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右手にブーツ左手にグローブ【サイドスタンド2】


「そこの机に置いて。見ておきます。後で連絡します」
 暑い中、バスに乗ってきた私に視線を向ける事もなく、助教が言い放った。一発で論文に合格マークをもらえないのは承知済みだ。郵送すればよかった。
 体育館とグラウンドの間を通るバス停への近道は焼けるような温度だ。夏休みの構内はがらんとしている。部活もサークル活動も暑い時間を避けている。

 ああ。今日もだ。素晴らしく晴れて暑いのに、身体のずっと奥で、キシキシと氷が重なるような音がする。何なのか分からずずっとモヤモヤする。冷えたキシキシと生ぬるいモヤモヤが何年も前から住み着いていて、時間も選ばずにふと、頭をもたげる。
 助教に対して怒っている訳ではない。頭のいい奴が好きな助教に認めてもらおうとも思わない。なのに、キシキシモヤモヤが燻る。

 バス停に降りると蝉の鳴き声がいきなり耳に入ってくる。目を閉じても鳴き声を頼りにアパートにたどり着けそうだ。鳴けるようになったのは気温が少し落ち着いたのだろう。季節が動いている。

 アパートのドアに白いビニル袋がかけてあった。オートバイの人だ。彼しかいない。大学に行かなければよかった。
 でも、袋の中はお茶のペットボトルが3本。1本ではなく2本でもなく3本。微妙な本数が、凄く喉が渇いていたので助かったと、でもこれ以上の何物でも無いよと、私に語っている。



 夜明け前に目覚めた。眠る糸口も見つけられずに、キシキシモヤモヤを持て余した私は布団の上に体育座りをしてカーテンの隙間から射してくる光を待った。

 開店時間にはあまりにも早い時間に到着してしまった。
 バイク店は街の中心地から幹線道路へ繋がる道の商業施設が途絶えた辺りにあり、バスを降りて暫く歩かなくてはならなかった。
 店鋪の右側はガラス張りの奥に幾台もの大きなオートバイが並んでいる。左にも建物があり店名が描かれたシャッターが降りている。

 あの日、アパートの駐車場から出て行く、彼と彼のオートバイを乗せたトラックを2階から何気なく見ていて、ドアとボディに書かれた店名を覚えていた。

 誰もいない店内を眺める。あの人が押していたオートバイはどれだろう。あんな感じだったような気がする。違うような気もする。でも、こんな大きな機械に人が乗って走る。怖くないのだろうか。

「おはようございます!早いですね」
 背後から急に声をかけられ、慌ててガラス窓に手をついてしまった。
「あ、すみません」
「あら、ごめんなさいね。驚かせちゃった。大丈夫?」
 振り返ると、白髪混じりの青いツナギのデカいおじさんが微笑んでいる。女性っぽい話し方が怪しい。
「は...い」
「待ってて。開けるから」
「いえ、あの、違う......」

「中入って。暑いでしょ。今開けるから、カウンターに座っててもいいし」
 シャッターを押し上げると店舗の入り口があった。
 ツナギの男性は左右に並べられたオートバイのわずかな隙間を大きな身体を翻しながら進む。

 自分の腰よりも高い位置にシートがある。とても自分の足は地面に届かない。これは足の長い人の道楽だ。

 おじさんは店内の電気を点けながら足早に歩き回っている。左の建物のシャッターを上げた。そこは工場で、入り口近くになにか測定するような大きな機械があった。壁には工具が飾ってでもいるように整頓されており、またその奥に10台程のオートバイが置かれていた。
 電気を点け終わると、店舗に戻り、入口に近いオートバイから、数回方向転換させバックで店外に出し並べ始めた。ガタイは良いがさすがに重そうだ。しかし取り回しは手馴れている。そのうちに店舗内の通路が広くなった。

 掃除機の音がした。家庭用の掃除機でチマチマと店舗内のゴミを拾ってるようだ。
 邪魔にならないように私はオートバイの間をぬい、むき出しのエンジンや、ハンドルから伸びるコード、自分の顔が映るくらい磨かれたタンクを眺めて回った。タンクに指紋が残らないように手の甲で触れてみた。ヒンヤリとした感触が自分の熱を吸い取るようだ。
 奥の事務所は3、4人が座れるカウンターになっている。掃除機をかけ終わったおじさんはそのカウンターの内側に入りリモコンを操作し、カウンター奥の大きなモニターに映像を流した。
「これお客さんとのツーリング風景。ずっと放映してるの。何か他の観たい?」と聞く。
 何も知らない私が答えられるわけが無い。私が首を横に降ると、「あら、そう」と言って今度は拭き掃除を始めた。

 カウンターの椅子に腰かけて、モニターをぼんやり眺める。この店の駐車場だ。大きいオートバイが7台並んでいる。そこに、ヘルメットをした男たちが画面右からやって来て、オートバイにまたがる。革のワンピースのツナギだったり、革ジャンにデニムのベストを合わせて着たり、ほぼ皆、黒っぽくて、近寄り難い怖い雰囲気がある。革の手袋をつけ終わると、エンジンをかけ始める。映像の中でも爆音である。車体を真っ直ぐにし、左のオートバイから順に、一列に並ぶ仲間の前を通り車道へ出て行く。通る仲間に、拳を突き出したり、親指を立てたりして送り出している。最後の一台が出発すると、その後を車で撮っているであろうカメラが追う。前を走る7台の後ろ姿を延々と撮る。

 つまらない。カウンターに座る自分は凄く場違いな人間の様な気がする。
帰ろうとカウンターに両手をついた。

 カメラのアングルが変わる。先回りしたカメラがパーキングでオートバイ集団を迎える。入ってきた順にオートバイを横並びに停め、エンジンを切っていく。それぞれヘルメットを脱いで、ミラーにかぶせる。年齢層は随分と広そうだ。それでも皆、少年のような笑顔で嬉しそうに仲間を迎える。

 その笑顔に少し足を止めてしまった。

 全部のオートバイが停まり、男たちはオートバイの前に集まる。6番目に入って来た人は身のこなしがスムーズで若そうだ。ヘルメットを脱いで、ミラーにかぶせ、革の手袋を外す。その横顔をカメラが捉えた。

 通った鼻筋、長い睫毛。ペットボトルの人だ。声が出そうになる。

 彼は仲間の輪の中に入り、腰を下ろし、あぐらをかいた。セパレートの黒い革を着た背中が映る。風が黒髪を揺らしている。
 ドリンクを飲んだり、タバコを吸ったりする7人をぐるりと撮る。また、一瞬、隣の人と笑い合う彼を見ることが出来た。
 真面目に皆で何かを語っていたかと思うと、時々わっと笑い声が沸き起こる。何が楽しかったんだろう。どんな話をしたんだろう。

 また、彼らはオートバイに跨る。今度はカメラを足元に設置している。オートバイを起こし、エンジンをかけ、左足で、横に出ている棒を後ろに蹴り、1台、また1台と発進する様子が流れる。

 自分が今まで触れることもなかった違う世界だ。目の前の全然別の世界に彼はいる。

 カウンターを拭くおじさんが「最後に出発したのわたしっ」とダースベイダーのようなヘルメットをしたライダーを指さす。
 そう言われてみればそうだった気もする。気付かなかった。

「凄く、カッコいいですね」と取り敢えず言った。相手が欲しい言葉は何となく分かる。
「わかる?いいでしょ?乗りたい?」
「いえ、いや、ええ......」
「バイク乗ったことないでしょ」
「は、はい」
「大丈夫、安全に楽しく乗りこなせるようになって、この店からマシンを買って、ずっと乗り続けられように懇切丁寧に、指導するから」
「え?」
「車の免許はある?」
「それはあります」
「よかった。15、6歳かと思った」
「あ、一応、大学生です」
「えーーー?そうなの?」
 大袈裟に驚かれる。オシャレや化粧は好きじゃないが、一応、日焼け止めとリップは塗っている。



 アパートの部屋のテーブルの上に放り出したのは、自動車学校の申込書、安全運転の手引き、オートバイとヘルメットとウエアのカタログなど、幾重にもなったお土産だ。

 窓を開け、テーブルの横にゴロンと寝転んだ。天井の蛍光灯の紐が微かに風に揺れる。

「満足したじゃん」と口に出した。

「何やってんだろ。私」
 涙がこぼれた。


サイドスタンド1

サイドスタンド3


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