前回、潜行ルートをなぞってみると宣言しておきながら、
今回はちょっと脱線して
辻さんが当時考えていたことを読み解いてみようと思います。
なるべく、彼の言葉を拾いながら。
2019年に改めて刊行された【完全版】の『潜行三千里』には、
「我等は何故敗けたか」という文書が収録されています。
これは、辻さんが潜伏中にGHQの監視を上手くかわしながら
親日派の中国人に頼んで、密かに日本の留守宅へ届けてもらった
6冊のノートのうちにあった一稿だそうです。
『潜行三千里』の「父の記、子のたより」にある一文に、
このことについての言及があります。
辻さんから遺族の方に、
「自分の死後に開封するように」と口添えされていたため
72年間、秘蔵されていた貴重なもの
と、2019年版の『潜行三千里』には紹介されていました。
一人称が「父」になっていて、
ご子息への手紙のようなかたちで書かれていました。
早速思いを馳せてしまいますが
個人がどれだけ辛苦を呑んでも、
結果が望ましいものにならないことはいくらでも起こり得ます。
一人の力でどうにかなるものではないのに、
すべての責任を引き受けようとするのは
それを美徳とする文化が日本にあるからでしょうか。
敵陣(新政府軍)に乗り込み、
赤誠によって江戸城無血開城に至る会談の約束を取り付けた
山岡鉄舟という方の逸話を思い出しました。
そういえば、辻さんも
陸軍の中では、仲間たちの士気を上げるのに
一役も二役も買っていたと聞きます。
「全陸軍をある程度引き摺った」ほどに。
こういうのって、
利己的な打算を建前で糊塗しながらできるものじゃないと思います。
感覚的にバレるからです。
下心が透けて見えた瞬間に、人心は離れます。
「無私の奉公」と呼べることを、
辻さんのやり方でまっすぐ実践していたからこそ
人がついて来たんじゃないか。
今までもそうやって人生を切り拓いてきたからこそ、
「大事な場面で力及ばなかった」という発想になったのでは…
と想像してしまいます。
……私見ながら。
敗戦への思い
ここで名前が出た楠公(楠木正成)と、浜田中将には
それぞれ強い思い入れをお持ちだったようです。
辻さんのお墓は、ご本人の希望もあって
楠公に縁のある四條畷の戦場が一望できる場所にあります。
また、戦後腹を切ることを選ばれた浜田中将のことは、
『潜行三千里』のなかで、たびたび言及されていました。
彼の人柄への敬意と、その不遇への惻隠が綴られています。
とても気にかけられていたのが見受けられます。
楠木正成の息子である正行や
浜田平中将など
辻さんが好んだ英雄たちは
それぞれの場面で“潔い死”を選んでいったけれど、
彼はそれでも自分のやるべきことをやるために
「死に優る難関を予期しつつ」も、「後図を策する」道を選んだ。
それは「自利のため」ではなく、なんら「天に愧ずるものではない」。
これが、辻さんがご子息に明かした胸の内…
ということだと思います。
「我等は何故敗けたか」では、
この後、
日本の敗因を八つにまとめたかたちで挙げられています。
また後日、八つの敗因や
当時の世界情勢への辻さんの考えを
噛み砕いて理解して行こうと思います。
つづく