父の家族のこと



※いつも以上に書き散らし。




父には今、家族がわたし三兄弟たちしかいない。あと猫2匹。



父の残りの人生は、2年前くらいから患ってる病気と、最近疑いのある病気から考えるとあと5年、希望的観測として頑張って10年だな、と実の娘としては冷たいかもしれないがわたしは思っている。それは恐らく父もそうなのだろう。何故なら自分が入るお墓のことについて彼が少し前から度々言及するようになったからだ。



お墓は生きているひとのためにあるとわたしは思う。死んだらいなくなるからお墓は死人にとって重要ではない。でも遺されたひとにとっては、死んだひとの依り代のようなものだし、そこにいけば何となく会えたような気持ちになる。一般的には家族と同じ墓に入るのだから、パートナーが亡くなった後、「いつか自分もここに入って、みんなと一緒にいられる。」と、生きているひとにとっての終の希望のひとつだと思う。




何も起こらずこれから兄がそのまま家を継げば、父が将来入るお墓に次に入るのは母ではなく兄だろう。うちの父と母は6年前ぐらいに離婚した。理由は聞いていない。夏の終わり頃の涼しくなった朝に、正座をしてわたしに向き合った母が「離婚します。ごめんなさい。」と何故だか知らないがわたしに謝った。わたしはその少し前からしきりに、特に含みなく、本心から母親に「こどもたちはみんなもう大きくなったんだから、遠くへ出掛けたらいい。」と言っていたから、その日が来たんだなと思った。多分何となく見ないようにしていただけで、ほんとうは彼女がそうしたいことをわかっていたんだと思う。だから、「わかったよ。」とだけ伝えた。母は兄と弟にも同じように伝えたらしい。父からはついぞこの件について何か言われたりしなかったし、わたしも言わなかった。それから半月ほどして、母親は祖母の住む家に引っ越した。



それからすぐに元々決まっていた弟の引っ越しがあり、家には朝早く出て遅くに帰る兄、出張がたびたびある父、そしてわたしが残った。2人減っただけで随分静かになった家と、当時の彼氏との破局でわたしは精神がちょっとまいってしまい、毎日妙に水分の感じられないトーストを齧っては牛乳で流し込み、眠れない夜はいやなことばかり想起する脳みそを落ち着かせるために猫を吸い、猫アレルギーで鼻炎を悪化させ余計に眠れなくなったりしながら環境の変化に耐えた。でもそこまで病んだ割には意外とすぐにわたしは彼氏と復縁することができ、そこからとんとん拍子に半年後の同棲の話が進んだ。つまり、わたしも実家を出ることになり、秋からどんどんひとの減った実家は新年度にはついに父と兄の2人きりになった。弟と母の時は何も言わなかった父も、この話が決まったときばかりはさすがに「もう出ていくの?」と戸惑っていた。猫の世話もあるし、本当に申し訳なかったと思う。わたしも猫と離れるのは辛かったが、猫を連れていくと父は本当にひとりになるような気がして、連れていけなかった。



でも同棲を止めることは決して無かった。父はわたしが決めたことを昔から尊重してくれた。いい意味でも悪い意味でも強く干渉してくることも無かった。家族にどこまで介入していいのかがよくわからなかったんじゃないかなと今になって思う。




詳しく聞いたわけではないけれど、父は小さい頃にわたしにとっての祖父にあたるひとが、自分の母親ではない女性と歩いているのを見て、それを彼の母親に伝えて、結果離婚したらしい。それから彼の母親は(いつから働いているかは知らないが)夜の仕事で父とその兄を育て、離婚後3回結婚してまた3回離婚した。相手は様々で、ひとりは刑務所に入ったと聞いている。5人目の内縁の夫は父が小学生くらいの頃から家にいて、「おいちゃん」と呼んでいた。アル中だった父の母親は家事をあまりせず、父はよく店屋物を食べていたから太りやすくなったと話していた。




この父の幼少期の話の登場人物でわたしが会ったことがあるのは、「父の母親」と「おいちゃん」のみだ。おいちゃんのことは普通におじいちゃんだと思っていたが、中学生のときにそうではないと教えられた。内縁の夫だったわけだから違うと言うのにも語弊があるが、実の祖父ではない。父の母親であるおばあちゃんには、病院で会った記憶しかない。最後までタバコも酒も離さなかったと聞いた。一瞬出てきた「父の兄」に関しては随分若い頃の写真を見たきりで、会ったことは一度もない。ただ、わたしは父からも母からも、「父の兄を名乗る男から『金を貸して欲しい』と電話がかかってきたら迷わず切れ。」とだけ教えられた。




上記から察するに、父は機能不全家庭と呼ばれる環境で育ったと言える。わたしは父方の親戚と言うのには会ったことがなかった。何でだろうと思いつつも聞いたことはなかった。それが当たり前だったからだ。中学生のとき亡くなったおいちゃんの葬式で知らないひとがたくさん来ていたけれど、父もそれまでは誰ひとり会ったことなかったと話していた。父は長い間ひとりだったとそこでわかった。




長々と記したが、つまり父には親族が今彼のこどもであるわたしたち兄弟しかいない。わたしの母親はいつだったか、「パパに家族をつくってあげたいと思って結婚した。」と話していた。離婚こそしたが、その願いだけは叶った。



不思議なもので、今になってわたしも母と同じことを思う。彼に家族が増えたらいい。



わたしがあの時家を出て父は多分悲しかったと思う。みんな自分のそばから一気にいなくなってしまったと感じたかもしれない。でもあの時家を出て、わたしはその先の未来で結婚して今妊娠している。だから必要なことだったと思っている。だってこれで彼の家族はわたしとわたしの配偶者、これから何事もなければ産まれてきてくれるであろう父の血をひいた孫が増える。実家から4時間ほど電車を乗り継いで結婚式に来てくれたときは、体はしんどかったかもしれないが、嬉しそうだったと思うし、これでいつか来るであろう父の葬式にも、父の墓参りに来る人も増える。父はそんなことどうでもいいかもしれないし、この点はわたしの自己満足だけれど。



もう、家族としてわたしがしてあげられることはこれくらいだ。わたしが元気でいて、あなたが育てた娘はしあわせですよ。と伝え続けること。結婚や出産なんてなくても、きっと健康でいるだけで十分なのだろうけど、わたしは機会があって、したいと思ったからした。父がわたしの選択をいつも否定しなかったのは、こんな風にしたいことをするわたしを大事にしてくれていたからだろうし。



あれから彼は病気に侵されて、余命も見えてきたけれど、わたしの妊娠で「もう少し頑張る。」と言ってくれた。ひとのいのちをこの世に留めるには、繋がりを増やして役目をつくることの他にないと思っている。これは介護士を続けて何年もひとの生き死にを見つめてきて思ったことだ。時にはそれが重荷になるひともいるだろうけれど。父のもとには毎年わたしの配偶者の母からもお年賀が届いているというし、少し煩わしいかもしれないが、生きている限り絶たれる繋がりがあっても、やっぱり紡がれていくものはある。それは当たり前のことかもしれないけれどとても尊いものだなと思った。



父から病気になったと告げられたとき、わたしは臓器の提供を申し出たけれど、頑なに拒否された。それどころか、既にもうそうできない環境に身を置いた上での宣告だった。何度も記したように、わたしの選択を否定しなかった父だ。その父のはじめての否定だったと思う。その時は「どうして。」と思ったけど、多分わたしも同じ立場だったらそうするだろう。こどもからなにひとつ奪いたくなかったんだろう。



60を手前で妻に出ていかれてしまったひとだ。夫としては色々と問題があったのは何となく感じる。でも、こどもたちを尊重して、おとなになるまで育ててくれた。わたしは父を、このひとはどうしようもないな、と思うこともあると同時に、心から尊敬している。大切に思っている。里帰り出産まであと2ヶ月ほど。それから恐らく2~3ヶ月ほど実家で父と過ごす。のこされた時間で、それをちゃんと伝えられたらいいな。わたしの息子を抱く父の顔はどんなんだろうか。声色はどうか、泣いたりするのだろうか。いつかわたしの息子に、あなたのおじいちゃんはこんなひとだったよと話す日が来たときのために、やさしくて不器用な父の人生をしっかり見届けたい。







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