右手にブーツ左手にグローブ【サイドスタンド7《完結》】
その日は案外あっさりやって来た。私宛のクレジット会社からの書類を手にした母が、オートバイに乗るような子に育てた覚えは無いと叫んでいる。勝手に開封して見たのだ。プライバシーなんてものは、子供にあるなんて知らない。子供に裏切られた悲劇の母を演じている。未だに自己中で、周りの関心が自分にあれば機嫌の良い人だった。
私は家を出た。少し早かったが予定通り。一番上の姉が引越しを手伝ってくれた。学生時代の生活用品をそのまま姉の車に乗せ、大きなものは、誰もいない日中に運送会社から運び出してもらった。店に置いてもらっているオートバイは、このアパートの屋根のある駐輪場に連れてくることが出来る。いつでも乗れることが、嬉しくてたまらない。
「まさかお姉ちゃんが、来てくれるとは思わなかった」
「そお?同じになると思うから、その時は住むところが決まるまで泊めてね」と言う。それだけでなく、オートバイってどうなの?怖くないのと、興味を持ってくれる。そして、夢中になれるものができると変わるんだねと。
不器用な姉は、私より、もがき苦しんでいたのかもしれない。彼女に新しい日常が来ることを願った。
引っ越したあとも通勤はしていたが、母と連絡を取りあっている上司である叔父が煩わしい。番号は母に教えていないはずなのに鬱憤晴らしに電話をよこす。やはり会社は続かなかった。
アパートは資金面から直ぐに引き払えず、そこから歩いて通える運送会社の倉庫のアルバイトを見つけた。比較的軽い荷物の仕分けだが量は半端なかった。
バイク店までは片道2時間半。途中まで、心配した社長やボクちゃんが最初は迎えに来てくれた。他の人と走ることもあった。経験者と走ることはとても刺激を受ける。技術や判断力、ライダーにも多くのマナーがある。知識をたくさん増やしたい。
卒業論文発表後にも助教に構成を褒めてもらってから、文章をまとめることに興味を持った。日記に少し手を加える感じで、ツーリングのコース、距離や時間と寄り道した場所や道の駅等の紹介文に、手書きのイラストや地図を添えてみた。社長に煽てられ、試しにバイク雑誌に投稿したところ、掲載したいと連絡があり、その後、私の記事がほんの4ページだけ雑誌に載った。
その本を前に社長とボクちゃんそしてヒロさんと4人でコーラの祝杯を上げた。
社長はカウンター横に雑誌を何冊も置いて「うちの子が書いてるのよ」とほぼ無料で配っていた。いつから親子に?
翌年の恒例ツーリングには駆けつけることが出来た。忙しいサトさんは車で早朝に来て、オートバイに乗り換えツーリングに出かけ、戻ってすぐ帰ろうとしていた。とにかく慌ただしく忙しい人だ。が、どんな時でも終始笑顔。
ほんの一瞬会話ができた。
「うわぁ、僕の命の恩人さんだ!やっと会えた!ヒロさんは殺されちゃったみたいけど!フハハハ」
私の口がへの字に曲がる。
「あ、ごめんごめん。どお、楽しいでしょ?でも絶対に事故んないでね。それは約束して」
「分かりました」
「記事、楽しみにしてるね」
「ありがとうござい......まふ」まずい、泣きそうになる。嬉しくて、苦しい。
伝えたいことが山ほどあるけれど、いざ言葉に出そうとしても、何から?どんな風に?躊躇している私に、
「またね」
とクシャッとした笑顔を置き土産に車に乗り込んだ。
手を振ると振り返してくれた!と思ったが、後ろにもブンブン手を振って「気をつけて行けよー!またなー」と騒いでいる6人+ボクちゃんがいた。
「今年は雨が降らなくて残念だったね」と、ボクちゃんが横にきてニヤリとする。足を踏んでやったが、安全靴だった。
サトさんの車を目で追いながら、
「僕さ、来春にはここにいないと思うんだ」と言う。
「何かやらかした?」
「相変わらず、失礼だな。違うよ。サーキットのレースに興味を持ってるんだ。乗る方じゃなく、ピットの方ね」
「ピットって、入ってきたマシンのタイヤとか交換する人?」
「それ。チームに入ったら海外にも参戦するんだ。もっと整備とか外国語とか知識が必要だから、学校に行く」
「凄いね。ボクちゃん」
「凄い?」
「うん」
「君もだよ」
涙が出てきた。
「え?何?サトさん行ったから?褒めたから?僕と会えなくなるからとか?」
「違う」
「なんだよ。たまには、ここ来るよ」
「いや、学校にいってください」
「アハッ」
暮れ始めた春のひんやり感が心地良い。
「あ〜、見えなくなっちゃったね」
「あの時の、ペットボトル、ボクちゃんですよね」
「あ、ああ、まぁ頼まれたから。来てくれたって思ったら嬉しかったでしょ」
「確かにそうだけど、サトさん、とても忙しい人だもん。無理ですよ」
「でも、あれはサトさんからのものだよ」
こんな人たちといる自分が嬉しいのだ。
交通の利便のあるところまで、引っ越すことにした。オートバイ以外の旅情報やちょっとしたコラムも任せてもらえるようになった。ツーリングのコーディネートも楽しい。雑誌社の専属にと言われたが、悩んだ末、フリーを選んだ。いろんな物を書きたい欲が増している。自分を売り込むための営業も必要だ。対人は苦手だが、好きな物を話す事が出来れば何とかなりそうだ。そして撮影の技術も学びたい。
拠点とする場所はここからバイク店を通り越してオートバイで4時間半の場所だ。
薄暗い中、姉のアパートを出発した。すでに荷物は引っ越す先に送っている。あとは自分とこのオートバイと、シートの後に括りつけた少量の荷物だけだ。
以前住んでいたアパートに寄ってみた。住んでいた部屋の窓はカーテンで閉ざされている。エンジンを止めて、そろそろとオートバイを押して行く。あの駐車スペースに、今は白い乗用車が停めてあった。
欅を見上げる。もう一度、しっかり見ておきたかった。朝日を受けとめようと若々しい緑の葉を広げている。ひとつ大きく深呼吸した。彼の笑顔が見えた。そしてあの夏の蝉の声が頭にこだまする。
───じゃあ行くね。
道路までオートバイを押し、アパートから離れたところでエンジンをかけた。
店舗前の駐車場に様々なマフラーから吐き出されるサウンドがひしめき合う。地面を伝わり、お腹の中まで響く。気持ちが昂る。
ツーリングに一緒にいかないか?と、ヒロさんがボクちゃんと私を誘ってくれたことがあった。嬉しくはあったが、丁寧にお断りさせていただいた。あの7人が好きだからだ。ボクちゃんの答えも同じだった。ヒロさんはそうかと、にこにこしながら頷いた。
店にボクちゃんはいなかった。
社長がシャッターに鍵をかけ、最後にオートバイに跨る。それを合図にひとりずつ、車道へ出ていく。工場の柱の前で私はオートバイに跨って手を振って見送る。
先頭はVMAX。大きく黒い車体。タンク横とシート下の金属のシルバー部分が輝く。ヘルメットからつま先まで全身黒で固めている。ヒロさんと間違えた人だ。一見怖そうだが、私と同じ年頃のお嬢さんがいるらしく、時々心配事の相談をしてくる気の優しいお父さんだ。大きく左手を振ってから、シールドを閉め、アクセルを開ける。
次に出発したのは昨年まで黒のCB750だったドリンク担当の常連さん。今年はTW225。ファットタイヤのこのオフロード車を店内で見つけ購入した。数年前のドラマのせいでモトクロスバイクを都会で走らせるのが流行った。ドラマにもいたく感銘を受け、即決だったらしい。出発前に駐車場で「お!キムタクだ〜」と代わる代わる大人達が乗って、きゃっきゃっと騒いでいた。オフロード用の青基調のヘルメットに赤いライディングジャケット。皮のプロテクターが入ったデニムのパンツにエンジのシューズとカジュアルだ。彼も手を振って出ていった。
3番目はBMW R100の私が葬ったヒロさん。車体もカウルもマッドなグレーだ。ヘルメットは黒にメタリックシルバーのライン。ライディングスーツは黒だが赤いラインが映える。スーツと同色系のハイカットブーツを合わせている。左手でビシッと私を指差した後、手を振った。
4番目は赤黒のGPZ900R。トップガンが好きすぎて、フライトジャケットを模した革ジャンパーにジーンズ、黒のライドシューズだ。 緑のジェットヘルにサングラスをかけている。お腹がタンクの上に乗って邪魔だと嘆いている愉快なおじさんだ。左の拳を突き上げてくれた。
5番目は鈴木さん。赤いGSF750だ。SUZUKIの車種に関しては鈴木さんに聞けば良い。いつかSUZUKI以外のマシンに乗ることがあるのか、ないのかみんなが賭けている。教習車を倒しまくる私に、小柄な鈴木さんの「ガッツリ半ケツ落として、足を前方につく感じにするといいよ」とのアドバイスで格段に立ちゴケ率は下がった。彼も革のジャケットとパンツで上から下まで真っ黒だ。親指を立てグッドサインを向けてくれた。
6番目はサトさん。黒のエリミネーター900だ。熱いアスファルトの蜃気楼の中を押して歩いたマシンだ。学校に通い出したボクちゃんが、今も休みの日は工場に来て、整備してピカピカにしている。ふたりで色々いじっているらしいが、私にはどの箇所なのかまだ分からない。明るいキャメルの革のジャケット、黒の革のパンツ、ライドシューズもジャケットと同じキャメルだ。メタリックレッドのメットの横で2回ピースサインを振ってくれた。彼の笑顔で私は自分を見つけた。
最後に社長。大きな身体を包む上下黒の革に肩と肘、膝のプロテクターを着け、足元は爪先の擦り切れた黒のハイカットブーツ。ダースベイダーのようなヘルメットをかぶり、フレームがやや長いハーレーダビッドソンFXSTSに跨る。ゴールドのタンクに濃紺で縁取りされたオレンジの炎。さながら、ラスボスのようだ。みんなを見回して「歳取ると派手になるのかしら」と言っていたけど、派手な自覚は本人に無いようだ。左の手をイカツイ肩の前で美しくヒラヒラさせた後、ズダダダダダという音と共に道路に出ていった。いつも背中を押してくれた人だ。
今日、ここから出発したいという思いが叶った。また、いつでも来ることが出来る。あの7人とボクちゃんのような人になりたい。そして見守って欲しい。
エンジンがリズムを刻むSR400を垂直に起こし、7人のオートバイのサウンドが消えないうちに、彼らとは反対方向へ発進するため、サイドスタンドを蹴りあげた。
完