右手にブーツ左手にグローブ【サイドスタンド3】
5日後、午後の気怠い時間帯にバイク店へ行った。ツナギのおじさんにカウンターの中からおいでおいでと手で招かれる。今日はオレンジのツナギだ。
「で?」
「で??」
「まず、座りなさいよ。バイクに乗りたくない人は、普通、来ないもの」
「どう考えても、私、乗れないです。背も高くないし、足も短いし」
立ったまま答える。
「あら、じゃあ、わざわざ断りに来たの?別に電話でもいいし、何なら連絡くれなくてもかまわなかったのよ」
「あ、そう…なんですね……」
また、客はいない。モニターにはあの映像が映っていて、皆で車座になって話している場面だった。チラリと笑顔の彼が映る。
キシキシモヤモヤは以前より頻繁に出現している。穏やかに生きていればいずれ治まるのだと感じ始めた。気持ちがザワつくような事をしなければいいのだ。
しかし自分の口から出た言葉は、未練たらしいものだった。
「どんな気持ちなのかなってのはあって……」
私の見たことの無い景色が、笑う彼の瞳に写っている。彼が感じている物はなんだろう。それがなんなのか知りたい。漠然とそう思っていた。
「気にはなるのよね?何となく」
ただ大袈裟過ぎる思い込みかもしれない。何ら変わらない日常かもしれない。
「ちょっと、思っただけで、やっぱり冷静に考えたら…」
「待って、喉乾いちゃった。座ってて」
ツナギのおじさんが奥に消えた。少しすると長いグラスに氷をカラカラさせてアイスコーヒーを持ってきて、私の前に置いた。丁寧に、紙のコースターに乗せ、シロップ、ミルク、包装されたストローを付けてくれた。
「すみません」
「コーヒー飲めるでしょ?で、少し、パンフレット見た?」
「あ、はい。えと少し」
自らもアイスコーヒーをゴクゴクと飲みながら、
「あんなんで、分かるわけないわよね」とあっさりと言い、「ほら、あれ、あたしぃ」と目を細めてうれしそうに映像を指さす。
分かるわけないよねって。あんなにパンフレット持たせたくせに。乗れないのは最初から見透かされていたんだ。まぁ、いいけど。
走り続ける人達の背中を眺めながら飲むアイスコーヒーはミルクとシロップを入れても、ほろ苦かった。
見覚えのあるトラックが店舗横を通り駐車場に入ってきた。
「社長!納車してきました」
紺のツナギを来た若い茶髪の男性が工場側から勢い良く入ってきた。
「御苦労さん。遠かったから大変だったでしょ」
「いえ、お客様が大層喜んでくれて、仕事冥利に尽きますよ」
「あんた、女の子いるからって、優等生の答え方したでしょ」
「あ、分かります?アハハ。やーあっついよぉ!」と、両手で髪をかきあげ、つなぎの上半身を脱ぎ、下に着ていたTシャツの裾をパタパタさせてエアコンの下で涼む。ゆるくカールした茶髪に隠れていた耳朶は小さい金のピアスで飾られていた。年下のようだ。
「あー、もしかしてバイク乗りたいかもしれない女子ですね」と、横目で私を見る。
「ほーら。来たでしょ」
「社長、流石です」
「でも、断りに来たんだって」
「わざわざぁ?」パタパタの手が止まる。
いや、来ない方がそんなに良かったか?しかも、おじさんが社長?紺のツナギの男性は多分、私のアパートの駐車場まで彼を迎えに来た人だ。声のトーンに覚えがある。
「え?この人社長?って顔したわね。せっせと掃除してたものね。あたし」
「はい、いや、いえ」
「こっちは本店。このボクちゃんと二人でやってる趣味みたいな店なのよ。しっかり働いてるのは支店のほう。二人してぐうたらなのよ。うふふふ」
「社長!お客さんの前でだけ、ボクちゃんはやめてくださいね」
迷惑顔の紺ツナギの青年が書類を手にカウンターを回り、事務所に入る。
「だって、この子、客じゃないもの。んふふふふ」
あまり、責めないで欲しい。
「断りに来てしまってすみません」
「ねぇ、断るのやめて、お客になりなさいよ」
「……いや、乗れないし、買えないです」
「じゃあ、試してみてから決めたら?」
「試してみて?」
「ボクちゃぁ~ん、ねぇえ、どうせもう暇でしょ?」
「だから、ボクちゃんやめてって。酷い社長でしょ」と、奥から出て来る。
頷いた次の瞬間、紺つなぎのボクちゃんに腕を掴まれ、
「ねえ、こっち来てみて」と、工場の入り口のハンガーラックの前に連れていかれる。
「ジーンズでよかったね」
「はぁ?」
「これかな。あと、これでいいか」
ジャンパーを着用させられ、工場から駐車場にでた。彼の手にはヘルメットがある。
「これ、かぶって。多分Sサイズでいいと思う。うん。かぶり方はね…」
ヘルメットを渡され、付け方を丁寧に教えてくれる。何とか頭を押し込む。イキナリ視界が狭くなり、怖くなる。ヘルメットをコンコンと叩いたボクちゃんが覗き込む。顔が近くてびっくりする。
「頭を守るから大事なの。ヘルメットは。少しづつ慣れていくから。はい、上向いて」
顎の下にあるベルトを閉めてくれた。
「グローブして。手もSサイズだね」
手先を見るのも難しい。ヘルメットが重くて歩くのもおぼつかなくなる。
腕を引かれて、駐車場にでる。
ボクちゃんが工場から、1台のオートバイを押してきた。なんの模様もない、赤色のオートバイ。
「車の免許はあるんだよね?これは、50cc以下だから、あなたの免許でも乗れるやつ。乗ってみて。大丈夫、僕、支えてるんで」
返事の代わりに喉の奥がゴクッと鳴った。確かに店舗内の大きなオートバイより小さい気はするが、傍で見るとそれなりの大きさと重量感がある。
ボクちゃんに促され、少し斜めになっているオートバイに跨る。右足が浮く。
「はい起こすよ」と言って、ボクちゃんが左隣に回って両手でハンドルを持ち垂直にオートバイをたてる。両踵が浮く。
「足の先しかつきません!」
「いいの。片足つけば大丈夫だから」
「ええ?」
「スイッチ。このボタン押して」
キュキュルキュルルルルブバババババという思ったより大きな音に身が竦む。
「はい、エンジンかかった。この位置がニュートラルね。ここにランプついてるでしょ?車と同じ。ギアが入ってない場所。左のレバー握りながら左の爪先の下にある部分、シフトペダルって言うの。踏んで」
つま先でシフトペダルとやらを探し、言われた通りにする。ガッと車体から体に振動が伝わる。
「今ねロー、1速に入ったの。見てランプの位置が違うでしょ?で、つま先をさっきのシフトペダルの下に入れて軽く押し上げて。左レバーはクラッチだからね。握ったままだよ。そうそう、そうするとニュートラルに戻るから。また握ったままもう一つ上に上げてこれが2速ね。次が3速と4速、5速まで入るから。はい、ニュートラルに戻して」
なんでこんなに面倒なのだろう。なんで自分はこんなことやってるんだろう。
お構い無しにボクちゃんの説明は続く。
「右手がアクセルね。手前に回すとスピードが出るの。右足のペダルは後ブレーキ。右手のレバーは前ブレーキだよ」
さっぱり分からない。
「じゃあ、走ってみる?」
「む、無理です。何もできてない」
「ま、やってみようよ、ここから工場のシャッターの柱まで。ローに入れたら、半クラッチの感じで」
半クラッチ?
ガッと前輪が浮き上がる感じがしてエンジンが止まった。
車体が右に倒れそうになり、ボクちゃんが即座に支えてくれる。一瞬オートバイの重みが手にかかった。重過ぎる。これを動かせるのか?思わずボクちゃんを見る。
「大丈夫。こんなん、コツだよ。身体が覚えるから。頭で覚えなくていい。発進したら、すぐ2速にして。ゴンゴンしないでスムーズになるから」
ボクちゃんは、何度も車体を倒す私に凝りもせず丁寧に教えてくれた。
途中、トイレ休憩で自分の左右の膝の内側に、新鮮な青アザが数箇所あるのを発見した。オートバイを倒した時のものだ。
時々社長が見に来ていたが、電話のベルがカウンター奥から頻繁に聞こえてきて、その度に走って戻って行った。
「皆さん、倒すものですか?」と聞いてみた。
「いや、そんなに倒さないよ」あっさりと言われる。
絶望的だ。淀みなく真剣に教えてくれるので、辞めたいと口を挟めない。やっと、「すみません… 」と言えたものの、
「いいよ。暇だから。これに何人も乗って、元々傷だらけだし気にしないで」と表情も変えずに言われる。
何人も教えている?このまま、教えてやっただろうと言われて、オートバイを買わされるのでは無いだろうか?不安になる。
集中力が緩慢になって、手の力が抜けた途端エンストし、車体が倒れそうになったが、何とか、ひとりで持ち堪えることが出来た。
「おー、えらいえらい」とボクちゃんと顔を出した社長が手を叩いて喜ぶ。
なんとか柱まで走行できるようになったのは陽がだいぶ傾いてからだった。
力の入らないプルプルした手でグローブを外し、ヘルメットを取り、ジャケットを脱いだ。頭が沸騰してるように額と背中を汗が走る。どっと疲れが押寄せ、フラフラとカウンターに向かう。
ボクちゃんはさっさとカウンターに入り、自分の家のように缶コーラの蓋を開け飲みながら、何事も無かったかのように工場へ消えた。
「どう?」と社長がコップを持ってきて、炭酸を注いでくれた。
「楽しかった?」
多分、今の自分は、汗だくで、髪もメチャメチャで、酷い顔なんだろうけれど、それを隠すすべも力もない。
やっと声が出た。
「あ、あの、自分がオートバイにまさか乗れると思わなくて、えと……」
無数に弾けるソーダの泡がボヤけ始める。
どうしよう。人前で泣いたことはないのに。
「良かったじゃない。乗ってみてさ」
社長がティッシュの箱を私の方に滑らせた後、
「じゃあ、また来たらいいわよ」と言って、背を向けた。
オートバイに乗っている自分なんて想像がつかなかった。あんなのろのろでも気持ちの良い風を感じることが出来た。自分が起こした風だ。
グジグジと鼻水をティッシュで拭う私に、社長が背中を向けたまま言った。
「あれ、ニイハンだから」
頭の中であまり聞いた事のない『にいはん』という言葉を探す。『にいはん?ニイハン?』
「ニイハン!?250ccってことですか?どういうことですか?」
カウンターをひっぱたいて、立ち上がり呆然とする私を振り返り社長がニッコリと笑った。工場から「教え上手なんですよ。僕。アハハハ」と高笑いする声が聞こえた。