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触れるということ



2024年11月24日

父と母の実家とお別れしてきました。

子育てだけでなく
孫たち、習字教室

たくさんの子どもと
ご縁を大切にしてきた父と母。


その想いのこもった場所とは
もうお別れだと思うと涙が出る 


と思っていた。

すっからかんになってしまった家を見て
昨日は不思議と涙は出なかった。


いつかは、
人の命も自分の命も無くなり
自分のいた場所には何もなくなる。



大切に思うからこそ
失うことに恐れを抱くし
愛情という見えない力で体は自然に動き
自分の精一杯の力を注ぐ。

父と母には
三姉妹でそうやって力を合わせて
最期まで愛情を注ぐことができたと思う。

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その場所に父と母がいたと
目で見えていたことが 

私たちにとって安心な形だった。

目に見えない状態となった時に
私はどう生きていくのか、を

考えてみたくなった。




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目に見えているものといえば
自然、人、物、お金


目に見えていると私たちは安心する。



その安心を求めているのが自分。


形に追われているうちは
愛情が見えにくく

感じることに鈍感になる。

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視覚から得られる情報が
9割を占めるなかで



視覚からの情報が閉ざされたとき
当然人は不安になる。



大切な人が目の前から
いなくなるということは

自分の目が急に見えなくなった不安と
似ていると思う。

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視覚が閉ざされたら次は
どうするかと想像してみると

次は
手や足の触覚を使っていくことで
安心感を取り戻していく。

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スマホが発達して
視覚からの情報量に
人は脳が耐えられなくなっている。



脳を癒すために触覚を使う、
本能を取り戻すという



スマホが発達する前から
五感セラピーを作った先生が
改めてすごいなと感じた

.

父と母が亡くなる前には
たくさんの触れ合いをしてきたと思う。



幼少期腹痛の時に
母がお腹をさすってくれて自然に治り


不思議、奇跡、なんでだろう?と
思った感覚は


体がちゃんと覚えているし
それを誰かに返すことで
少しでも生きるエネルギーに変わる
ということがわかるからこそ
父と母が辛い時には
たくさん触れる、ということを
してきたんだと思う。

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もう亡くなったら父と母には
触れ合うことはできないけれど、



父と母の生きていた家には
もう行くことはできないけれど、



それを写真で思い出すだけじゃなく
肌感覚で思い出すことができる力が
今、必要なんじゃないかと

想いを馳せることで
心に刻むことができた気がしている。



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