
「見えないからって、なくなったわけじゃないわ」
 いつだったか満月を楽しみにしていた僕が、曇り空を眺めてがっかりしていると、野乃花がからかうような口調でそんなことを言った。確かに正論だ。月は空の向こうにもちろんある。地球の衛星だからね。ぐるぐる回り続けるんだ。塵になるまで回る。塵になる? 月が? それとも地球が? いや、月と地球と僕だったら、最初に塵になるのはこの僕だ。
 考えるうち、ずいぶん前に天使を見たと思い込んでいる自分を笑いたくなった。どうしてそんなファンタジックなことを信じているのだろう。野乃花に話したら、笑うどころか気味悪がるかもしれない。

 折り重なった常緑樹が隠している小道から、ぬうと灰色熊が現れたのは、こうして物思いにふけっていたときだった。
 夢を見ているのだろうか。それとも現実に起きていることなのだろうか。見分ける術を持ち合わせないまま、ただ呆然と熊が歩を進めるのを見守るしかできなかった。


 十五メートルか二十メートルは距離があるように見える。それでも、檻も柵もない場所で見る熊は迫力があり、息を呑むことさえはばかられた。不思議と、恐怖が満ちてくることはなかった。熊の背に、女性が一人いたからだと思う。横座りになったその人は、足先まである朱色のワンピースを身にまとい、頭に金の小さな冠を載せていた。栗色の髪は、腰を下ろした熊の背に届いている。手には、大きなリースを持ち(たぶんスギとかヒバとかそうした類の葉だ)、前方を見つめたまま身体を熊の背に預けていた。
「もしもし、その熊の背で揺られるのはどんな心持ちがするものですか。ひとつ替わっていただくことはできませんか」
 おとぎ話であれば、僕はそう話しかける役回りだろう。しかし、声をかけるのはおろか一歩踏み出すことさえできなかった。そんな僕をさらに驚かせたのは、熊に付き従うように現れた二人の人物である。
 一人は父、もう一人は従姉妹の鈴羽すずはだった。
『お父さん、生きていたんじゃないか。鈴羽もどうして……。長い間、音信不通のまま、子どもを、あの幼気いたいけな瑠加を預けっ放しにしておくなんて』
 これは、二人が他界したと信じ込んでいた僕が咄嗟に言おうとしたことだ。しかし、灰色熊がどれほど危険な生き物かを測りかねた上、冠の女性の前に進み出るのは畏れ多い気がして躊躇した。それで、しばらく一行の様子を見守ることにした。
 熊はさらにゆっくり歩を進め、僕から数メートルの位置で立ち止まった。冠の女性も熊も微動だにせず前だけを見つめている。僕からは、熊と女性の横顔が見て取れた。
 一方、父と従姉妹の鈴羽は、てきぱきと仕事を進めていた。葉を落としたブナの前で父は画材を並べ、鈴羽は白いコートを脱いでこれもまた白のドレス姿になった。そして、落ち葉が敷き詰められた地面にひざまづき、か細い腕がむき出しになるのもかまわず両手を組んでから、天を見上げた。
 以前このあたりに小さな小屋があったはずだが……と、あたりを見回し視線を父たちに戻した瞬間、僕はあっと声を上げそうになった。父が鈴羽の後ろに回り、背中から白い大きな翼を取り出し広げたからだ。その奇怪な光景を見るうち、僕の脳裏には、以前天使を見たときの記憶がまざまざと蘇った。

 あの日、父と森から続く山に登り海を臨んだとき、僕たちは天使が飛び立つ瞬間に遭遇したのである。
「ほうらな、そろそろ飛ぶ頃だと思っていたんだ」
 父が得意げに笑った。
 実際のところ、僕は天使を天使だと認めるほどには見ていない。眩い光に包まれた白い翼を持つ何かが、山頂にしつらえられた鉄柵を超え海に向かって飛んで行くのを見ただけだ。それを父が天使だと言うから、僕も天使を見たと思い込んだ。
「あの天使は、半年ばかり前、クリスマスの頃に猪の罠にかかって翼から血を流していたんだ。珍しく大雪が続いたのを櫂も覚えているだろう。天使は寒いところが好きだから、嬉しくて油断したんだな。俺はオトギリソウで治療して、ブナの森の小屋に隠しておいたさ。それが最近小屋に戻らなくなってな。飛ぶ練習をはじめていたんだろう」
 父の話を聞いて、僕は思い浮かべていた。片翼から流れる赤い血で雪原を染めながら、天使が彷徨さまよう姿をだ。そして、天使を介抱するのが僕だったらよかったのにと夢想した。
 それにしても、鈴羽はどうして天使に扮しているのだろう。鈴羽は僕の母の妹の娘だ。僕たちは同い年で、小学校に上がるころまではよく遊んだ覚えがある。八年ほど前、高校生のとき家出をして戻ってきたときには、あとふた月で赤ん坊が産まれるという状態だった。半狂乱になった叔母のところに置いておくよりうちのほうがいいだろうと、母が引き取り世話をしていた。
 家出をする前の鈴羽は、鋭い刃物のような娘だったが、戻ってからはすっかり毒気をなくして小鹿のように弱々しく見えた。この鈴羽であれば、ずっと僕の家で暮らしても構わないと思ったものだ。しかし、産気づいた鈴羽は救急車で運ばれていったきり帰ってこなかった。赤ん坊だけが小さなおくるみにくるまれ、母に抱かれて帰ってきた。それが瑠加だ。瑠加が生まれてすぐに僕は大学に入学し故郷を離れた。だから、瑠加の世話はずっと母一人で担っている。

 鈴羽は、祈るポーズを取ったきり、しおらしくモデルの役目を果たしている。父は父で、イーゼルの前で小刻みに手を動かしては天使に扮した鈴羽を眺め、また絵に手を加えるという作業を繰り返していた。
『天使は寒いところが好き』と、確か父は言っていた。雪になるのだろうか。ぼんやり考えていると、父がおもむろに僕のほうへ顔を向けた。
かい、来ると思ってた。待っていたよ」
 聞き覚えのあるよく響く声だ。
「……え、」
「おまえは絵を描くのが苦手だったな。男の子は母親に似るそうだ。俺もそう思うよ」
「お母さんに……」
「女の子は俺に似ているだろうな。逢わなくてもわかるよ」
「女の子……って?」
「生真面目で馬鹿正直。それが林子りんこさんだ。愚直にしか生きられない林子さんが、俺には眩しかったよ。隠しごとも下手だったな」
 会話が噛み合わない。
「お父さん。こんなところにいったいいつからいたの。みんな探していたんだよ」
「うん? みんな? みんなってだれとだれのことだ」
「それは……」
 改めて言われると困った。えっと……と、指折り数えようとして、僕は自分の手が子どもの手なのに気づき、ぎょっとしてあたりを見回した。父と鈴羽はこちらを見て、にこにこ笑っている。
「どうして……」
 どうして僕は子どもなのと尋ねようとしたが、父は耳を貸す気はないらしい。
「なあ、櫂。希望にはどこか残酷なところがあるし、絶望には甘美な匂いがある。世界は矛盾に満ちているだろう。平和を願う一方で、争いが起きなければ家族を養えないやからもいる。俺はそうした矛盾に耐え切れず逃げ出したのさ。今じゃ、こっちの世界で天の神さまの言う通りだ。お前はどうする」
 問いかけなのか、独り言なのかさえわからない。
「俺はお前に何をしてやれたのかな。これからも、お前はお前で生きていくしかない。けどな、悔やんじゃいない。すっかりお任せした身だからな」
 言うべきことは言ったというように、父は筆を置き絵の具をしまった。それからイーゼルを畳み、丁寧な手つきで道具をすべて地面に積んでから、鈴羽の背に手を這わせた。鈴羽は翼が畳まれると、白いコートをまといフードを被った。父がじゃあというように手を上げ、熊、鈴羽、父の順で遠ざかって行った。だれもさよならを言わなかった。振り返った者もいない。ただ、そこに絵が一枚置き去りにされていた。


 どんなふうに森を出てきたのか、よく覚えていない。自転車を駐輪場に置いたまま、歩いて帰ってきてしまった。大きな絵を抱えているせいで、自転車には乗れないと判断したのかもしれないが、それさえも記憶にない。
「櫂くん」
 あの路地を左に曲がれば家に着くというところで名前を呼ばれた。
「鈴羽?」
 よくよく見ると野乃花だった。白いコート、白いブーツ、白い手袋。見慣れた姿なのに、ついさっき森で見た鈴羽の姿が重なったのだ。もしかして?と、思わず自分の手を見た。タイメックスの時計がある。助かった。これは、大人の僕だ。
「櫂くん、よかった。無事でよかった」
 野乃花は両手を広げて僕に抱きつこうとして、絵が邪魔をしているのに気づき苦笑した。
「どうしたのそれ」
「野乃花こそ。今日は仕事じゃ……」
 言いながら、今日が木曜日で野乃花が勤める歯科医院は休診なのを思い出した。これまで何度も木曜日に仕事は? と尋ね、嫌な顔をさせてしまったことがある。ごめん、野乃花。
「たいへんだったのよ。もしいつもの時間に出かけていたら、櫂くん今頃は……」
「いったい何が……」
 すぐ後ろから母もやってきた。
「野乃花ちゃん、寒いわ。家に入って。櫂もほら、一緒に」
「う、うん」
 僕の腕を取り、野乃花が早口で言う。
「脱線事故で人が亡くなったの。一両目に乗った人が六人も。意識不明の人もいるわ。早番のときいつも櫂くんが乗る電車」
 休日であっても朝六時に起きて散歩に出かける野乃花は、いつものように朝食の支度をしながらテレビを点けた。そして臨時ニュースで列車事故を知り、居ても立っても居られずここまでやってきたと言う。
「櫂くんが昨日の午後出かけたとき、もう戻らないんじゃないかと思ったの。そんなこともあるかなと昨夜は思ってた。でも、駄目。まだ櫂くんを失うわけにはいかないの」
 聞き取れたのはそこまでだった。野乃花は、手袋の手で顔を覆って泣いた。僕はぽかんとしていた。これはつまり、急な用事ができて、乗るはずだったのに乗らなかった飛行機が落ちた……などという幸運な事例と同じ類の出来事だろうか。
『俺はお前に何をしてやれたのかな。これからも、お前はお前で生きていくしかない』
 森で出逢った父はそう言っていた。
『お前はどうする』とも。
 いや、父の言葉と列車事故をまぬがれたことは無関係だ。では、起きたことを僕はどう受け止めればいいのだろう。
「ありがたいことね」
「お母さん?」
「なぜ櫂が急にここへ来ることにしたのか知らないけれど、幸運に感謝しましょう。そして、櫂のことをこうして心配してくれる人がいることにも。野乃花ちゃん、ありがとう」
「お母さん」
「あなたが天使に見えるわ、わたしには」
 そう言って母が野乃花の背中に手をかけると、野乃花が鼻をすすり上げながら顔を上げ少し笑った。


「それで、あの絵はいったいなんなの?」
 母が居間の隅に立てかけた絵を見ながら尋ねたのは、家に戻り三人で簡単な昼食を済ませた後だ。
 僕は森で遭遇した不思議な出来事を話した。父が生きていることを母は知っているべきだし、鈴羽は瑠加にとって必要な存在である。しかしながら、母は思いがけないことを言った。
「あのブナの森には、この世とあの世を繋ぐ道があると言われているの。行者が籠る洞窟もあるわ。櫂はそこでお父さんに逢ったのね」
「この世とあの世って、でもお父さんは……」
「お父さんは、登希夫ときおさんは確かに亡くなっているわ。わたしは見たもの。大きな何かが、白い羽を広げて飛んでいく姿を。あれは、登希夫さんに間違いないわ」
「そんな」
 十年前、両親はあの山へ登り、海を眺めた後、父が母に先に戻るよう促したのだと言う。
「俺は天使が来るのを、もう少しの間見張ってるよ。妙な動物に襲われたり、猟師に撃たれたりするといけないからな。それにひょっとすると、俺が次の天使に選ばれるかもしれない」
 選挙でもあるまいしと呆れた母は下山しはじめたが、思い直して父のところに戻ることにした。様子が変だったからだ。そして途中で、稲妻のように輝き、羽を広げて遠ざかっていく何かを見たのだと言う。
 その頃僕は入学した高校に馴染めず、不登校気味だった。僕の気持ちをおもんばかった大人たちは、父は山で遭難したことにしようと取り決めた。
「ごめんなさい。それきり言い出せなくなってしまって」
「じゃあ、鈴羽は?」
「鈴羽はお産の後亡くなったわ。赤ん坊も」
「赤ん坊って?」
「これ、わたしよ」
 僕の問いが聞こえなかったのか、母は絵を見つめて言った。そこには、冬枯れの木に成った赤い林檎の実が一つと、星形をした青紫の花が一輪咲いているだけで、父が描いていたはずの天使は影も形も見当たらない。
「それから、こちらは桔梗さん」
 母が青紫の花を指さした。
「桔梗さん?」
「お父さんがイギリスで知り合った人。一緒になれなかった人。生涯忘れることのできなかった人よ」
「こちらの林檎が、お母さんですか?」
 野乃花が首を傾げると、母が笑みを浮かべてためらいがちに言った。
「わたしの名前、こう書くの」
 こたつの上にあったペンで、チラシの隅に林子と書いた。
「りんこさん?」
「夫は、登希夫さんは、わたしを林檎ちゃんと呼んでよくからかったわ。冷たい風にさらされると、頬がすぐ赤くなるものだから」
「林檎ちゃん? かわいい」
「そう言われると気恥ずかしくて……。うちにはわたしの両親が一緒だったしね。あるとき、子どもが母親の名前を間違えて覚えるから、その言いかたはやめてくださいってきつい調子で怒ったら、あの人それきり言わなくなったの」
「そんなことがあったんですね」
「かわいげのない女でしょう」
「林檎ちゃん……」
 小さくつぶやいてから、野乃花が絵に見入った。
「あの人にとって、桔梗さんはとても大切な人だったのね。どうしても受け入れられずに、わたし酷いことをしたわ」
 酷いこととはいったいなんだろうと考えていると、母が続けた。
「櫂には、妹がいるのよ」
「えっ、妹?」
「あちらは厳格なご家庭で、絵描き風情に大事な娘をやるわけにはいかないと結婚は許してもらえなかった。でも、帰国してからも二人は逢っていたの。……わたしと結婚した後も」
 消え入りそうな声で母が言った。
「そして女の子が産まれたの。それを知らせる手紙を、わたしずっと隠してた」
 立ち上がった母は自室へ行き、すぐ戻ってきた。
「これは、桔梗さんのお姉さまが送ってくださった手紙。奏子かなこと名づけたこと、何もしてくれなくていい、ただそういう名前の女の子がいることを知っていてほしい、健やかに育つよう祈ってくれたらいいと書いてあるわ。わたし、登希夫さんにとうとう見せられなかった」
 母は古びた手紙を広げて見せた。何度も広げて折り畳んでを繰り返したのだろう。手紙は折り目の部分が、千切れそうになっていた。
合歓木ねむのき書房?」
 僕は便箋の欄外に印刷された文字に見入った。
「そこが桔梗さんのご実家よ」
「合歓木書房って、……あの店だ」
「櫂くん、知ってるの?」
「ああ、知ってるも何も」
 あの古書店の扉を開けたから、僕は今ここにいる。父に逢い、野乃花と共に母から遠い昔の話を聞かされている。
「じゃあ、あの女の子が……」
 天使を見上げ、屈託のない笑顔を僕に向けたのが妹の奏子だ。だれかにじゃなくて、僕に似ているんだ。


「ずいぶん冷えると思ったら、本格的に降り出したのね」
 手洗いに立った野乃花が、両手で自分の二の腕をごしごしとこすりながら戻ってきた。
「今日あたり降るかしらって思っていたのよ」
 母は雨戸を閉めるために立ち上がった。
「瑠加は? もう暗いのにまだ帰ってこないの? 迎えに行こうか?」
 はっとした顔で母が動きを止めた。
「櫂、だれのことを言っているの?」
「瑠加だよ。鈴羽の子どもの瑠加。赤ん坊のときから、お母さんが育ててきたじゃないか」
「……」
「……お母さん?」
 へなへなと床に座り込んだ母は、僕を見て野乃花を見た。
「野乃花ちゃんは? その子を見た?」
「いいえ、櫂くんは親戚の女の子を預かっていると言っていたのに、今日はいないのかなと思ってました」
「だって、瑠加は出かけたきりだから」
「櫂、鈴羽の赤ん坊は死んだわ」
「死んだって。いつ? そんなはずないよ」
「確かに瑠加と名付けるつもりでいると鈴羽は言っていたけれど、死産だったのよ」
「そんな……」
 この家に子どもはいないってどういうことだろう。じゃあ、あれはいったい……。八年もの間、僕は幻を見ていたのか。
 床に就いてもまだ僕は瑠加を思っていた。襖の向こうにいる二人の声が聞こえてくる。
「ねえ、お母さん。人を好きになるってどういうことだと思いますか?」
「まあ、櫂のことを好きでいてくれてると思ってたけれど、違うのかしら?」
「もちろん好きです。ただ、気持ちをうまく言葉にできないのがもどかしくて」
「そうねえ、恋をすると、こんな気持ちになったのははじめてだと感じる気がするわ」
 お母さん?
「はじめて……」
「体の芯に小さな火が灯るの。それが心を明るく照らすわ。ほかほかとしているせいで、じっとしていられなくなる。踊り出したい気分なのに、わたしは踊りかたを知らなくてもどかしいの。仕方が無いから、雨ざらしになっていた盥を磨いてみたりして」
「ああ、わかります。わたし、櫂くんに出逢った頃、化学のテキストを書き写してました。専門用語と難しい公式ばかりで、さっぱり意味がわからないのに」
「そうそう、そういう感じよ」
 女学生が二人いるみたいだと思いながら、僕は眠りに落ちた。

 翌日、母と野乃花と三人で、積もったばかりの雪を踏みしめて、森へ花束を供えにいった。白い百合が香気を放っている。
「幸せになりたい。それがわたしの願いだった。でも、登希夫さんを失って、気づいたの。幸せは、なるものではなくてその都度感じるものだってことに。登希夫さんは、わたしを大事に思っていてくれたわ。それなのに、わたしは素直になれず、幸せを遠ざけてしまった……」
 いつになく饒舌な母が、僕には新鮮だった。父が言っていた通り、真面目で正直な人なんだ。たくさんの思いに蓋をして、我慢を重ねて生きてきたのに違いない。
「わたしたち、いつもだれかに守られているのかしら?」
 野乃花が空に手を伸ばし、小さな声で言った。
「お母さん、お父さんは自分に娘がいることを知っていたと思うよ」
「えっ?」
 父は言っていた。
『女の子は俺に似ているだろうな。逢わなくてもわかるよ』と。
 母に父の言葉を告げると、戸惑いの表情が柔らかな笑みに変わった。
「ありがとう。わたし、今とても幸せな気分よ」
 ブナの木を見上げ、母が言った。
「わたしも幸せ。ここ、冷え冷えとして清らかで、とても気持ちがいいわ」
「じゃあ、僕も幸せだ」
 野乃花に続いて僕が言うと、母がくすりと笑うのが聴こえた。
 あの古書店に、もう一度足を運ぶべきだろうか。それとも、二度と近づかないほうがよいのだろうか。妹と僕が逢うべきときが来たなら、天使が導いてくれるだろうか。
「ねえ、今の白いのって鳥かな」
 野乃花が指し示すほうを見たが、母にも僕にもそれがなんだったのかわからなかった。次の瞬間、小鳥の囀りが止み森が静寂に包まれた。
 風もないのに、ブナの枝から雪がさらさらとこぼれ落ちている。
 天使だ。
 羽を休めに降り立ったのだろう。姿は見えなくても、近くにいるのがわかる。天使は、世界のそこかしこに現れる。同時に、僕の中にも宿る。僕が彼(あるいは彼女)の存在を信じる限り共にある。
 お父さん、僕は生きるよ。未来に希望を見出すのは、僕自身の務めだ。大切な人の幸せを祈り、迷ったりもがいたりしながら進んでいく。
 再び、小鳥たちが賑やかに歌いはじめた。雲間から太陽が姿を現し、生命を讃える光が森に満ちていく。聴こえなくても、天使たちは聖なる調べを奏でている。
 そうだよね、お父さん。
                              〈了〉

○見出し画像は、『みんなのフォトギャラリー』から
anon_kokoさんの作品を使わせていただきました。
ありがとうございます。


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