20世紀の歴史と文学(1920年)

今月最後の記事になるが、次回は、1921年から1930年までの期間の記事を4月8日から4月19日まで(土日を除く)掲載する。

今日は、1920年の解説である。

この年は、ヴェルサイユ条約が発効して、アメリカのウィルソン大統領の平和原則がきっかけとなった国際連盟も成立し、スイスのジュネーヴで第1回総会が開催された。

日本も国際連盟に加盟したが、のちに脱退することになるのは、歴史好きな人ならご存じだろう。

さて、今週は、国内の政治についてあまり触れていなかったので整理しておこう。

先週金曜の記事の最後では、大隈重信暗殺未遂事件が起こったことを書いていたが、この続きがまだであった。

加えて、1920年は大正9年にあたるのだが、いわゆる「大正デモクラシー」とは何なのかが、第一次世界大戦の陰に隠れて、あまり明確に説明できていなかったので、それについても補足しておこう。

大隈重信は、伊藤博文とともに明治の教育改革の立役者であり、外交においても手腕を発揮したことで知られている。

伊藤博文はハルビンで安重根に暗殺されたことはすでに触れているが、大隈重信は、国内で二度も暗殺の危機に見舞われた。

いずれも暗殺未遂に終わったものの、なぜ彼の命が狙われたのかというと、外交において条約改正のときの交渉条件が右翼の反感を買っていたことが理由の一つとしてあった。

それでも、大隈はテロに屈しない強い気持ちで、政治家としての信念を曲げなかったところは評価されている。

大隈重信は、早稲田大学の創設者でもある。

さて、政治家が命を狙われるのは、昔も今も同じだが、「大正デモクラシー」というのは、国民の発言力が大きくなり、時の内閣も世論の動向によって総辞職に追い込まれるほど、政治運動や社会運動、労働運動などが盛り上がった状況を象徴する言葉である。

例えば、当時の大日本帝国憲法では、今の日本国憲法のように「国民主権」ではなく、天皇に主権があるとされていた。

そうすると、国民には主権がないのかという話になるのだが、そうではなくて、「天皇主権」のもとでも民衆の意見が反映されるような政治のあり方を考えなければならないとする「民本主義」(みんぽんしゅぎ)を1916年に唱えたのが、吉野作造である。

吉野作造は、東京帝国大学(=今の東大)の教授だったが、欧米から入ってきた「民主主義」の考え方と区別する意味で、主権が天皇にある中でも民衆の意見を反映した政党政治の確立の必要性を主張した。

この考え方が民衆運動と相まって、1920年代の普通選挙法成立につながっていったことは、しっかりとおさえておきたい。

この続きは、新年度をお楽しみに。





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