古典100選(86)保元物語
1156年に起きた保元の乱のことをご存じの人は、今日紹介する『保元物語』については、だいたいの内容を理解できるかもしれない。
私のnoteマガジンに収録されている「飛鳥・奈良時代の歴史をたどる」シリーズの第48回をご覧いただいた人もいるだろう。
新院(=崇徳上皇)と近衛天皇と後白河天皇、3人の父親の鳥羽法皇との関係は、保元の乱の経緯を知る上で大きなポイントになる。
そのことを踏まえながら、原文を読んでみよう。
①ここに鳥羽の禅定(ぜんじょう)法皇と申し奉るは、天照大神四十六世の御末、神武天皇より七十四代の帝なり。
②堀川天皇第一の皇子、御母は贈皇太后宮藤原苡子(ふじわらのいし)、閑院の大納言実季(さねすえ)卿の御娘なり。
③康和五年正月十六日に御誕生、同年の八月十六日、皇太子に立たせ給ふ。
④嘉承二年七月十九日、堀川院隠れさせ給ひしかば、太子五歳にて践祚あり。
⑤御在位十六ケ年が間、海内静かにして天下穏やかなり。
⑥寒暑も節を過(あやま)たず、民屋もまことに豊かなり。
⑦保安四年正月二十八日、御歳二十一にして御位を逃れて、第一の宮崇徳院に譲り奉り給ふ。
⑧大治四年七月七日、白河院隠れさせ給てより後は、鳥羽院天下の事を知ろし召して、政(まつりごと)を行ひ給ふ。
⑨忠ある者を賞じおはします事、聖代聖主の先規に違はず、罪ある者をもなだめ給ふ事、大慈大悲の本誓に適(かな)ひまします。
⑩されば恩光に照らされ、徳沢にうるほひて、国も富民も安かりき。
⑪保延五年五月十八日、美福門院の御腹に皇子御誕生ありしかば、上皇殊に喜び思し召して、いつしか同八月十七日、春宮に立て給ふ。
⑫永治元年十二月七日、三歳にて御即位あり。
⑬よつて先帝をば新院と申し、上皇をば一院とぞ申しける。
⑭先帝、殊なる御つつがも渡らせ給はぬに、押し下し給ひけるこそあさましけれ。
⑮よつて一院新院父子の御仲、心よからずとぞ聞こえし。
⑯誠に御心ならず御位を去らせ給へり。
⑰返り就かせ給べき御心ざしにや、また一の宮重仁(しげひと)親王を位に就け奉らんとや思しけん、叡慮計り難し。
⑱永治元年七月十日、鳥羽院御飾り下ろさせ給ふ。
⑲御歳三十九、御齢もいまだ盛りに、玉体もつつがなくおはしませども、宿善内に催し善縁外に顕れて、真実報恩の道に入らせ給ふぞめでたき。
⑳しかるに久寿二年の夏の頃より、近衛院御悩ましまししが、七月下旬には、はや頼み少なき御事にて、すでに清涼殿の庇(ひさし)の間に移し奉る。
㉑されば御心細くや思し召しけん、御製かく、
虫の音の 弱るのみかは すぐる秋を
惜しむ我身ぞ まづ消えぬべき
㉒終に七月二十三日に隠れさせ給ふ。
㉓御歳十七、近衛院これなり。
㉔もつとも惜しき御齢なり。
㉕法皇女院の御嘆き、理(ことわり)にも過ぎたり。
㉖新院この時を得て、我身こそ位に返り就かずとも、重仁親王は、一定今度は位に就かせ給はんと、待ち受けさせおはしませり。
㉗天下の諸人も皆かく存じける処に、思ひの外に美福門院の御計(はか)らひにて、後白河院、その時は四宮とて、打ち籠められておはせしを、御位に就け奉り給ひしかば、高きも賎しきも、思ひの外の事に思ひけり。
㉘この四宮も、故待賢門院の御腹にて、新院と御一腹なれば、女院の御為にはともに御継子なれども、美福門院の御心には、重仁親王の位に就かせ給はんことを、なを嫉(そね)み奉らせ給ひて、この宮を女院もてなし参らせ給ひて、法皇にも内々申させ給ひけるなり。
㉙その故は、近衛院世をはや失せさせ給ひし事は、新院呪咀し奉り給ふとなん思し召しけり。
㉚これによつて新院の御恨み、ひとしほ増さらせ給ふも理なり。
以上である。
美福門院や重仁親王、待賢門院など人名については、ちょっと調べてみれば、誰とどういった関係なのか分かるので、解説は省略する。
崇徳上皇の怨霊は、歴史上の有名な話である。