中西智佐乃『狭間の者たちへ』感想
(新潮2023.02掲載)
中西さんとは、文校時代からの知り合いで、デビュー以前の作品も読ませてもらっているので、書きたい方向性はわかっているつもりですが、つもりだけかもしれません。
今回の作品を読ませてもらって、いささか混乱しました。まあ、デビュー作の『尾を食う蛇』が加害者側に視点人物を置いて成功しているので、そちらに回帰したという見方もできるかもしれません。ですが、中西さんの書きたいものは、デビュー後一作目の被害者視点の『祈りの痕』の方にあると見ていて、わたしが好きな作品も断然『祈りの痕』なのです。それがなぜ評価されないのか不思議なのですが、たぶん感情がこもりすぎて客観性に欠けてしまうということなのだろうと、解釈しています。いや、だけど、わたしはあの感情を掻き立てる文章は好きなのですが、これはひょっとするとわたしの創作者としての欠点なのかもしれません。客観的で乾いた文章のほうがたぶん文学的評価が高まるということなのかもしれません。
なので、これから書く感想も単にわたしの好みで書いている感じのものかもしれませんが、まあ、プロの書評でもないので、勝手に書かせていただきます。
ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。
ちなみにわたしは純文学作品でネタバレはぜんぜんOKと思っているのですが、気にする方もおられると思うので。
物語は一人称視点で、最初、男性なのか女性なのかわからないし、段落が変わるごとに視点人物が変わっているかもしれないと疑い、物語に入り込めなかったのですが、これも技術なのでしょう。主人公は藤原という大学も地元から離れられないで、少しマザコンの入った、40歳既婚男性です。就職は最初不動産会社であったが、転職して保険会社の営業店長を務めています。店長と言うと、一応偉そうに見えますが、エリアマネージャーの中畑には店ごとの成績を比較され、部下からも蔑ろにされる中間管理職という辛い立場に立っています。そして、プライベートでも、意に染まぬ結婚をしているものの、風俗のあーちゃんという女性に今でも思いを寄せる純粋さを持っています。そして、あーちゃんがいなくなってからは、通勤電車の早出の時に同じ電車に乗り合わせる女子高生を「彼女」と呼び、「彼女」の匂いを嗅ぐだけが心の癒しという寂しい生活をしています。「彼女」の後ろに立って痴漢行為をしてしまおうとしたとき、藤の作業服の男に手を掴まれ、静止されます。その作業服の男のほうが「彼女」をつけまわすストーカー行為は限度を超えていて、最初は藤原も親近感を抱いたものの怖くなって逃げてしまいます。そして家庭では藤原の母とパートナーとの確執が酷く、子供はひとりでいいと思っているのに、第一子が女の子だったため、二人目を望むことになり、もはやパートナーとの生活は破綻しているのにセックスを求められて、DVにいたり、パートナーは実家に帰り、別居状態。DVは明らかに男が悪いのですが、一人称の魔力で、読者はついつい主人公を気の毒だと同情的になります。そこで最後のシーンでは、いよいよ痴漢行為を働くかどうかという寸止めのところなのですが、彼女と電車の周りの人から「痴漢です」と訴えられると、どうみても男は客観的に痴漢加害者として扱われるだろうところでお話は終わります。
この最後のシーンが「痴漢冤罪」というワードを想起させるために、読者は女子高生を被害者と見るより、加害者側がかわいそうという気持ちになってしまいます。ここでわたしは頭を抱えました。これはなにが言いたいのかわからない、となってしまったわけです。しかし、作者のこれまでの作品を知っているので、これはやはり弱者である女子高生や、妻の境遇を強調したかったのだと思います。しかし、わたしの単純な頭ではどうしても「痴漢冤罪」というほうが前に出てしまい、言いたいことがぼやけてしまったように感じました。
うーん、難しいなあ、被害者を強調すると感情的になってしまい、加害者に焦点をあてると、言いたいことがぼやけてしまう。でも、前回の芥川賞をとった、高瀬隼子「おいしいごはん〜」もそういう構成ですよね。案外これは評価されるのかもしれないとも思いました。どうなのかなぁ?