【続編】歴史をたどるー小国の宿命(13)
室町幕府の衰退の一因となったのは、守護大名の台頭だけではない。
足利義政が亡くなった1490年から、室町幕府が事実上の滅亡となる1573年まで、約80年の期間があるが、この間に「加賀の一向一揆」がずっと続いていたことは、注目しておく必要がある。
なぜなら、この一揆は、のちの有名な戦国大名も巻き込むことになり、最終的には織田信長によって降伏に至ったからである。
その前に、加賀国(今の石川県)について知っておく必要がある。
山名宗全は、但馬・播磨(今の兵庫県)と備後・安芸(今の広島県)と伊賀(今の三重県)の守護だった。
細川勝元は、丹波・摂津(今の京都、大阪、兵庫の一部)と讃岐・土佐・伊予(今の香川・高知・愛媛)の守護だった。
では、加賀国の守護は誰だったかというと、富樫政親(とがし・まさちか)であった。応仁の乱が勃発したとき、富樫政親は、細川勝元の軍に味方した。ところが、政親の弟であった幸千代(こうちよ)が山名宗全の軍に味方したため、兄弟で対立することになった。
1473年に、弟の幸千代に、政親はいったん敗れたものの、翌年には形勢逆転して、政親が勝利した。そして、弟の幸千代を加賀国から追い出したのである。
このとき、すでに山名氏と細川氏が和睦の方向に向かっていたのは、昨日の記事で触れたとおりである。
ただ、14年後の1488年に、富樫政親は、なおも続いていた加賀国内の争いに巻き込まれ、我が子の又次郎(年齢不詳)とともに、33才で自害に追い込まれた。
では、織田信長が最終的に降伏させた「加賀の一向一揆」の当事者は、いったいどんな勢力だったのか。
これについて理解するためには、日本に伝わった仏教の宗派を学んでおく必要がある。
仏教は、このシリーズ(続編ではなく、昨年連載のシリーズ)の前半で触れたと思うが、538年あるいは552年に、朝鮮半島の百済から伝わったとされている。
ただ、仏教はもともとインドが発祥の地であり、お釈迦様が開祖である。紀元前5世紀のことなので、今から2500年前である。
室町時代後期に、仏教の宗派はどのようになっていたのか。
そこを整理してから、戦国時代の動向を読み解くとおもしろい。
続きは、明日である。