禁断の三国志 topsecret threekingdom


第二話 王佐、闇に堕ちる 前編



 何が自分を駆り立てるのか、それは娘や同僚、そして王允おういん自身にも分からなかった。

 宦官の讒言を信じた皇帝に、尊敬していた上司を殺されたのはもう遠い昔のことだ。
 上司の亡骸を埋めた時に溢れ出た慟哭は、今もよく覚えている。

 その後、先の皇帝劉宏りゅうこう傀儡くぐつにした張譲ちょうじょうによって、監獄へ入れられたことは、まだ記憶に新しい。
 張譲は黄巾党の指導者と内通していが、その意図は王允にも掴めなかった。
 ただ保身のためだったのか、それとも国家を転覆させる詭謀でも持っていたのか、今となってはこの世の者では無い張譲に、それを聞くことは不可能だ。

 王允が一番恐ろしかったのは、張譲によって自分が処刑寸前まで追い込まれたことではなく、国の中枢である宦官が腐りきり、皇帝が宦官の独断すらも見逃し、止めることの出来ない飾りになっていた事だった。

 もはや外戚と宦官の専横が止められないことは、天命として受け入れていた。
 劉宏にそれを求めるのは、酷だと思っていた。
 しかしそれでも、先の皇帝劉宏が、逆賊である黄巾と内通していた張譲を陳謝のみで許し、その後張譲が自分を陥れようと画策したことを黙認していたことを思い出すと、怒りを超え嘆くことしか出来ない。

(先帝の崩御は、帝自身の不徳の致すところなのか)

 不敬とは分かりつつも、時折劉宏を思い出しては、そんなことを考えた。

(では何故儂は董卓を⋯⋯)

 そして同時に考える。
 なぜ自分は危険を犯して董卓を亡き者にしようとするのか。
 漢という国に何度も裏切られながらも、なぜ漢を捨て、利己的に生きる道を選べないのか。
 自分の中に渦巻く、漢に対する感慨はどこから湧き上がるのか。それが分かれば、自分はこれほどまでに苦しまなかったと、王允は息を吐いた。


「こ、これは司徒様」

 目的の場所に着くと、屋敷の門を守る衛兵が頭を下げ、拱手した。
 司徒とは、漢の役職名であり、王允は所謂三公のひとりであった。

「中郎将はおられるかな」

 片手に酒の入った瓢箪を持ち、もう片方の手で顎を撫でながら王允が言う。
 衛兵は突然の来客に畏まり、返答まで数秒要した。
 
 空は完全に日が落ち、雲に覆われた空の隙間からは、星が煌めいている。
 だが月は無い。分厚い雲に光を遮られた月は、その場所すらも地上に示すことが出来ない。

「現在は屋敷に⋯⋯どうぞお入りください」

 頭を下げたまま衛兵は言うと、脇に逸れて道を開けた。
 篝火で照らされた豪奢な屋敷が、門の向こうから姿を現す。
 王允は傍に控えさせていた従者を門の前に留めると、単身門を通った。

 門を通ってすぐ、屋敷の者が出迎える。
 物腰は低く、できる限り王允の顔を見ないよう顔を伏せている。

「中郎将に話があってきた。酒も用意してあると伝えていただきたい」

 王允が左手を差し出し、瓢箪を見せると、屋敷の者は王允を一瞥し、そそくさと屋敷へ入っていった。
 
 入口で待つこと数分、屋敷の中が慌ただしくなっている。
 どうやら、酒宴の準備を急いで進めているらしいと王允は悟った。

(ん? いや⋯⋯)

 だが王允の耳は、ある違和感を感じ取っていた。
 客間での酒宴なら、もっと音は近くで響き、侍女達の足音ももっと鮮明に聞こえ、その姿も入口から映る筈だ。

(もしやあの男、寝室で儂と⋯⋯)

 これは好都合と、王允の目が妖しく光った。

 ────

 

「これはこれは司徒様、如何なされましたかな」

 屋敷の奥から、板張りの廊下を渡ってひとりの男が声を張り上げてやってくる。
 鼠色の長袍の着物に、黒い生地に赤い線が入った帯を締めた大柄な男だ。
 鋭利な目元に、鼻筋が高く、雄々しいその姿の人物が、王允が訪ねてきた男だった。
 急いで着替えたのか、服こそ客人を迎えるに相応しいが、髪はまとめられておらず、被り物もしていない。

 男は王允の目の前に立つと、徐な動作で拱手し、王允も続いた。
 顔を上げると、鋭利な青年の眼光が、歳を重ねてきた王允を威圧する。

(やはりこの男しかおらぬ)

 気圧された自分を誤魔化すため、もう一度礼をし、心の中で呟く。

「このような姿でご無礼をお許しください」

「いや、こちらこそすまぬ。中郎将殿、いや、奉先ほうせん殿」

 男の名を呼び、ゆっくりと顔を上げながら見据える。
 中郎将呂布奉先、漢を蔑ろにする董卓と親子の契りを交わし、彼の右腕として働く男である。

「どうぞこちらへ」

 つい数日前にふたりのあいだには不協和音が生じたが、気にする様子もなく呂布は王允を屋敷へ招いた。

 呂布に連れられて来たのは、やはり寝室だった。
 牀褥しょうじょくのすぐ側に向かい合ってふたつの膳が用意され、小さな盃が置かれている。
 部屋はいくつかの燭台で照らされているが、それでも薄暗く、王允の目では、向かい合った呂布の顔を見るのがやっとだ。

 王允を招き入れると、呂布はすぐに自分の膳の前に腰を下ろした。
 
「さあどうぞ。司徒様も」

 呂布に勧められるがまま、王允もその場に座った。
 王允は部屋のあちこちを見回したが、特に異変は見られない。
 なぜ呂布が自分を警戒しないのか、それが不思議でならなかった。

「すまんな。良い酒が手に入ったのと、娘が世話になった礼にと思って訪ねた次第だ」

 呂布の顔に笑みが浮かぶ。
 
「貂蝉は素晴らしき女です。あれは司徒様の教育の賜物かと」

「奉先殿にそこまで言ってもらえるとは、育てた甲斐があったものだ」

 王允はそう言うと、瓢箪を持って立ち上がり、呂布の前へ進んだ。

「さあさあ、手に入ったばかりの品だ。遠慮はいらぬ」

 呂布は王允からの酒を一度は遠慮したが、すぐに盃に注がれ、それを一気に飲んだ。
 呂布の盃が空になると、王允は何も言わずに酒を足し、自分の席に戻った。

(さて何時なんどきで⋯⋯)

 王允はぐっと唾を飲み込み、自分の盃にも注いだが、口をつけようとはしなかった。

「ところで奉先殿、今日儂が押しかけたのは」

 酒に口をつけないことを怪しまれないよう、王允が切り出すと、呂布は一瞬顔を顰めた。

(なんだ⋯⋯忘れていたわけではないのか)

 王允は安堵の息をついた。

「先日も申した通り、某に相国を手にかけるつもりはありませぬ」

 呂布は酒をひと口飲むと、勢いよく盃を置き、波が立った。
 漢相国、董卓暗殺の計画を持ちかけたのは、10日ほど前のことだ。

 以前、董卓を討ち滅ぼすべく諸侯が立ち上がり反董卓連合が結成が結成された。
 曹操や孫堅の活躍もあって、董卓に洛陽を放棄させ、董卓は都である洛陽を焼き払い、逃げるように長安へ遷都するに至ったが、その刃は董卓の首までは届くことなく、反董卓連合は瓦解した。

 洛陽を去る際、漢室の祖廟を焼き、略奪を尽くした董卓だが、未だ天は董卓を誅する気配を見せない。

 ならば自分達で漢室を踏み躙る奸臣を討ち滅ぼさねばならない。
 王允は数人とともに董卓暗殺を計画し、その実行役に呂布を引き込もうとした。
 
 しかし呂布はそれを拒否した。
 董卓に唆されて以前の主人である丁原を殺したことを悔いているのか、義理の父を殺すのは忍びないのか、董卓による世を気に入っているのか、腹の中は分からないが、とにかく呂布は王允の持ちかけを固辞した。

 董卓は元々、涼州方面で戦場に立っていた武人であり、並大抵の兵では殺すことは出来ない。
 それこそ、董卓軍の中でも最上位の武人でもなければ。

「しかし、奉先殿も董卓に酷い扱いを受けたと耳にしたぞ。癇癪を起こした董卓に戟を投げつけられ、それが首筋を掠めたとか」

「⋯⋯」

 呂布は答えず、喉元を撫でた。
 微かに残る傷跡が掌に触れ、傷む。
 たしかに、王允の言う通り、その際には命の危機を感じた。
 それでも呂布は董卓を殺す決心がつかなかった。
 だからと言って王允らの企みを董卓に告げることも無く、半ば黙殺していた。 

「次は本当に、貴殿の喉を貫くかもしれないな」

 王允は脅しかけるように、声色を低くして言った。
 呂布が態度をはっきりさせないことに、王允は焦り始めている。
 念の為、娘を使って董卓と呂布を引き裂く計画もあり、既に動き出している。

 しかし、今の呂布ではそれは不発に終わるのではないか。張譲らが居なくなり、ようやく少しは好転すると希望を抱いた漢が、その希望を打ち砕いた董卓によって弄ばれる現在の悪夢が、死ぬまで続くのではないかと。
 王允の鋭敏な頭脳は、度重なる漢の愚行と崩壊によって蝕まれていた。

「その時は⋯⋯その時です」

 若く膂力に優れる呂布が、この場では王允に気圧されている。
 王允の漢に対する思い、歪んだ信仰がその容貌に浮かび上がっている。

「今はそのようなことは忘れて、さあ、司徒様も1杯」

 ようやく、呂布は王允が盃に口をつけていないどころか、酒を注いでもないことに気づいた。

「⋯⋯いや、儂はいい」

「なぜです⋯⋯司徒様が持ってきた酒ではありません⋯⋯か⋯⋯」

 突然、呂布の目が虚ろになり、焦点が合わなくなる。
 呂布の視界は歪み、目の前の王允と部屋が霞んで見えた。

「おかしい。酔うほど飲んではいないが⋯⋯」

「もしかすると、疲れが出たのかもしれぬな」

 目を擦り、頭をふらつかせる呂布を、無機質な顔で見つめる王允。

(そろそろか)

 心の中で呟いた次の瞬間、呂布は横向きに倒れた。
 足は胡座をかいたまま、身体だけが冷たい床に伏した。

「な、なんだ⋯⋯」

 呂布は状況が飲み込めず、何度も瞬きをしながら息を荒らげた。
 身体に力が入らない。
 朦朧としながらも意識は保てているが、指先まで身体に一切の力が入らない。

「願いを聞き入れてもらえないなら、いたし方ない」

 王允はゆっくりと立ち上がると、一歩、また一歩と呂布に迫った。
 自分を見下ろす王允の目は、まるで死人のようで、正気というものが感じられない。
 
 (目の前にいるのは、本当に生者なのか、亡者では無いのか)

 呂布は感じたことの無い、底知れぬ恐怖を感じながら、この場から逃げるためもがこうとしたが、身体が小刻みに震えるだけで、進むことも後退することもない。

「司徒様⋯⋯、いや⋯⋯王允⋯⋯何をするつもりだ」

「⋯⋯これも全ては漢室のためだ⋯⋯許せ呂布よ」

 

 

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